壱岐の神功皇后伝説


おことわり

神功皇后の話は、古事記と日本書紀に書かれていることは、すでに皆さん、ご存知のとおりです。

また、国語の教科書にも登場したこともあります。

古事記と日本書紀では、少し、話しの内容が異なるところもあります。

さて、壱岐の伝わっている、神宮皇后伝説は、この古事記や日本書紀に書かれている、神宮皇后とは、かなり異なっているところもあります。

この章をお読みになった方のなかには、まったく、古事記や日本書紀の内容と違うじゃないか、と思われる人もおられるでしょう。

しかし、この章で書かれている、内容は、壱岐に古くから伝わっているものです。

古事記や日本書紀の内容とは、矛盾する箇所もありますが、壱岐に伝わる神功皇后伝説である、ということをご理解ください。



生まれ

母親

日本では、弥生時代末期の頃、身分の低いある女が、新羅にある、阿具沼という沼のほとりで、昼寝をしていました。

その時、日光が女の陰部をめがけて、さし込みました。

それを見た、ある男が、そのようすを怪しいと思って、その女をしばらく、隠れて見ておりました。

しばらくして、昼寝をしていたその女は、日光が差し込んだ直後から妊娠し、赤い玉を生みました。

のぞき見していた男は、その玉を女に頼んで、もらい受けて、いつも腰につけていました。

この男の仕事は、山で働いている人たちに、食べ物や飲み物を、牛の背中に積んで、運ぶことでした。

ある日、この男が、食べ物や飲み物を、牛の背中に積んで、運ぶ途中、天の日矛(アメノヒボコ)という、新羅の国王の、王子に会いました。

天の日矛が、「お前はなぜ食べ物や飲み物を牛に負わせて山谷に入るのだ。きっとこの牛を殺して食うのだろう」、と言って、その男を捕らえて牢に入れようとしました。

その男は、「わたくしは牛を殺そうとは致しません。ただ食べ物を運んでいるだけです。」、と言いました。

それでも天の日矛は納得しなかったので、その男は、腰につけていた赤い玉を渡しました。

天の日矛はその男を許し、もらった赤い玉を、床の上に置いたら、赤い玉は、美しい女になりました。

天の日矛は、その女と結婚しました。

妻は、毎日、いろいろな、おいしい料理を作って、夫につくしていました。

ところが、ある日、天の日矛が、夫婦喧嘩をして、妻をののしった時、妻が、「わたくしは、あなたの妻になるべき女ではございません。これから、母上のいる国に行きます。」、と言って、ひそかに小船に乗って逃げだし、日本の難波
にやって来ました。

天の日矛も、妻を追いかけて、難波に入ろうとしましたが、海上の神が、じゃまをしたために、入ることができません。

しかたがないので、天の日矛は、但馬の国に船をとめて、そこで生活し、但馬の女、「前津美」と結婚しました。

やがて、子供が生まれ、その子供の4代目の子孫に、葛城高額比売(かつらぎたかぬかひめ)がいました。

この葛城高額比売(かつらぎたかぬかひめ)が、神功皇后の
母親です。

葛城高額比売は、第9代開化天皇の曾孫で、気長宿祢王(おきながすくねおう)と結婚しました。

この、葛城高額比売命と気長宿祢王との間に、生まれたのが、神功皇后です。



息長足姫 (おきながたらしひめ)

神功皇后の本名は、息長足姫 (おきながたらしひめ) 、といいます。

「息長(おきなが)」というのは、息長氏という、豪族の名前です。

旧市町村だと、「滋賀県坂田郡近江町息長村」の周辺で、今の滋賀県米原市のあたりです。

息長氏の支配地は、琵琶湖の東岸にあり
ました。

滋賀、京都南部、奈良北部、大阪東部が、息長氏の勢力圏内でした。

この場所で、神功皇后が生まれました。

神功皇后は、古墳時代の皇族(王族)といわれています。

それでは、この息長氏という豪族は、どのような豪族だったのでしょうか。

息長というのは、「息が長い」という意味があり、このことから、潜水を専門とする海人であったともいわれており、また、「風を吹く」という意味もあり、このことから、風の神で、ふいごを使う、製鉄の民である、とも言われています。


