浦海海岸


浦海海岸(うろみかいがん)は、2回、壱岐の歴史に出て来る場所です。

1回目は、鎌倉時代の元寇のとき、対馬を侵略した元軍が、壱岐で1番最初に、上陸した場所です。

2回目は、室町時代に、日高氏と波多氏が壱岐の支配をめぐって、この浦海で戦争をしました。

このため、浦海村は、完全に崩壊しました。

元寇の前には、千軒の家があったという記録があります。

千軒あったというのは、ちょっと、オーバーだと思いますが、かなり、にぎわっていたのは確かです。

「海東諸国記」には、
50余戸とあります。

しかし、たび重なる戦場となって荒廃し、そのうえ、
江戸時代には、湯ノ本浦の埋め立てが完成し、浦海の民家は湯ノ本に移転させられました。

現在は、海岸に面して数件の家があるだけで、昔の面影はありません。





報恩寺


壱岐の報恩寺を参照してください。




















浦海地蔵


この場所にある、お地蔵様を初めて見たとき、背筋がゾクゾクしました。



















それほど、このお地蔵様は、奥深いものがあります。

一度報恩寺に移しましたが、いろいろ不吉なことがあったので大正の中頃、また元の地に返しました。

毎年、村の人たちが十夜をして供養しています。














岳の山

小高い山が岳の山です。



















頂上には、元寇の千人塚らしきものがあります。

岳山権現もあります。

和歌山県弁婁
(むろ)郡にある熊野権現と同体です。

いつ造られたかは分かりません。














浦海漁港

とても、のどかな漁港です。

訪れたときは、快晴で、近くの人が釣りをしていました。

釣り上げた魚は、アジです。

それにしても、良く釣れるものですね〜。

海面をのぞきこむと魚がたくさん泳いでいます。














海岸からは、黒ケ島や猿岩が見え、とても景色の良いところです。


















浦海神社


右の神社は、浦海神社(うろみじんじゃ)といいます。

小さな神社ですが、漁の安全と大漁祈願を祈るために、毎日、地元の人がお参りしています。

















元寇の上陸地

浦海海岸は、元寇(文永の役)のとき、元軍が、最初に上陸した場所です。

この海岸から上陸した元軍は、残虐の限りをつくしました。


















それにしても、見晴らしが良くて、素晴らしい景色です。

ここから、元軍が攻めて来たとは、とても信じられません。


舟が見えますが、地元の漁師がナマコをとっているところです。















浦海海岸に上陸した元軍は、山を一気に駆け上り、壱岐の中心部まで侵略しました。

それにしても、波静かで、良い所ですね〜。


















左の写真は、浦海神社にある千人塚です。

この千人塚は、元寇の犠牲者の冥福を祈るためにたくさんの石を積み上げたものです。

壱岐にはこのような千人塚が各地にたくさんあります。















竜王崎

浦海海岸の先端を、竜王崎といいます。

前の海には、浅瀬が3つあり、漁船にとって、とても危険な場所で、漁船が浅瀬に乗り上げて、良く遭難していました。

そのため、夜に浅瀬を確認できるように照射塔を造りました。

写真に白い塔が写っていますが、
これが照射灯です。












海面から灯火の中心まで
43mあります。

昭和53年に設置されました。

さて、この竜王崎ですが、鎌倉時代に、元軍が壱岐で最初に、上陸した場所です。

また、室町時代に、壱岐の支配を巡って、日高氏と波多氏とが争った場所でもあります。

浦海の合戦では、戦いに敗れた、対馬勢が逃げるとき船に乗れないで、海水におぼれてたくさんの人が死にました。

また、その日討ち取った者は
3000人余といいます。

この竜王崎に
3つ穴を掘って千人を埋めたといいます。

江戸時代に書かれた本によると、たくさんの白骨が海岸にある石の間から、見えたということです。







雪の島

白い流紋岩が、最初にあった黒い玄武岩を突き破って、地下から出てきてできたものです。

島のある場所だけが白くて、他の場所は黒い玄武岩がゴロゴロしています。

頂上には、草が生えていますが、実は、この草、江戸時代に書かれた書物にも描かれています。

江戸時代にはこの石の色で天気予報をしていました。

白っぽくなると晴れ、灰色で黒っぽく見えれば雨が降るとされています。

雨が降っていても白く見えるときにはやがて晴れるといいます。

流紋岩は砥石の原料になります。

「恋しくはなとか問なん雪の島岩ほにさけるなてしこの花」  宗祇順国方角抄

「雪の島牧の子牛の三とせまてはなさぬほともたえかたの世や」  夫木






ムラサキカタバミ

海岸の周辺の道端には、ムラサキカタバミの群落があります。

外国からやってきたと言われていますが、とてもきれいな花ですが、農業をする人にとっては、やっかいな花です。

ムラサキカタバミについては、壱岐の花のムラサキカタバミを参照。

カラムシとの生存競争をしているところです。

どちらの植物も根で増えるので、人間の方が根負けしそうです。










地殻変動

対岸の崖を見ると、ダイナミックな壱岐の古代の地殻変動のすさまじさを見ることができます。

先ず、海底で、海流が運んできた、砂や小石が積もって、いくつもの地層ができました。

その後、、火山や地震で、海底が隆起し、地上に現れてきました。

その時、なんらかの事情で、斜めに海底の地層が地上に現われたものと推定されます。

長年の風雨や波の浸食を受けて、このような形になりました。

斜めなったたくさんの地層を肉眼でもはっきりと見ることができます。








賽の神

賽の神の馬場にあります。

以前は、もっと古い自然石で作られていました。

男女の性器を木で作って差し上げます。

また、ブリキで作った鳥居も置きます。

本殿には、猿田彦がまつってあります。










金比羅宮

左の景色は、金比羅宮からの景色です。



















御手洗川

神功皇后が三韓征伐の帰り、この地でお産施設を建てて、後の応神天皇を産みました。

そのとき、柄杓江(ひしゃくごう)と呼ばれている場所の水を産湯に使ったということです。

それから、この地を御手洗(みたらい)というようになりました。














柄杓江(ひしゃくごう)

