国分寺周辺の散策
国分という文字は、この場所で壱岐国が2つに分かれていたときの境界線という意味です。
江戸時代、壱岐は、大きく、壱岐郡と石田郡とに、この国分を境界線として分かれていました。
ここでは、国分寺跡の周辺を散策してみましょう。
国分寺跡 |
「壱岐のお寺」の章の「壱岐の国分寺跡」を参照。
国片主神社 |
「壱岐の神社」の章の「国片主神社」を参照。
あごかけ石 |
写真の石柱は約2.4mの高さがあります。
その石柱の頭に古い六角形の燈籠形の面に、各面2体ずつ、合計12人の地蔵菩薩が刻んである石が載せてあります。
像は、裸頭の僧で、右像は手を組み、左像は錫杖を持っています。
浮き彫りで刻んでありますが、所々は陰刻してあります。
屋蓋も六角形です。
頂上に宝珠が置いてありますが、これは屋蓋の真ん中に正方形の穴を彫って、はめ込んであります。
しかし、宝珠の臍(ほぞ)は、正方形ではなく円形になっいます。
石柱と仏塔の石の種類が異なるので別々の目的で乗せていると考えられます。
仏像は、奈良時代のものです。
江戸時代、渡良という村に、渡良左エ門(わたらざえもん)という力自慢の巨人が住んでいました。
身長は2m40cmもあり、腰に差している刀の長さは、1m56cmありました。
この国分寺にあるあごかけ石は、渡良左エ門(わたらざえもん)が、渡良の海岸から一人でかついできたと言われています。
石は、2本ありましたが、この石を1晩のうちに運び取ることができればあげると言われて、まず1本を、ここに担いできましたが、残りの1本は鶏が鳴きだしたので夜が明けたと思って、そのままにして運ぶのを止めてしまいました。
渡良左エ門は巨人でこの石柱の頂上に顎がかかるほどだったといいます。
この石については、いろいろなことがいわれています。
昔、神が壱岐の島を造ったときに、壱岐の島の中心を定めた心(しん)の御柱(みはしら)であるとか、あるいはドルメン(巨石信仰)の名残りともいわれています。
以前は、旧国分寺にありましたが、国分寺と阿弥陀寺を合併した時に、国片主神社の鳥居のある所に献納しました。
しかし、明治維新の神仏分離令で、今の位置に移されました。
また、次にお話しするへそ石とともに昔の郡界のしるしといわれています。
石柱の中ほどに、ちょうど大人の顎がかかる位置の高さ1.5mの位置に人工の切れ込みが横に走っています。
この切れ込みは、普通の人の顎の位置の高さで、人々はここに顎をかけて背の高さを自慢して競ったり、背の低い人は背が伸びるように祈願したりしたものです。
昔は、今よりも高い所に、切れ込みがありましたが、今では埋めて、誰でも届くような高さに改めました。
この高さに達しない人は、仲間に入ることが出来なかったと言います。
あごかけ石の名前もここから来ています。
この石を渡良から運んで来た、渡良左エ門(わたらざえもん)は、巨人で、顎がこの塔石の頂上まであったと言います。
この周辺では、昔「市」が開かれていて、若者が背比べや力比べをして楽しんでいた場所でもあります。
そのことと何か関係があるかもしれません。
へそ石 |
あごかけ石の隣に、木の柵で囲まれた大小2個の2つ重ねの楕円形の石があります。
この石は、昔、道行く人々が壱岐の中心になる道標として使用していました。
これが壱岐のど真ん中の石、すなわち「へそ石」の由来です。
この周辺の人は、この石を「壱州でまん中、国分がまん中、へそ石まん中」と呼び、へそ石として親しんでいます。
以前は、今ある場所の反対側にありましたが、道路が拡張されたため、ここに置いてあります。
月読神社 |
壱岐の月読神社を参照してください。
鬼の窟古墳 |
「壱岐の古墳時代」の章の「鬼の窟(おにのいわや)古墳」を参照。
兵瀬古墳(ひょうせこふん) |
「壱岐の古墳時代」の章の壱岐の兵瀬古墳を参照してください。
国分寺 |
「壱岐のお寺」の章の「壱岐の国分寺}を参照してください。
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