壱岐の国片主神社

国片主神社


壱岐の境界

祭神

少彦名命(すくなひこなのみこと・エビス様)です。

  配神として、学問の神様である菅贈相国(かんそうしょうこく・菅原道真)も祀っています。

壱岐七社の1つです。

壱岐の式内社24社の一つでもあります。

この神社は、古い歴史のある神社です。

その昔、壱岐は、壱岐郡と石田郡の2つに分かれていました。

そして、国片主神社のあるこの場所が壱岐郡と石田郡の境であることから国分という名前になりました。

江戸時代、延宝四年の神社改めの時、橘三喜が、この周辺の村の名前が国分であることから、神社も国片主神社にしました。

祭神である、少彦名命と大國主命が、国を二分して治めていたから、国片主神社にしたとも言われていますが、どうしてこのような神社の名前になったのかよくわかりません。

それまでは、「天満宮」といわれていて、菅原道真とその妻の吉祥女を祀っていました。

棟札もすべて「天満宮」となっており、国片主神社の名前はありません。

古代、この場所に、壱岐の県主の屋敷があったので、「国県主」が「国片主」になったのではないか、とも言われています。

別名、国分天満宮ともいいます。

私が小学生の頃は、国分天満宮と呼んでいました。




占い

この地には壱岐県主の壱岐氏の屋敷があったので、国片主の名前は「国県主」から来たといわれています。

律令時代の郡司、壱岐の直(あたい)であった壱岐氏の居館址で、古代の壱岐は壱岐氏が治めており、その屋敷跡に国片神社(国分天満宮)が建てられています。

神社の
後方には堀跡が残っています。

神社の
直ぐそばに、壱岐氏の氏寺の島分寺跡(国分寺跡)があります。

さて、ここで、壱岐を支配していた壱岐氏について、お話をします。

壱岐氏の初代は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)で、百済から壱岐に渡ってきたといわれています。

その後、代々、その子孫は亀トを伝承し、卜部となり、壱岐だけでなく、朝廷からも信頼され、京都、奈良という中央でも、占いをするようになりました。

そして、日本全国でも、有名な占い者となった、
壱岐氏の血を継ぐ者が、壱岐の島を治めるわけです。

なかでも、有名な人として、忍見宿祢(おしみのすくね)がいます。

占いの天才で、天児屋根命の18番目の孫です。

この人が、壱岐の月読神社を日本全国に広めた人です。

詳しくは、次に出てくる壱岐の月読神社を参照してください。




お祭り

8月には、お祭りが行われ、神輿(みこし)が出たり、相撲が行なわれます。

神輿は
氏子が順番に担ぎ、神社の200mくらい下の、お旅所に下り、神楽を奉納します。

  神幸の行列は、潮井振り、面、幟3本(はた・のぼり)、お供え、鉄砲、弓、刀、御輿(みこし)の順に進みますが、最近は人口減少で、祭りの参加者も減少しています。

この桜の花が咲いている場所が神輿を置く御旅所です。
























お祭りの時には、奉納相撲が行なわれます。

小さな幼児から、大人まで、幅広く参加します。

自分の子供が、相撲をとるときには、カメラ片手に、我を忘れて応援します。

1回でも勝つと、優勝したような騒ぎになります。

相撲は、壱岐のいろんな地区から参加します。










境内

境内(けいだい)には立派な牛の石像があります。

明治時代には、この神社の境内にたくさんの人が集まって、商店などを襲うという犬狩騒動(百姓一揆)の決起集会がありました。

犬狩騒動(百姓一揆)については、壱岐の犬狩り騒動を参照してください。














小さな3つの鳥居があります。

お祭りのときに、この鳥居をくぐって、祈願するという習慣があります。


















自然石

境内の片隅にある石垣の上に、大きな自然石が一枚あります。

正月にはこの石に注連縄をかけます。

この周辺では、昔、えびす市が開かれていました。
















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