そして、この一族は継体天皇の大和入りを助けたともいわれています。



仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)

神功皇后は、ヤマトタケルノミコトの次男の、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と結婚します。

仲哀天皇は、神功皇后と一緒に、九州南部に住み、朝廷に反抗していた豪族、熊襲を討つために、大和から九州の筑紫にやって来ました。

筑紫の香椎(かしい)の宮で、天皇が、神様を呼ぶために、琴を弾きました。

その時、武内宿祢(たけうちのすくね)が、庭にいて、神がかりをした神功皇后から神の託宣がありました。

神は、「土地が荒れている熊襲を襲って、従わせるより、西の方に、金銀や宝物のたくさんある新羅という国があるが、その国をあなたに授けよう」と言いました。

しかし、仲哀天皇は、「高い所に登って西の方を見ても海ばかりだ。」と言って、神の言葉を信じようとせず、琴を弾かずに黙っていました。

これを見ていた神は、怒って、「この国は、あなたの治むべき国ではない」と言いました。

これを聞いた武内宿祢が、仲哀天皇に、「恐れ多いことです。さあ、そのお琴をお弾きになってください。」と、申し上げました。

そこで、天皇も琴を引き寄せて、しぶしぶ、少しばかり弾きましたが、まもなくして琴の音が聞こえなくなりました。

そこで、火をともしてみると、天皇は、すでに亡くなっておりました。

52歳でした。

神功皇后は、福岡に香椎宮を建てて、仲哀天皇をまつりました。









三韓征伐(三韓征伐)

新羅(しらぎ)征服

神功皇后が、天皇の葬儀をすまた後、もう一度、武内宿祢(たけうちのすくね)が神の宣託を聴きました。

神は、「新羅の国は、皇后の胎内にいる御子が治むべき国だ」と告げました。

武内宿祢(たけうちのすくね)は、「そのような宣託をした神様は、何という神様ですか。」と聞きました。

神は、「私は、天照大神(あまてらすおおみかみ)である。そして、私の宣託を伝えた神は、上筒男命
(うわつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、下筒男命(そこつつおのみこと)である。

西の国に渡るなら、天地の神、山の神、海河の神と、私
(天照大神)の魂を船の上に祭り、木の灰をかごに入れて、箸と皿をたくさん作り、それらを全部、海の上に散らし、浮かべて渡るがよい。」と、言われました。

神功皇后は、神の教えたとおりに、軍隊を整え、多くの船を浮かべて、住吉3神を、守り神として、海を渡りました。


その時、たくさんの魚が、現われ出てきて、神宮皇后の船を背負って渡りました。

また、追い風が盛んに吹いて、船は波のまにまにものすごい勢いで、進みました。

神功皇后の乗った船の波が、新羅の国に押しあがって、波が国の半分を侵しました。

その様子を見ていた新羅の国王は驚き、畏れつつしんで、戦うことなく、「これから後は、命令にしたがい、毎年、多くの貢物を献上する船を送り、天地のあらんかぎりお仕えしましょう」と言いました。

新羅が降伏したことを聞いた、百済、高句麗も、そのとき、すぐに降伏しました。








鎮懐石(ちんかいせき)

三韓征伐に出発するとき、皇后の腹の中には、応神天皇がいました。

皇后は、3個の石を腰に巻きつけて、腰を冷やして、出産を遅らせました。

この、鎮懐石のおかげで、妊娠から出産まで
15ヶ月目に、筑紫に帰ってから、福岡県宇美町で応神天皇を産むことができました。

この3個の鎮懐石は、壱岐の本宮八幡神社、京都の月読神社、福岡県の鎮懐石八幡宮に奉納されています。

普通は、10ヶ月で生まれるので、15ヶ月まで伸ばしたということは、神宮皇后が持っている、神の力を示していて、生まれてくる子どもも、神の子であることを、暗示しています。




