壱岐の朝鮮通信使


朝鮮通信使

朝鮮通信使とは、江戸時代に、将軍が代わるたびに、朝鮮から、祝賀に訪れた人たちをいいます。

1607年に、第一回の使節が来てから、以後、12回の使節がやってきました。

通信使のメンバーは、「正使」「副使」のほかに、「書記」「通訳」「画家」「書家」「医者」「僧侶」「楽隊」などでした。

朝鮮との国交は、豊臣秀吉の朝鮮出兵をして以来、断絶していましたが、対馬藩の宗義智(そうよしとし)が、徳川家康から、朝鮮と国交正常化ができるようにせよ、と命令を受け、7年間の尽力により、1605年に国交が回復しました。

一回の使節の人数は、平均人数は450人、そのうちの100人(水夫)は大阪に留まり、350人が江戸に行きました。

朝鮮の釜山(プサン)を出発してから、江戸に着くまでに、4ヶ月〜半年もかかっています。










案内したのは、対馬藩で、800人が同行しました。

また、通信使が通過する場所になっている諸大名は、
江戸往復の接待や送迎、道路や橋の整備、宿泊施設の建築、警護を担当しました。

諸大名の負担も、大変なものでした。

江戸時代、徳川300年間で、正式の国交を持ったのは、朝鮮だけでした。











通信使の経路は、釜山―対馬―壱岐―相ノ島(あいのしま)―下関―瀬戸内海―三田尻―兵庫―大阪―京都―江戸―日光でした。






















回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)

使節の最初の3回は、「回答兼刷還使」(かいとうけんさっかんし)といって、通信使とは区別されています。

「回答」は、何に対する回答かということですが、これは、対馬の大名、宗義智(そうよしとし)が、文書偽造をしたことに始まります。

皆さん、良くご存じのように、朝鮮は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で大きな被害を被りました。

そこで、李氏朝鮮は、国交回復の条件として、

@徳川家康が国書を書き、秀吉の侵略を謝罪し、二度と侵略しないこと

A秀吉の朝鮮出兵のとき、王陵(朝鮮にあった王様の墓)を、掘り起こしたものを、逮捕し、朝鮮に引き渡すこと

という、2つの条件を突きつけました。

宗氏は、@については、家康が謝罪文を書くことは、ありえないと考え、自分で文書偽造をして、家康の名前で謝罪文を書き、朝鮮に送りました。

そのために、その謝罪文に対する返答として、「回答使」が来たと、いうわけです。

また、刷還使の目的は、豊臣秀吉が朝鮮出兵で、日本に連行された焼き物の職人等の捕虜を探し出し、連れ戻すことにありました。

幕府は、捕虜の帰国を約束しましたが諸大名は無視したために、目的を果たすことはできませんでした。


この時、小麦様(壱岐の鯨捕り、土肥組参照)についても、帰すように交渉が行われています。

12回来た、使節のなかで、残りの9回が正式の国交回復のための朝鮮通信使です。




場所

勝本では、使節の歓迎を、当初は竜宮寺(のちの神皇寺(じんこうじ))でやっていましたが、その後、神皇寺の裏山一体を取り崩して海を埋め立て、そこでするようになりました。

接待をしたのは、平戸藩です。

建物自体は現在は取り壊されて、小さな正村阿弥陀堂が建っているだけです。

そこに、神皇寺の礎石2個残っています。


この当時の、勝本浦の、民家は100軒くらいでした。

当時の勝本浦は、水が浅く、船が入れませんでした。

そのため、船を並べて陸橋を作り、その上に板を敷き、左右に竹欄(ちくらん)を作り、太く束ねた糸で編んだ敷物をまっすぐ迎接使節まで敷きました。




接待費

接待の時には朝鮮通信使と対馬藩合わせて1000人以上が滞在したので、勝本浦は大変な混雑ぶりでした。

幕府も将軍一代につき一回しか来ないので、100万両の接待費という、多額のお金を使いました。


現在の貨幣価値で、500億円ほどになります。

勝本浦での滞在期間は、2週間から20日間。

滞在期間中は、米50石(7500kg)、するめ5000斤(3000kg)、山芋1500本、酒15石、卵15000個、あわび2000貫を消費したとの、記録もあります。




