安国寺


安国寺

壱岐を初め、対馬、博多周辺は、元寇の役で多数の死者や被害を出しました。

壱岐は壊滅的な被害を受けましたが、鎌倉幕府は何もしてくれませんでした。

壱岐のために、何か援助をしなかったというよりも、元寇の事後処理に追われ、何をして良いか分からなかった、というのが正しいと思います。

この元寇の役が終わってから、足利尊氏、足利直義の兄弟が、臨済宗の夢窓礎石の勧めにより北海道、沖縄を除く全国66カ国と壱岐・対馬の2島に利生塔と安国寺建立を命じました。


安国寺建立の目的は、乱世による戦死者や吉野山で亡くなった後醍醐天皇の冥福、天下の安泰を祈る、足利氏の天下統一の威信を示すためでした。

しかし、この当時の壱岐は、財政的にも苦しく、お寺を建てるような余裕はありません。

そのため、従来からあった老松山安国海印寺を拡張、修理して安国寺にしました。

安国寺は、臨済宗のお寺で、壱岐では一番古い寺です。

全寺が県指定文化財
になっています。




 

烏帽子岩

左の写真を見てください。何に見えますか?  

そうです。

烏帽子(えぼし)ですね。

この石には1つのエピソードがあります。

日吉大明神(大己貴命)が比叡山から降りてきて冠をとったとき烏帽子が飛んできて石になったという伝説があります。









河童石


安国寺の近くに皿川(さるこー)という川が流れています。

この川にある皿川淵(さるこうぶち)という滝の近くから、こ
の石を持ってきて山門の橋石にしました。

しかし、
皿川の河童が毎晩、奉行所のところに現れ、石垣などを崩すような音をたてたり、大勢の人の声をまねて騒ぎたてたりして、石を返してくれるよう哀願しました。

お願いしても石を返してもらえなかった河童は自ら石を取り返そうと算段したものの、砥宮(とのみや)(現在の比売(ひめ)神社)の神々の祟りが怖くて、結局石を取り返すことが出来ませんでした。

 壱岐には河童の話がたくさん残っていますが、この安国寺に出て来る河童はどんな河童だったのでしょうか。












大樹

境内には大きなイチョウの木と杉の木があります。

空を突き抜けている、見上げるような大木です。


























特に、この杉の木は壱岐で一番の大木です。

樹齢1000年、直径6m、樹高30mもあります。

長崎県の天然記念物に指定されています。

この周辺には、弥生時代の遺跡で国特別指定遺跡となっている「原の辻遺跡」もあります。

古代から、何回となく繰り返された豪族や戦国武将の戦い、その裏に隠されている当時の人々のいろいろな人生やロマン等を見てきたものと思われます。

口があればいろいろなことを聞いてみたいものです。













キリスト教の遺跡

 安国寺はお寺であるにもかかわらず、キリスト経の遺跡がたくさん残っています。

 左の写真のなかに聖体容器を持っている6地蔵の中にもそれがうかがわれます。

 















これは、月と太陽を組み合わせ、表面がハート型になっている水盤です。

台石の表面には、魚と蟹(かに)のような文様が刻まれています。

月と太陽もキリスト教の象徴です。

魚はキリスト教の象徴として扱われています。


















宝物館

右の写真は宝物館です。

竹下総理大臣のふるさと創生事業により、平成3年に開館しました。

室町時代の貴重な宝物がたくさん展示されています。

鉄筋造り、高床式、校倉(あぜくら)造りの構造をしています。















これは、宝物館の中にある高麗版大般若経(こうらいばんだいはんにゃきょう)です。

国の重要文化財に指定され、世界的にも重要な仏教資料です。

高麗版大般若経というのは、朝鮮の高麗の時代(日本では平安時代〜鎌倉時代)に、仏教について記した書物や経典(これらを経版といいます。)を彫造することを高麗の政府が行いました。