壱岐の応援部隊


雷大臣(いかつちのおうおみ)

神功皇后が、三韓征伐をするときに、壱岐からは、雷大臣(いかつちのおうおみ)と壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)の親子が一緒に行きました。

雷大臣(いかつちのおうおみ)は、三韓出兵から帰国後、再び百済に行ってこの国を治めました。

その後、対馬に行ってそこにとどまり、その子孫は壱岐や対馬で、占部(うらべ)になりました。


壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)

壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)は、雷大臣(いかつちのおうおみ)の子どもです。

三韓出兵に父親と一緒に行き、帰国後、壱岐にとどまって、三韓に対する守りをしました。

「直」は古代の氏姓制度の姓(かばね)の1つで、主として地方豪族の国造や郡司などがこの姓を与えられました。

275年、大和時代、応神天皇は、筑紫の国の様子を観察させるために、武内宿禰(たけうちのすくね)を派遣しました。

このとき、武内宿禰
(たけうちのすくね)が筑紫の国を領有し、三韓と組んで天下をとろうとしているといううわさが広がりました。

このうわさは、武内宿禰の失脚をねらって、武内宿禰の異母弟の、甘美内宿禰(うましうちのすくね)が天皇にうその報告をしたものでした。

これを信じた天皇は、兵を出して武内宿禰を殺そうとしました。

このとき、たまたま、
壱岐直真根子が武内宿禰に似ていたことから、真根子は武内宿禰の身代わりになって使者に殺されました。

武内
宿禰は、朝廷に会い、弁明しましたが、甘美内宿禰(うましうちのすくね)武内宿禰がお互いにゆずらないので、「深湯」(くがたち)をすることになりました。

兄の武内宿禰はひるまず熱湯に手を入れましたが、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)はおじけづいてやめてしまいました。

こうして、武内宿禰は無罪ということが分かりました。

また、武内宿禰は、甘美内宿禰を許してあげた、いうことです。

壱岐直真根子の墓は、郷ノ浦町志原にあり、箱崎村の小松原神社
(こまつばらじんじゃ)に祀られていると言われていますが、はっきりとは分かりません。


武内宿禰

景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の5代にわたって240年も仕えたといわれる伝承の人物です。

神宮皇后を助けて新羅と戦い、また応神天皇の即位に功がありました。



住吉神社

神功皇后の、三韓征伐のときに、神功皇后の乗った船を案内し、武力を伴うことなく、征伐できたのは、上筒男命、中筒男命、下筒男命という、住吉大神のおかげでした。

この住吉大神をまつるために、神功皇后は、住吉神社を建てました。

また、三韓出兵のとき、戦勝祈願のお祭りを執り行い、住吉神社の池に鏡を埋めました。

この鏡が、明治時代に、池を掃除したときに発見されています。

住吉神社については、「壱岐の神社」の章の「壱岐の住吉神社」参照。









風本(かざもと)と勝本(かつもと)

壱岐の北部に、勝本という漁村があります。

神功皇后が三韓征伐のために、壱岐の北部にあるこの村に、風待ちのために滞在していました。

ちょうど、都合の良い、追い風が吹いたので、出発することができました。

そのとき、神功皇后が、ちょうど良い風が吹いているこの地を、これから「風本(かざもと)」と、呼ぶように、いわれたので、以後、この地を風本というようになりました。

また、三韓征伐で勝利して、帰国する途中、また風本に立ち寄りました。

このとき、神功皇后が、これから、この地を、勝本と呼ぶようにといわれたので、以後、風本を勝本と呼ぶようになりました。

これが、今の、壱岐の勝本の語源といわれています。





東風石(こちいし)

