壱岐の国分寺跡



国分寺跡


 741年、奈良時代、聖武天皇は仏教の力を借りて国を守り、天下泰平を図ろうと考え(これを鎮護国家思想といいます。)、全国に国分寺と国分尼寺を建立し、そこで経典を読むことを命じました。

 しかし、当時の壱岐では、飢饉(ききん)が続き、また、伝染病がはやるとともに、さらに、台風などの天災による不作が続き、大損害を受けていました。

 当然、国分寺を建てる余裕はありません。

そこで、壱岐を支配していた豪族の壱岐直(いきのあたい)は、自分が個人用に持っていた氏寺を嶋分寺(とうぶんじ)という名称にして国分寺に代用することにしました。

 壱岐直はこの国分寺跡の近くにある国片主神社(くにかたぬしじんじゃ)が建っている場所に屋敷を構えて住んでいました。


国分寺の規模は東西600m、南北80mありました。

3重の塔があったと推定されています。





礎石


右の写真は、国分寺の礎石で、柱を建てた土台の跡です。

この付近には、数多くの古墳が集中しています。

巨大な石室のある鬼の窟(おにのいわや)古墳兵瀬(ひょうせ)古墳などたくさんあります。

また、国分寺のあった場所は、壱岐の島のどこから行っても車で20分かければ行くことができ、古代壱岐の政治経済の中心地でした。

ここでは8回の発掘調査が行われ、数多くの瓦や土師器(はじき)、須恵器(すえき)、輸入陶磁器などが出土しました。









 特に注目されるのは、軒丸瓦(のきまるがわら)、軒平瓦(のきひらがわら)です。

 軒丸瓦の模様が、当時、都のあった、奈良の平城京瓦とまったく同じものでした。

 瓦全体は、蓮(はす)の花の模様になっています。

瓦の模様を良く見ると、花弁の数が8枚あり、それぞれの花弁が2つずつあります。

つまり、2枚の花弁でワンセット、というわけです。

このような、瓦を、複弁8弁蓮華文(ふくべんはちべんれんげもん)、と呼んでいます。

真ん中には、蓮の種子、すなわち、蓮子(れんし)があります。

中心に、1個の種子があり、その周りに、8個の種子が、配列されています。

長崎県では、このような瓦は、壱岐だけにしかありません。

当時は九州各地の寺院は一般的に大宰府系の瓦を使用しましたが、壱岐だけは平城京の瓦を使用していたわけです。

 しかし、軒丸瓦を平城京から運んできたものか、壱岐に瓦職人が中央からやってきて作ったものか、分かりませんが、どちらにしても、当時の壱岐の豪族であった、壱岐直(いきのあたい)は大和朝廷と深い関係にあったことがうかがわれます。

壱岐直の氏寺の嶋分寺を建設するためには瓦だけではなく、奈良の職人もたくさんやって来て、いろいろ技術指導をしました。

もともと、壱岐直は、良くあたる占いをするという卜部(うらべ)で、中央政府の信頼も厚く、その占いの技術を生かして中央政府とも深い関係を結んでいました。








刀賊の侵入


この国分寺は、平安時代に、刀伊賊(といぞく)の侵入を受けました。

刀伊賊(といぞく)の侵入については、刀伊賊(といぞく)の侵入参照。