このときの経版の彫版技術は非常に高いもので世界の印刷文化史の中に残るものです。

この経版を倭寇の道林(どうりん)が朝鮮で手に入れ、当初は長崎の長浜神社に奉納しましたが、周辺で豪族の戦いが始まったので戦禍を免れるために安国寺に奉納しました。

安国寺の宝物館にあるのは、第一次般若経版で、いわゆる初版本です。

当初は、版本219帖(じょう)、写本372帖、合計591帖がありました。

しかし、平成6年に493帖が盗難にあってしまいました。

現在ではわずかに、版本31帖、写本67帖しか残っていません。

盗まれた経本は今韓国にあります。

なんとかして返還してもらいたいものです。

でも、もともとは韓国にあったものなのでちょっと複雑な気もします。





拝塔

この拝塔(墓ではありません)は、松浦久信(まつうらひさのぶ)とその妻メンシアのものです。

メンシアは、キリシタン大名大村純忠(すみただ)の5女で「おその」というのが実名です。

メンシアの父親の大村純忠は、キリスト教の信者だったので、メンシアも、その影響を受けて、キリシタンになり、洗礼まで受けました。

メンシアは12歳のときに15歳の松浦久信と結婚しました。

もちろん、政略結婚です。

平戸藩の隣は、大村純忠の領地の大村藩で、当時は、大村藩の方が、平戸藩よりも、はるかに実力がありました。

そのため、平戸藩の藩主の松浦鎮信(しげのぶ)は、大村藩と手を組んで、平戸藩の安泰を望み、2人を結婚させました。

松浦久信は、平戸藩大名の松浦鎮信(しげのぶ)の長男です。

松浦鎮信(しげのぶ)は、キリスト教をとても嫌っていました。

そのため、メンシアもとても苦労したといいます。

夫の久信は、メンシアに何回も、キリスト教をやめるように説得しましたが、メンシアは「キリスト教をやめるくらいなら、実家に帰ります。」、と言って、実家から、籠(かご)を呼び寄せようとしたために、慌てた久信が、「実家に帰るのだけは止めてくれ。」と言って、頼んだこともありました。

メンシアが実家に帰れば、大村藩との同盟が解消されかねないからです。

メンシアには松浦隆信らの5人の子どもがいましたが、そのうち4人に洗礼を受けさせて、キリシタンとして育てました。

夫の松浦久信は、豊臣秀吉の2回の朝鮮出兵にも出陣し、大活躍をしました。

しかし、徳川幕府の時代になって、父親の松浦鎮信が、幕府に無断で「日の岳城」を造ったこと、妻がキリスト教信者だったことなどから、久信が世継ぎをすることに待ったがかかりました。

久信は、江戸幕府のところに、あいさつに行く途中、伏見に滞在しましたが、1602年、ここで、病に倒れました。

父親の松浦鎮信は、印山寺(いんざんじ)をはじめ、平戸中の僧侶を集めて、久信が死なないようにと、祈祷(きとう)をあげさせましたが、その甲斐もなく、久信は他界しました。

32歳でした。

これに、怒った父親の松浦鎮信は、印山寺(いんざんじ)の僧侶達を全員切捨て、その他のお寺の僧侶達も、全員殺そうとしましたが、いち早く、僧侶達は平戸から全員逃げてしまい、葬儀を行うことができなくなりました。

このとき、安国寺の住職は、久信と親交があったために、壱岐から平戸に行って、盛大な葬儀を行いました。

その関係で、壱岐の安国寺に松浦久信夫妻の拝塔があるわけです。

久信が亡くなったのは、表向きは、病気ということになっていましたが、本当は、お家断絶を恐れて、自害したといいます。

左側が妻のメンシアの拝塔です。

夫の久信が亡くなった後も、メンシアは1人でキリスト教を信仰しました。

松浦鎮信が亡くなった後、メンシアの息子の松浦隆信(まつうらたかのぶ)が、藩主になりました。

松浦隆信(まつうらたかのぶ)は、幼い時に、キリスト教の洗礼を受けていましたが、後に、キリスト教を棄てています。

1614年、江戸幕府は、キリスト教禁止令を出しました。

メンシアの息子の松浦隆信(まつうらたかのぶ)は、キリシタンを逮捕し、殺してしまいます。

1630年、メンシアが66歳のときに、徳川家光から江戸に呼ばれ、松浦家の菩提寺である広徳寺に監禁されました。

監禁中は、息子の松浦隆信(まつうらたかのぶ)が亡くなっても、葬儀に出ることも許されませんでした。

メンシアは、息子の死に目にも会えないで、江戸の広徳寺で、83歳で亡くなりました。

平戸の正宗寺に、メンシアの大きな墓があります。

メンシアは、長崎でとらえられ、壱岐に島流しにされたモラーレス神父に、平戸から、パンやぶどう酒を送りましたが、神父の手元には届かなかったといわれています。

モラーレス神父は、大村に移され、そこで処刑されました。





仏殿


 これは、仏殿です。

 何回か、火災で焼失していますが、現在あるのは、江戸時代に再建されました。

 屋根は、二重の瓦葺きです。

 
