順風祈願

そこで、平戸藩がとった作戦は、使節に一日も早く、壱岐を出てもらうことでした。

そのために、藩主は邇自神社(にじじんじゃ)で順風祈願をしました。

この祈願は、表向きは使節一行の航海に追い風が吹き、無事に航海が出来ますように、ということでしたが、本心は、壱岐での滞在が一日でも短いことを願ったものでした。

通信使が入港する前に祈願を行ったこともあります。



見物

朝鮮からの使節は、しょっちゅう来るわけではありません。

将軍の代替わりごとにしか来ませんから、27〜28年に一回ということになります。

とうぜん、使節が来たときには、一目見ようと、壱岐じゅうから、たくさんの人たちが、ここ、勝本浦に集まりました。

野宿で自炊している人たちもいたほどです。












影響

使節団には、学者、画家、書家、陶工、医者などもいたので、当時の進んだ朝鮮の学問や文化を学ぼうと、各地から多くの人々が使節団の宿舎を訪ね、お互いの国の文化を知り、一行と親しく交わったりもしています。

そのため、通信使は、日本の文化に大きな影響を与えています。

会話は、漢文による筆談で行われました。

一回の通信使が来日すると、対馬藩では60人の通訳をそろえたと言います。

でも、通訳がいない、一般人は、筆談で意思疎通を図ったわけです。


貿易品

日本からは、銀や銅を主に輸出しました。

一方、朝鮮からは、中国産の生糸、朝鮮人参、絹織物が主なものでした。

日本から、持ち出された、大量の銀は、北京で中国産の生糸と交換され、日本に持ち込まれました。

ちょっと、変わったものとしては、サツマイモがあります。

当時、朝鮮では、毎年のように、飢饉(ききん)が発生し、苦しんでいました。

日本では、飢饉のとき、サツマイモを栽培して、助かったということを聞いた、朝鮮は、サツマイモの植え方、貯蔵法、料理法を学び、種いもを持ち帰り、すぐに植えました。

これ以後、朝鮮では、飢饉をしのぐことができたといわれています。

また、タバコやトウガラシも日本から朝鮮にもたらされました。

朝鮮人参の売買も行われています。



鈴木伝蔵事件


朝鮮通信使の一行が、第10代将軍、家治(いえはる)の、祝儀を終えて朝鮮に帰る途中、大阪の長浜の荷揚げ場で、朝鮮の下級官人が、船に鏡を忘れて、紛失してしまいました。

通信使の一行の一人、崔天宗(さいてんそう)という者が、「日本人は、盗みの仕方が上手だ」と言いました。

これを聞いた、鈴木伝蔵という対馬藩の通訳が、紛失しただけで何の証拠もないし、日本人が盗んだ、と言われたのは「日本の恥だ」と思い、次のように言い返しました。

「日本人のことをそのように言うが、朝鮮人も、食事の際に出た食器などを持って帰っているではないか。これをどう思うのか」と。

実は、通信使のなかには、日本側の丁重な接待扱いに慣れるにしたがって、だんだんと大きな態度をとる者も現れるようになりました。

出発するとき、寝具を盗んで、船に積み込んだり、宴会で出された料理の皿を盗んだり、というのは、よくあることでした。


大阪では、食用にするために、鶏を盗んで、追いかけてきた町人と、けんかをすることもありました。


















また、食事に文句をつけたり、大きな魚を要求したり、季節外れの野菜を食べたいと言ったりもしました。

これらの要求を断ったりすると、断った対馬藩の武士に、唾(つば)を吐きかけたりするようなこともありました。

これらの、背景があったので、鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、怒って、人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も殴りました。

その場は、我慢して、何の抵抗もしなかった鈴木伝蔵は、その夜、崔天宗の喉を槍で突き刺し殺してしまいました。

驚いたのは、対馬藩や江戸幕府です。

国際問題に発展する可能性もあります。

特に、対馬藩にとっては、朝鮮との貿易は大きな利益をもたらすドル箱です。

鈴木伝蔵は、逃走する途中で、捕らえられ、すぐに、処刑されました。

派手な、朝鮮通信使の裏には、こういう事件もあったのですね〜。

また、鈴木伝蔵は、通訳という立場上、朝鮮人から、朝鮮人参の販売を頼まれることも多く、日本人に高い価格で販売し、朝鮮人には、安い値段でしか売れなかった、と言って、その差額を、ふところに入れて、ぼろもうけをしていたとも、言われています。