この写真は、御手洗湾(みたらいわん) 入口にある洲です。

水をくむ柄杓の形に似ているので、柄杓(ひしゃく)と呼ばれています。
















鞍馬滝(くらまのたき)

この断崖絶壁を鞍馬の滝といいます。

壱岐では、このような断崖絶壁を滝と呼んでいます。

みごとな玄武岩の柱状節理です。

室町時代、この海岸で、壱岐の支配を巡って、波多氏からそそのかされた対馬の宗氏の軍勢が100隻余りでこの海岸に攻めてきました。

これを待ち伏せていた日高喜、平戸の松浦鎮信の連合軍は、対馬軍と戦い大勝利をおさめました。

この鞍馬の滝は対馬の大将田原修理が隠れた場所です。

浦海の合戦で対馬勢は負けて、船に乗って上松浦をめざして逃げようとしました。

このとき、対馬の大将田原修理が、船に乗り遅れ、鞍馬滝の岩陰にかくれました。

池田の山伏が、これを見て、討ち取ろうとかけつけましたが、返り討ちにあい、逆に殺されました。

これを見て、斉藤民部左衛門が続けていきましたが、互いにしのぎを削り、勝負がつきません。

斉藤は、いらだって田原の刀を握り、引っ張り込んで刺し違えて死んだということです。

この滝は見る角度により、頂上にあった岳城の城壁の石垣にも見えます。

戦いに勝ったのは、日高氏、平戸の松浦氏の連合軍でした。

この結果壱岐は平戸藩の松浦氏のものとなり壱岐は平戸領になりました。





国士の墓

対馬の軍勢が、上陸して、攻め上がって来たとき、日高信助は、たくさんの兵を、周辺に配置し、わざと負けたように、みせかけて逃げました。

対馬軍は、周辺に敵が隠れているとは、知らず、追いかけて来ましたが、挟み撃ちにあい、ほとんど討ち取られてしまいました。

このとき、池田村のある山伏が、逃げる対馬勢を追いかけ、数人を討ち取りました。

しかし、この山伏が、数人を討ち取って引き返す途中で、味方の軍勢から敵と間違えて、殺されてしまいました。

その後、殺された山伏の霊がたたりをなすようになりました。

そのため、山伏の霊をなだめるために、国士の塚を作りました。

国士というのは、一身をかえりみず、国のために働いた、人のことをいいます。






筥島(はこしま)

その昔神功皇后が、大便をされたところです。

今は埋め立てられて、島の面影を僅かにとどめるだけです。

















本宮八幡神社

壱岐の本宮八幡神社を参照してください。
 



















岳山(たけやま)神社

祭神は、伊弉冉神(いざなみのかみ) 、事解男神(ことさかおのかみ)、 速玉男神(はやたまおのかみ)です。

伊弉冉神(いざなみのかみ)は、夫の伊弉諾神(いざなぎのかみ)と一緒に、日本の国土をつくった神様です。

壱岐の島もこの二人の神様によってつくられました。


事解男神(ことさかおのかみ)と 速玉男神(はやたまおのかみ)には、次のようにして生まれました。

夫の伊弉諾神(いざなぎのかみ)が、亡くなった妻の伊弉冉神(いざなみのかみ)に会うために、黄泉の国を訪ねたときのことです。

妻は、「私は、黄泉の国の、食べ物を食べてしまったので、もう、あなたのもとには、帰れない。

でも、黄泉の国を支配している神様と相談してみましょう。

ついては、そのときの、私の姿を、ぜったいに見ないでください。」、と言って、黄泉の国を支配している神様の屋敷に出かけました。

しかし、いつまで待っても、妻は帰ってきません。

夫は、しびれをきらして、黄泉の国を支配している神様の屋敷に入って、行きました。

ところが、夫が見た、黄泉の国の妻の体には、頭、胸、腹、左右の手、左右の足、女陰の8ヶ所に、たくさんの蛆虫(うじむし)の神様、「八雷神(やくさのいかづちのかみ)」が、ごろごろ音をたてて、たかっていました。

夫はそれを見て、逃げ出しますが、けがれた姿を見られた妻は、「よくも私に恥をかかせたね。」と怒り狂い、逃げる夫を殺そうとして、追いかけます。

このとき、夫は、後を追いかけて来る妻に対して、「不負於族」(うがらまけじ=お前には負けないぞ、という意味)、と言って、唾をはきました。

このとき、生れたのが、五穀豊穣と山の神である、速玉男神(はやたまおのかみ)です。

そして、さらに、夫が、妻や黄泉の国との関係を断つために、その唾を掃いたときに、生れたのが、知識豊かな学問の神である事解男神
(ことさかおのかみ)です。

夫は、追いかけてくる妻や邪鬼どもを振り切って、やっとのことで現世と黄泉の国との境まで逃げ、黄泉比良坂(よもつひらさか)の出口を大岩でふさぎ、永遠の別れをします。


畑の端の森の中にあります。

静かな場所にあり、落ち着いた雰囲気があります。

古くからある神社で、いつ造られたのかは分かりません。



本宮大師堂

壱岐四国霊場八十八番札所のなかの八十一番札所です。

本尊は、弘法大師です。

このお堂の姿を見ると、信仰心を維持管理するのは、大変なことだと、思います。