印通寺散策


印通寺港(いんどうじこう)

奈良時代、平安時代までは、遣唐使や遣隋使たちが、一休みしたり食料調達などのために立ち寄りました。

江戸時代には、壱岐で収穫された米などの農産物を、平戸の松浦藩に積み出す、積出港でもありました。

今は、壱岐と唐津を結ぶフェリーの発着所でもあります。

最近、フェリーは新型が運行されています。

印通寺港には、次のようなお話があります。

昔、神功皇后が、三韓征伐のために西海に行ったとき、日本武尊(やまとたけるのみこと)の子の、十城別王(ときわけのみこと)が一緒に行きました。

しかし、この王は、こわくなって印通寺で逃げ出しました。

皇后は、十城別王の勇気がないのを恨んで、矢を手にとり投げつけたら、正確に十城別王の背中を射通しました。

ここから、その場所を射通というようになり、これがなまって、印通寺になったということです。

















妻ケ島

印通寺港に立って正面を見ると、前方に大きな島が見えます。

この島が、妻ケ島です。

つい最近まで、百崎夫妻がたった1件だけで12代に渡って住んでいる人がいた島です。

高齢になった百崎夫妻は平成
14年夏、島を出ました。

200数10年有人島が続いていたがついに無人島になりました。













この島には、伝説のある神社もあります。

この神社は衣通姫神社(そとおりひめじんじゃ)と呼ばれています。

衣通姫は、日本書紀では古墳時代の允恭天皇(いんぎょうてんのう)の妃(きさき)になっていますが、古事記では允恭天皇の娘になっています。

絶世の美女で、色が白く、その白さが、着ている衣装から透き通って見えるくらいだったいいます。

小野小町と並ぶくらいだったともいわれています。

古事記によると、兄の軽太子(かるのひつぎのみこ)と、近親相姦の関係になり、兄は、そのため、伊予に流され、衣通姫もあとを追いかけ、2人は心中したとあります。

和歌にも秀でていて、柿本人麻呂や山部赤人と並んで「和歌三神」と呼ばれていました。

問題は、衣通姫神社がなぜこの妻ケ島にあるのかということです。

もともと、妻ケ島という名前は、平戸藩の側室(名前は分かりません)がこの島に流されたことからつけられました。

衣通姫神社もこのことと関係があるのかも知れません。








松永記念館

電気の鬼といわれた松永安エ衛門(まつながやすざえもん)の功績をたたえて、生家跡に建てられました。


明治
時代に、福岡で最初にチンチン電車を走らせた人でもあります。

写真の電車は、博多の路面を走っていた西鉄のチンチン電車です。

入り口に展示してあります。
















松永安左エ門
は、明治時代に、印通寺の造り酒屋、海産物問屋、回船問屋を営む商家に生まれました。

明治、大正、昭和の3代を電力一筋に生き、電力の普及と振興につとめた人です。

13歳の頃、福沢諭吉が書いた「学問のすすめ」を読み、影響を受け、慶應義塾に入りました。

大学に入った、安エ衛門は、同僚たちと一緒に、福沢諭吉が飼っていた、鶏を捕えて、鳥鍋にして食べてしまい、それが縁で、諭吉の家にあしげく、通うようになりました。

諭吉は、鶏を食べられたことを知っていて、鳥鍋なら、私の家に来れば、食べさせてあげる、と言ったそうです。

慶応義塾を中退し、日銀の為替課の勤務を経て、神戸に福松商会を設立、石炭商として活躍しました。

このとき、同じく壱岐出身の財産家の熊本利平(後述)も、慶応義塾を中退して、福松商会に入社しています。

敗戦後、日本の電力の再編成と、電力事業の建て直しに力を注ぎ主導権を発揮し、「民電9電力体制」を築きました。










志自岐神社(しじきじんじゃ)

とても静かな海岸のそばにあります。




















本殿は、長い石段を上った所にあります。

神功皇后から、矢を放たれ、亡くなった、十城別王(とおきわけのみこと)他6神を祭った神社です。



















境内には、他に淡島さん(安産の神)をまつった石の祠があります。

















狛犬が逆立ちしています。































この神社には、いろいろな種類の石像や絵馬がたくさんがあります。

ぜひ、ご覧あれ。



















碧雲荘(へきうんそう)

印通寺港を見下ろす高台にあります。

朝鮮でひと財産を築いた、地元出身の熊本利平が昭和
16年に住宅として建てたものです。


















熊本利平は、慶應義塾中退後、一時、同窓生である壱岐出身の松永安左エ門が経営する、神戸の福松商会にいました。

その後、朝鮮に渡り、松永を介して日本人の財界人から資金援助を受け、その資金を元手に、朝鮮の土地を約4,000町歩買い占め、熊本農場を経営し、莫大な財産を築きました。

ここでは、2,700戸の農家を使用していました。

今の壱岐の農家数は、約3,500戸ですから、いかにその規模が大きいか分かります。

4,000町歩という数字ですが、縦、横約6.3kmの長さの農場ということになります。

壱岐の田畑面積の合計の約3倍です。

終戦後は、壱岐に帰り、印通寺港の周辺の防波堤や小学校の講堂や道路建設のための費用を寄付しています。

しかし、なぜか、当時の教育関係者の受けが悪く、寄付を申し出ても断わられることもあったそうです。

熊本利平は松永安左エ門の妹婿でもありました。

主屋、門、庭園が残っています。























花雲亭

昭和17年に、旧宮家の久邇宮家(くにのみやけ)が、東京渋谷の常盤松に造った茶室を、壱岐の熊本利平に譲り、それを移築したものです。

戦後、一時、民宿に転用されましたが、現在では総合福祉センターの一部として市が管理しています。

寝殿造りをベースにした、わび、さびの雰囲気を持つ茶室です。












衣かけ石

昔、神宮皇后が三韓出兵のときに、玄界灘の逆風に会い船が難破しました。

このとき、神功皇后が着ていた、錦(にしき)の衣服がぬれていたために、この石に着物を干したという石です。

















松永安左エ門生家

松永記念館のすぐとなりにあります。

江戸時代に建てられました。

木造2階建、切妻造り、浅瓦葺きの住居です。

生家は、造り酒屋、雑貨販売、貸金業、各種の問屋を営むなどなど、多角経営で知られた旧家でした。

祖父の、初代安左エ門は、裸一貫から、これだけの事業を行っていました。

祖父は、3代目の安左エ門が9歳のとき、亡くなっています。








身投げ石

崖の頂上に、3つの大きな岩が並んでいます。

通称、身投げ石と呼ばれています。

壱岐の海岸は、玄武岩でできていますが、写真の石も玄武岩です。

それにしても、身投げをするには、ピッタリの場所なので、身投げ石と名づけられたのでしょうか。

高さは、20mくらいだと思います。

実際に、ここから、身投げがあったのかは、定かではありません。










城瀬海岸

この周辺は、荒々しい、海岸風景が続いています。

赤くなっている場所は、岩石に含まれていた、鉄分が、溶けて、赤くなったものです。

崖の上から、大きな石が落ちてきています。

波の浸食や、風化で崖が削りとられて、壱岐の島がすこしづつ小さくなって、いくのが分かります。













唐人神社

詳しくは、壱岐の唐人神を参照してください。