神社

壱岐にはたくさんの神社があります。

大小合わせれば、その数、1000社以上ともいわれています。

ここでは、ほんの一部のみの神社を紹介しますが、他にもたくさん、素晴らしい、神社があります。

ぜひ、壱岐にいらして、ご覧になってください。


注連縄(しめなわ)

ところで、神社につきものの、注連縄(しめなわ)というものがあります。

あの、しめなわは、どういう意味があるか、ご存知でしょうか。

しめなわは、
境界を表し、そこから先は、神様の縄張りで、神聖な場所であることを意味し、不浄なものの侵入を禁ずる印となっているものです。

また「しめ」とは、神様が空間の場所を「占める(占有)」や「締める」という意味と、同時に、「示す・標す」なども意味しています。

天の岩戸の神話で、天照大神が、隠れていた岩戸から引っ張り出されたときに、2度と岩戸に戻ることができないように、稲わらをなって、しめなわをつくり、岩戸に張りめぐらせた事から始まりました。





参拝

次に、神社の参拝の仕方をお話します。


(1)鳥居のところで

                                                                
鳥居は、神様の領域と人間界の領域とを分ける境界線です。

注連縄(しめなわ)が張られていることもあります。

鳥居をくぐるときには、その下で軽く一礼します。

鳥居の先には参道があり、左右に神様に灯明をあげるための灯籠が並んでいます。












拝殿手前の両側には、魔物を神域に近づけないための魔よけの狛犬(こまいぬ)が一対あります。

狛犬は、写真にもありますように、片方が口を開け、片方が口をつぐんでいます。

これを、「阿吽(あうん)の呼吸」と呼んでいます。

夫婦仲もこうありたいものです。









(2)
手水舎(てみずや)のところで

 ここでは、手と口を清めます。

 @まず右手で柄杓(ひしゃく)を取り、清水をくんで、左手にかけて左手を清めます。

 A
次に柄杓を左手に持ち替えて、同じように右手を清めます。

 B再び柄杓を右手に持ち、左の手のひら水を受けて口をすすぎます。

  このとき、直接柄杓から口をすすがないようにしてください。

  衛生上からも良くないし、口紅もつきますからあまり良いものではありません。

 C口をすすぎ終えたら、もう一度口をつけた左手に水を流します。

 D
最後に水の入った柄杓を立て、柄に水を流し、柄杓の柄を清めます。

 E柄杓置きに伏せて置きます。

 F濡れた手をハンカチや手ぬぐいなどで拭きます。



(3)神殿前で

 
神殿に向かう道を参道といいます。

参道の中央は神様が通り道なので、皆さんは、神様ではないので、参道のはしを歩きます。
 
神前で拝礼をするときは中央に立ってもかまいません。
 

また、賽銭箱にお金を入れてから、鈴をならしてもいいし、鈴を鳴らしてから賽銭箱にお金を入れてもかまいません。

 @まず、そっと賽銭箱にお金を入れます。そーっとですよ。

 そのときにお金を投げ入れてはいけません。神様に失礼にあたります。

 A鈴をならします。
 
 B2回礼をします。

  直立の姿勢から90度に腰を折り、頭を下げます。
  
 C
2回拍手をします。
 
  このとき、両手を胸の高さで合わせ、右手を少し引いて、2回拍手を打ちます。

  手をたたくときに、音を立てないようにする人を、ときどき、見かけます。
  
  しかし、音を立てない拍手は忍び手」といって、葬儀の際の作法です。

  男女共に「2礼、2拍手」をします。


 D胸で、きちんと両手を合わせて、お祈りをします。
 
  まず、今、元気でいることや感謝の気持ちを神様に伝えてください。

 
 その後「試験に合格しますように」「お金がたまりますますように」「健康でありますように」などとお願いします。
 
  その際、名前と住所を伝えることを忘れないでください。

 
  願い事が叶うかどうかは、あなたの、これからの「努力」にかかっています。

  努力なしでは神様もお願いごとを聞いてくださらないでしょう。


 
E手を下ろし、最初と同じように、直立の姿勢から90度に腰を折り、1回、頭を下げます。



住吉神社

壱岐の神社の章の壱岐の住吉神社参照


白砂八幡神社

壱岐の神社の章の壱岐の白砂八幡神社参照


聖母宮

壱岐の神社の章の壱岐の聖母宮参照


賽神社

壱岐の神社の章の壱岐の賽神社参照


男岳神社

壱岐の神社の章の壱岐の男岳神社参照




天手長男神社(あまのたながお神社)


壱岐国一宮(?)