東風石(こちいし)というのは、神功皇后が三韓征伐に、壱岐を出発するときに、追い風が吹くようにと、祈願したときに、祈りが通じて、割れた石です。

その石が爾自神社(にじじんじゃ)にあります。

東風石(こちいし)については、「壱岐の神社」の章の壱岐の爾自神社(にじじんじゃ)参照













聖母宮(しょうもぐう)

神功皇后をまつったり、敵の首を大量に埋めたとされる、聖母宮については、「壱岐の神社」の章の「壱岐の聖母宮」参照。

神功皇后が乗った馬のひずめの跡のついた石といわれる、馬蹄石(ばていいし)についても、「壱岐の神社」の章の「壱岐の聖母宮」参照。













印通寺(いんつうじ)

神功皇后が、三韓征伐のために西海に行ったとき、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子の十城別王(トトキワケノオウ)も一緒に行きました。

しかし、この王は、途中で、こわくなって逃げ出しました。

皇后は、
十城別王に勇気がないのを恨んで、槍をとり、逃げていく王の背中をめがけて、投げつけました。

その槍は、みごとに、十城別王の背中を射通しました。

印通寺の地名は、ここから起こったといわれています。









志自岐神社(しじきじんじゃ)

神宮皇后から殺された、十城別王十城別王(トトキワケノオウ)をまつってある神社です。

志自岐神社については、「ゆっくり歩きたい散策コース」の章の「壱岐の神社十七社15.志自岐神社」を参照。















錦浜(にしきはま)

神功皇后が、三韓出兵で、壱岐を出発してから、途中で、逆風に会い、船が遭難し、また壱岐に戻って来ました。

このとき錦(にしき)の衣がぬれていたために、この浜で錦の衣を干して、乾かした、という事からこの名が伝わっています。

また、ここに打ち寄せる色とりどりの貝殻屑を錦貝と呼ぶようになりました。













衣かけ石(きぬかけいし)

神功皇后が、三韓出兵で、壱岐を出発してから、途中で、逆風に会い、船が遭難し、また壱岐に戻って来ました。

このとき、ぬれた着物を乾かすために、着物をかけたといわれる、石が「衣かけ石」です。

「衣かけ石」については、「ゆっくり歩きたい散策コース」の章の「壱岐の印通寺港の散策」を参照。
















七湊(ななみなと)

神功皇后が、壱岐を出発してから、途中で、逆風に会い、船が遭難し、また壱岐に戻って来ました。

このとき、神功皇后が、ここに七日間船を停めたこ、ということから、この名がつきました。














夕部(ゆうべ)

神功皇后が、見晴らしの良い、長岳に上ったときに、この周辺に住んでいる神々が、「いつ、印通寺に来られましたか?」と、聞きました。

このとき、神功皇后が、「ゆうべ、来た。」、とこたえ、次のような歌を詠みました。

夕べきて 今朝うちみれば すげのはま 今里ならび 下るなるらん

これから、このあたりの場所を、夕部と呼ぶようになりました。











白砂八幡神社(はくさはちまんじんじゃ)

神功皇后をまっつてある、白砂八幡神社については、「壱岐の神社」の章の「壱岐の白砂八幡神社」を参照。

神功皇后が、座ったという、「御掛けの石」についても、「壱岐の神社」の章の「壱岐の白砂八幡神社」を参照。

神功皇后の御飯を炊いたという「井戸水」についても、「壱岐の神社」の章の「壱岐の白砂八幡神社」を参照。











赤瀬鼻(あかせばな)

神功皇后が、出産のとき、出血で、周辺の石が、赤く染まったといわれている場所です。

赤瀬鼻については、「ゆっくり歩きたい散策コース」の章の「壱岐の赤瀬鼻散策」を参照。

















御手洗川(みたらしがわ)

