壱岐の月読神社


月読神社


豪族壱岐氏

大和時代、壱岐では、壱岐氏という豪族が壱岐を支配して、治めていました。

また、壱岐氏は、占いによって航海の海上案内をしており、朝鮮半島→対馬→壱岐→九州の航海安全を祈るため、月読神社を建てました。

月読神社は、
当時、航海の第一人者であった壱岐氏が壱岐の島でまつっていた航海の神様です。

いつ造られたかは分かりませんが、日本最古の神社と言われています。


月読神社があるこの場所は、今は小さな神社ですが、かつては大きな神域をもっていたと考えられます。
















古事記

古事記には、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)、左目を洗ったときに産まれたのが天照大神(あまてらすおおみかみ)です。

その後、今度は、
右目を洗い、そのときに産まれたのが月読尊(つきよみのみこと)です。

月読尊(つきよみのみこと)は夜をつかさどる神として、月にたとえられ、この神様をまつってある神社が月読神社というわけです。

そして、更に、鼻を洗ったときに産まれたのがスサノオノコトです。

この神様は、海を治めるように命じられた、
とあります。

この3人の神様は他の八百万(やおよろず)の神々とは別格で、三貴神(みはしらのうずみこ)と記されています。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は昼をつかさどる神で、太陽にたとえられて、高天原(たかまがはら)を治めています。

これに対して、月読の神は、この地上を月の光がまんべんなく照らし、自由、平等、平和に過不足なく生きられるようにと願っている神様です。







狛犬

県道に面した鳥居から、急な石段の参道を上ったところにあります。

神社は、うっそうとした、昼なお暗く神秘的なたたずまいを見せる森の中にあります。

階段を上りきると、左の写真のような、狛犬がいます。














月つながり

左の写真は、お堂のなかに飾ってある写真の1つです。

月を表しています。

















分霊

月読神社と名前のついている神社は、三重県の伊勢神宮の内宮の月読神社外宮にある月夜見神社、それと、壱岐の島の月読神社、京都府の松尾大社の横の月読神社があります。

問題は、壱岐の島の月読神社と他の場所にある月読神社との関係です。

壱岐の月読神社は、もともとは壱岐の豪族の壱岐氏が、航海の安全を祈るために、おまつりしていました。

その後、487年、大和時代、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が、遣任那使として、任那の国に使いで行きました。

そのとき、
壱岐の月読神が、「私は月神である。私を京都にまつれ。もし、私がいうようにすれば日本国中が幸せになるだろう。」と、いいました。

阿閉臣事代は都に帰り、天皇にそのことを報告しました。

天皇は、これを受け入れ、さっそく、壱岐県主の先祖、押見宿彌(おしみのすくね)を壱岐島から京都に呼び、嵐山に、壱岐の月神を分霊して、月読神社をまつりました。

この嵐山の月読神社は京都では最も古く「松尾大社」の南隣にあります。

その後、京都の月読神社を中心にして、日本全国に神道が根付くようになりました。

したがって、壱岐の月読神社が全国の月読社の「元宮」(もとみや)となるわけです。

このことから、壱岐は、神道の発祥の地とされています。






月延石(安産石)

右の写真は、月読神社の隣にあります。

2つのほこらみたいなものが見えますが、この中に、月延石(安産石)があると聞いたので、
確認しましたが、発見できませんでした。

この月延石(安産石)については、次のような話があります。

この神功皇后が、のちの応神天皇を腹に宿して朝鮮へ出征しました。

そのときが、ちょうど産月でしたが、その際、皇后は、自ら祭主になって祈念し、「事が終えて帰ってからこの地で産むまで産月を延べて欲しい」と願いました。

すると、月神が現れて、神石を示し、「この石で皇后のお腹をなでて心を鎮めると良い」、と言われたので、神石を袂(たもと)に挟んで出産を遅らせた、といいます。

鎮懐石とも呼ばれています。


この石は筑紫にありましたが、雷が落ちて、三つに割れてしまいました。

その結果、一つは京都の月読神社に、一つは福岡県糸島市の鎮懐石八幡神社に、あと一つが壱岐の月読神社に祭られました。

話は、ちょっと、変わりますが、壱岐に、本宮八幡神社という神社があります。

この神社に、月延石がありますが、この石を見ることができる人は、この神社を継ぐ人だけだそうです。

したがって、我々一般人は、見ることができないそうです。


月読神社の場所についての説

現在、壱岐島内では、芦辺町国分字東触にある神社が「月読神社」を名乗っています。

現在の場所にある、月読神社は、江戸時代、延宝4年に、平戸藩の国学者、橘三喜(たちばなみつよし)によって、単純にこの周辺が、清月という地名だったことからから、式内社の月読神社と推定されました。

しかし、実は古くからこの場所が月読神社だという推定には疑問が
もたれています。

その理由として、神祠がないことです。

式内の月読神社は名神大なので、いかに廃止したとしても、神祠を廃止するようなことまではやらないだろう、というわけです。

また、祭神は夜見尊、月弓尊、月讀尊になっていますが、月読社は天月神命なのでここからみてもおかしい、 ともいいます。

それでは、本当の月読神社はどこにあるのか、ということです。

まず、候補としてあげられているのは、箱崎八幡宮です。

次に、あげられているのは、男岳神社です。