壱岐の犬狩り騒動
農民一揆 |
明治時代初期、壱岐には野犬がたくさんいて、山や畑に行くのも怖いものがありました。
もちろん、農家のにわとり小屋を襲い、にわとりを殺して食べたり、庭先に入り込んで、幼児を襲ったりして、その被害は大変なものがありました。
そこで、この野犬を退治しようということになり、農家の人たちが、集団で、野犬がいる町中に出て、野犬狩りをすることになりました。
ところが、この野犬狩りが思わぬ方向に向かい、野犬狩りに名を借りた、農民が暴徒化し、商人の家や蔵を襲うという、事件が発生しました。
この農民一揆は、1873年(明治6年)3月18日郷ノ浦町をかわきりに、翌19日に湯ノ本浦、20日に印通寺浦と拡大しました。
原因 |
この農民一揆の原因はどこにあったのでしょう。
明治政府は、地租改正を行い、今まで、税金は米・麦などで納税していましたが、地代の3%をお金で納めるようになりました。
農家には、会社員と違って、毎月、定まった金額の現金収入はなく、農作物を販売して、現金収入を得るので、手元にいつも現金はなかったのです。
一方、裏では、米を取り扱う商人が、米価を操作して、米の値段をつり上げ、暴利をむさぼっているという、うわさが絶えませんでした。
明治5年の米価は、壱岐では、1石が2両2分(新貨で2円50銭)、1俵(3斗3升入り)で、藩札93匁でした。
大坂では、1俵(3斗3升入り)で、153匁でしたので、壱岐の米価がいかに安く買いたたれていたかが分かります。
農家は、商人からは、米を安く買いたたかれ、購入品は高い物を買わされ、明治政府には、高い税金を支払わされていました。
また、借りた品代や借金には、高い利息がつき、土地も手放す者もあり、手放した土地は、富農や商人の手に渡りました。
そこで、農民たちが集まり、米屋や酒屋を襲うことにしました。
この一揆の首謀者は、本田三右衛門や豊永新助という旧士族の人たちでした。
3月18日郷ノ浦 |
3月18日早朝、国津意賀美神社(くにつおがみじんしゃ)の広場に、壱岐の村々から、2千人の人々が集まりました。
一揆を思いとどまるように説得した人もいましたが、そのかいもなく、人々は、郷ノ浦にある商家をめざして、なだれ込みました。
まず、酒屋を襲い、建物を壊し中に入り、酒を飲み、品物を手当たり次第に盗み、道路に放り出したり、川に投げ込んだりしました。
3月19日湯ノ本浦 |
郷ノ浦を襲った翌日、暴徒化した群衆は、今度は、湯ノ本浦の酒屋を襲いました。
建物の戸や壁を壊し、侵入し、酒を飲んだり、品物を盗んだりしました。
また、酒蔵を襲い、酒の入っている桶をこわしたりもしました。
3月20日印通寺浦 |
3月20日には、印通寺が襲われました。
人数は200人ばかりで、被害の方は、比較的、少なかったといわれています。
印通寺浦を襲った後、暴徒は、国分天満宮の馬場に集まり、次の日には、芦辺浦か勝本浦のどちらを襲うかを相談しました。
しかし、一揆の意気込みも次第に衰え、中止になりました。
3月21日 |
一揆の対象にされた、勝本浦では、700人の人々が、一致団結して、一揆に対する防御態勢をしいていました。
手向う者があれば、斬り捨てるということにしていましたが、一揆の者が押しかけることはありませんでした。
取り調べ |
3月25日、2、3人の対馬の役人が、一揆の取り締まりのために来島しました。
翌日、3月26日に、首謀者の本田三右衛門ら4人が逮捕されました。
3月27日、今度は長崎から大勢の役人が、やってきました。
翌日、3月28日に、役人の一行は、郷ノ浦の専念寺で、郷ノ浦の人々を集めて、挨拶をし、3月29日から、専念寺で、一揆参加者の取り調べが開始されました。
取り調べは、数十日かかり、白状しない者は、拷問を受けました。
罪状の軽い者は、小頭(こがしら)が取り調べ、重罪の者や士分の者は、長崎で取り調べました。
本田三右衛門ら首謀者の取り調べには、3年かかったといわれています。