錦浜に注ぐ川を、御手洗川(みたらしがわ)といいます。

神功皇后が、出産のときに、使った水が流れている川です。

御手洗川については、「ゆっくり歩きたい散策コース」の章の「壱岐の浦海海岸散策」を参照。














柄杓江(ひしゃくごう)

神功皇后が、この地でお産施設を建てて、柄杓江(ひしゃくごう)と呼ばれている場所の水を産湯に使ったということです

柄杓江(ひしゃくごう)については、「ゆっくり歩きたい散策コース」の章の「壱岐の浦海海岸散策」を参照。
















湯ノ本温泉(ゆのもとおんせん)

神功皇后が、壱岐で子どもを産んだときに、産湯をつかわせた、といわれている温泉です。

湯ノ本温泉については、「壱岐の温泉」の章を参照。















政治

神功皇后は、その後、応神天皇が幼少のため、政務を執ることができないので、摂政となり、政治を行いました。





神功皇后は実在したか

神功皇后が、実在したかどうかについては、実在説と非実在説があります。

「日本書紀」によると、
神功皇后は3世紀の古墳時代にいた人物、となっています。

しかし、3世紀というのは日本では弥生時代です。

この時代は、豪族たちが諸国に分かれ、争っていた時代で、大和政権ができる前の時代です。

大和政権ができる前の時代に、海を渡り韓半島を征伐したとは考えられません。

そのことから、神功皇后は実在しない人物だと考えられています。


また、神功皇后の、行動について、あまりにも、超人的な行動や、神がかり的な行動がたくさんあります。

たとえば、三韓征伐のときに、懐妊していたので鎮懐石を腰にはさんで出征し、帰国してから出産(産み月を延ばした)し、15ヶ月も妊娠していたという話しや、遠征のときに、魚の助けによって船を進めたか、勢い余って波とともに、新 羅の国の半ばまで押し上がり、驚いた新羅王が降伏したとか、という話しなどです。

まるで、おとぎ話の世界にいるような話しがたくさん残っているからです。

この当時、日本国を統一するために、血や汗を流して戦った、数え切れないほど多くの兵士たちのエピソードを、神功皇后という、一人の架空の人物を仮定し、作り上げた物語だと、考えられます。





お札

明治14年に、日本で初めて、お札に人物の肖像画が描かれました。

この時、1円札、50銭札、20銭札、
10円札、5円札、に描かれたのが神功皇后です。

お札は、みつまたを原料にし、偽造防止のためにすかしを入れています。

イタリア人彫刻家エドアルド・キヨッソ−ネが印刷局の職員の日本女性をモデルにして、原版を作成しました。

しかし、その顔は、日本人ではなく、西洋人風になっています。

日本書紀によると、神功皇后は、「幼にして聡明叡智、容貌壮麗」とあります。

お札のモデルもこの条件にあっている女性を選んだのでしょう。






ご利益

神功皇后は、応神天皇の他に、籠坂(かごさか)皇子、誉屋別(ほむやわけ)皇子も産んでいます。

このことから、神功皇后は、安産の神様であると同時に、武勇の神様としても扱われ、勝運、厄除け、病魔退散などの、神様としても、扱われています。



古墳

神功皇后は、100歳でなくなりました。

その墓は、現在の奈良市山陵町にあります。

全長
275mの前方後円墳です。

4世紀後半から5世紀の初めに作られました。

2003年に、宮内庁が発掘調査を行い、前方部が3段、後円部が4段の段丘構造をもっていることが確認されました。

2008年2月に、墳丘1段目までの平らな部分までの立ち入り調査が行われています。

しかし、発掘調査は宮内庁が認めなかったので、ふき石や埴輪の残存状況、墳丘の裾の部分を見ただけでした。

そのため、あまり、成果はありませんでした。



卑弥呼(ひみこ)

日本書記は神功皇后が卑弥呼であるような書き方をしています。