内部の床は、ご覧のとおり、瓦を敷いたものです。

屋根に使う瓦が床に敷いてあるのは、何か不思議な感じがします。
 
壱岐のお寺の中では、最も古く、美術的にも優れたとても風格のある建物といわれています。













この仏殿のすばらしさは、ひさしや天井の作り方にあります。

建築様式は、中国式で、縦材は8m、横材は7mあります。

軒(のき)の木組みが、四角に組まれています。

それにしても、このひさしや天井を下から見上げると、その迫力には圧倒されます。












本尊

本尊は、延命地蔵菩薩(えんめいじぞうぼさつ)です。

室町時代の作です。

地蔵菩薩は、平安時代の浄土思想の発達とともに急激に増え、鎌倉時代になると、六道の救済者として、その信仰が一般民衆まで広がりました。

六道については、壱岐の信仰「はらほげ地蔵」を参照。

表情の豊かさに、じっと見入っていると、時間の経つのも忘れるほどです。

ここでは、必ず、お参りをしましょう。

蓮華座(れんげざ)に座り、右手に「錫杖(しゃくじょう)」左手に 「如意宝珠(にょいほうじゅ)」を持っています。

「錫杖(しゃくじょう)」は、雲水が乞食(こつじき)に回るときに、持ち歩くもので、この杖の先で地面をたたくと、頭部に付いている金輪どうしが触れあい、ジャランジャラン、と音を出し、家の人に雲水が来訪したことを知らせるものです。

「如意宝珠」は、「打ち出の小槌(こづち)」や「アラジンの魔法のランプ」のようなもので、願いがすべてかなうというものです。

「如意」という言葉をきくと、孫悟空の伸縮自在の如意棒を思い出します。

宝珠は「竜王」の脳から取り出したといわれています。

地蔵の頭の上には、「放光臺(ほうこうだい)」と書かれた大きな額(がく)があります。

「放光臺」は、仏像のみけんにあって、光を放つところです。

普通は、水晶をはめます。

「放光臺」という、この文字は、21代住職の、嶺和尚が書きました。




なで仏

 これは、「なで仏」と呼ばれています。

 お参りする人が、頭が痛いときは仏様の頭を、手足が痛いときは、仏様の手足をなでる、というように、自分の体の悪いところをなでてやれば、その部分の痛みがとれるといわれています。

 参拝者の方の悩みは、皆さん同じでしょうか。

頭の部分を特になでているようで、頭の部分が一番擦り切れています。











座禅石

座禅石というと、安国寺の僧が、修行をするときに、ここで座禅を組んだと考えると思います。

この石をどこから持って来たかについては、2つの説があります。

1つは、江戸時代に、安国寺の住職だった、白華和尚(びゃっけおしょう)が、安国寺の裏山にある大塚山古墳の発掘調査をしたときに、ここに持ってきたともいわれています。

もう1つの説は、室町時代に、仏殿の前に池を掘りました。

この時、橋石に利用するために、深江本社の畑の真ん中にあった大石を、ここに持って来ました。

しかし、池の作り方が悪かったとみえて、この池には水がたまりませんでした。

そのため、また、池を埋め戻し、その石を仏殿の前庭に置いたものだといわれています。





高さが61cmの小型の鐘です。

周りには、3段4列にわたって、乳が入れてあります。
























広大

安国寺は、造営された当初は、広大な敷地がありました。

しかし、その後、足利氏が滅んだ後は、その維持にも大変な経費がかかることから、その領地もだんだん少なくなってきました。

この絵は、当初の安国寺の姿を、よく表しています。











墓域

この写真は、安国寺の近くにある山の頂上にある、歴代住職の、墓などがある墓域です。

この山の中に入ると、うっそうとしていて、昼なお暗い、凛(りん)とした雰囲気がただよっています。

緑色の苔(こけ)が、こびりついた台石を見ていると、ものの無常を感じます。