壱岐の古墳
芭蕉 |
古墳とは、死者を葬るために土を高く盛り上げて造った古代の墓です。
今から1600〜1200年前に多く造られました。
古墳と言う言葉を初めて使った人は、松尾芭蕉です。
奥の細道の文章に「那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳を訪(と)ふ」とあります。
種類 |
古墳の種類には前方後円墳、円墳、方墳があります。
左の写真は、円墳です。
日本の古墳で一番多いのは円墳で、古墳全体の90%を占めます。
石室 |
それでは、古墳の中をのぞいてみましょう。
古墳の内部には、石室というものがあります。
石室とは、古墳の中にある部屋のことです。
右の写真では、石室が3つあります。
石室には、竪穴式と横穴式の2つがあります。
また、遺体を安置している棺おけが置いてある部屋のことを玄室といいます。
右の写真では、一番奥の部屋が玄室です。
竪穴式 |
竪穴式は、墳丘の上から垂直に穴を掘って、遺体の入っている棺おけを上から納めて、その上からふたをします。
棺おけの周囲には小石を積み上げ、その上に大きな石をのせ、厚く粘土で覆い、さらに土を盛ります。
竪穴式石室の場合は、石室は1回だけ使用され2度とふたを開けることはありません。
特定の個人だけのために築かれた墓です。
簡単に言えば、竪穴式というのは、昭和の初期までに日本の各地で行われていた、死者を墓穴を掘って埋めるというものに似ています。
横穴式 |
これに対して、横穴式は、横から穴を掘って石室を造ります。
このことから横穴式の場合は、1人が亡くなった後、他の人が亡くなれば入り口の石をはずして同じ古墳の中に埋葬できるようになっています。
つまり、追葬ができるというわけです。
60% |
壱岐には256基の古墳があります。
しかも、長崎県では一番古墳の数が多く、長崎県全体の60%を占めています。
南北17km、東西15kmしかないこの島に、どうしてこのようにたくさんの古墳があるのか謎になっています。
壱岐の古墳は6世紀〜7世紀にかけて造られたものが大半で、古墳時代の中期から末期にかけてのものが多く存在しています。
壱岐の古墳は島内全般にわたって分布していますが、特に島のほぼ中央部に集中しています。
具体的には、勝本町の百合畑(ゆりはた)、亀石(がめいし)周辺から芦辺町の国分地域周辺にかけての直径800m程度の範囲に集中しています。
これらの地区には、古代豪族の壱岐氏の居館(現在の国片主神社)や氏寺(壱岐嶋分寺)がありましたから、この地域が古墳時代から古代にかけての壱岐の政治的な中心地であったことが分かります。
また、壱岐の古墳の特徴として、巨石を用いて石室が造ってあるものがたくさんあること、円墳が多いこと、中央政府と深い関係があり、中央政府の影響を受けていること、等があげられます。
双六古墳 |
百合畑古墳(ゆりはたこふん) |
古墳時代の「壱岐の百合畑古墳」を参照
鬼の窟古墳 |
壱岐の鬼の窟古墳参照
兵瀬古墳(ひょうせこふん) |
この古墳も、鬼の窟(おにのいわや)古墳と同じ円墳です。
墳丘の長さが34m、高さが8mあります。
右の写真は、この古墳の入り口から内部をのぞいたものです。
石室の全長が12mあります。
横穴式石室を持つ円墳です。
部屋の数は3つあります。
一番奥が玄室です。
玄室の広さは、縦2.9m、横2.4mあります。
さて、兵瀬古墳には船の線刻画があるとされています。
しかし、ここにある石には、心ない人たちによる落書きがひどく、どれが船の先刻画なのかを発見することができませんでした。
対馬塚(つしまづかこふん) |
とにかく、でかい。
6世紀中頃に造られました。
民家の背戸山(せどのやま)にあります。
昔は、天気の良い日には、墳丘の頂上から対馬が見えたので、この名があります。
私が、訪ねたときには、ご覧のように、木が生い茂っていて、とても対馬は見ることはできませんでした。
前方後円墳ですが、同じ前方後円墳の双六古墳よりやや古いといわれています。
墳丘の全長は約65m。
長崎県では、第3位の大きさです。
木が生い茂っているため全体を確認することはできませんが、円墳部と前方部は確認できます。
前方部の近くに牛神様が祀ってあります。
当時の、大和朝廷と関係の深い、この地域に勢力を持っていた地方豪族の墓ではないかといわれています。
江戸時代にはすでに、開口され、多くの遺品が持ち出されています。
近いうちに、調査がされるということを、聞きました。
鬼屋窪古墳(おにやくぼこふん) |
大塚山古墳(おおつかやまこふん) |
最古 |
安国寺や原の辻遺跡の近くにある、寺山と呼ばれている、小高い丘の上にあります。
5世紀後半くらいに造られました。
この地方にいた代々の首長の墓とか、その家族の墓ではないかと言われています。
直径14m、高さ2mの円墳です。
壱岐では一番古い古墳です。
長崎県の指定遺跡なっています。
過渡期 |
竪穴系で横口式石室をもち、埋葬の仕方が竪穴式から横穴式へ移行する過程が分かる古墳です。
墳丘に長方形の穴を掘り、死者を埋葬するようになっています。
小口積み工法 |
これは、内部の写真です。
入口は、後にも開けることが出来るようになっていて、追葬や、合葬ができるようになっています。
左右の壁や奥の壁は厚さ10cm程度の小さな玄武岩の板石を、積み上げて、造ってあります。
まるで、レンガを積み上げているように見えます。
このような、造り方を小口積み工法といいます。
また、天井に行くにつれて少しずつ内側に狭めていく(持ち送り技法といいます)方法で造ってあります。
左右の壁が赤くなっていますが、これは、ベンガラを塗ってあるからです。
赤いベンガラは、魔よけのために塗ったと言われています。
出土遺物 |
須恵器や蕨手(わらびて)鉄製刀子(とうす)が出土しました。
須恵器は、小型の壷型の土器で、壺に注ぎ口を開け、酒などの液体を注いだものと考えられています。
天上石 |
天上石はなくなっていました。
しかし、その後、安国寺の座禅石が天上石だと言われています。
天上石については、安国寺参照。