137段の急な石段と3つの鳥居を歩いた山頂に質素な神殿があります。

壱岐国一宮(?)といわれています。

「一宮」とは古く平安時代から用いられている名前で、国司がその国の神社を参拝する時に一番初めに参拝するお宮をいいます。

一宮は、その国で最も古い由緒ある神社が選ばれています。

そこから、天手長男神社は、壱岐では一番古い神社と考えられています。

祭神は、
天忍穂耳尊(あめのおしおみみのみこと)、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)です。

建っている場所は八角形で、すり鉢を伏せたような丘で、鉢形山(はちがたやま)と呼んでいます。

鉢形の由来は、神功皇后が朝鮮出兵の折、兜(かぶと)を鉢(境内地)に治めて、戦勝を祈願したことからこの名がつきました。




お堂

神殿脇のお堂には無病息災を願って子どもの産着やお供え物が奉納されています。

淡島神(アウシマ様)がまつってあります。

もとは、柳田触にあった社をここに持ってきてまつりました。

安産の神様として信仰されていましたが、今では、ご覧のとおり、子供の無事な成長を祈願し、小さい着物を作ってあげたりしています。







橘三喜

江戸時代に、平戸藩主の松浦鎮信(まつうらしげのぶ)は国学者橘三喜(たちばなみつよし)に、式内社24社の調査を命じました。

当時、天手長男神社は、跡かたもなく、老婆から話しを聞いて、この場所にあった竹薮(たけやぶ)の中に分け入り、神社の跡形を探しました。

しかし、結局、神社の跡形は、見つけることができませんでした。

このとき、地元の人たちを集めて、竹薮の中を掘らせていたら、神鏡
1面、滑石でつくられている石造弥勒如来坐像を2体、その他たくさんの土器を見つけました。

橘三喜が2体の如来像を掘り当てた場所は石で囲まれ木が1本立っていて、京塚と呼ばれています。





石造弥勒如来坐像

日本で3番目に古い石像で、国指定重要文化財です。

胸像型で滑石一石で作られています。

高さ54.3cm、最大奥23.4cm、膝張29.0cmあります。

発見された2体とも、盗難にあい、後に1体は、奈良の骨董品屋で、2000万円で売りに出されていたものを、奈良博物館の関係者が偶然発見し、買い求めました。

今は、この1体は、奈良国立博物館にあります。

壱岐には、レプリカがあるだけです。

像の底の部分から、法華経を像の体内に入れました。

背中には、たくさん、お経が彫られています。




鬼伝説

豊後から鬼退治に来た百合若大臣は、鬼は退治しましたが、帰る舟を失い島にとり残されてしまいました。

このとき、どこから現れたのか、一匹の小鬼が百合若大臣のためにまめまめしく仕え食料や住まいの世話をしたということです。

その鬼の墓らしきものが今も残っています。

詳しいことは、鬼伝説参照。










壱岐国一宮論争

壱岐国の一宮は天手長男神社であることは間違いありません。

しかし、現在ここにある、「天手長男神社」とされている神社が本当に壱岐国一宮の天手長男神社であるかどうかの確証はありません。

今の場所にある神社が天手長男神社だと推定したのは、国学者の橘三喜でした。

橘三喜は「たながお」という社名からこの場所に、天手長男神社があったと考えました。

また、実際にこの場所で荒れはてた祭祀場の跡も発見したので、天手長男神社であると結論づけました。

三喜の式内社の査定は、月読神社の章で話しましたように地名に基づいたものが多く、現在の研究では疑問が持たれています。

天手長男神社については、芦辺町湯岳興触に興神社があり、興(こう)は国府の意味があります。

また、境内の社に壱岐国総社もあります。

このようなことから、興神社が本来の天手長男神社であり壱岐国一宮であるとする説が有力となっています。




大国玉(おおくにたま)神社

土器

江戸時代には、国分にある、国片主(くにかたぬし)神社で、開催されていた「市」と、並ぶほど、「市」が盛大に行われていた神社です。

平成12年、境内(けいだい)に、愛宕神社の石祠を造っているときに、祝部(いわいべ)土器(須恵器ともいいます)が、出土しました。

また、大正時代には、弥生式土器も発見されました。

近くには、国特別指定遺跡である原の辻遺跡や前方後円墳もあります。








狛犬

元気のいい、狛犬です。

これほど、活き活きしている、狛犬は、見たことがありません。

今にも、向かって来そうな雰囲気です。











巨木

境内には、このような、大きな木があります。

この木は、ホルトノキです。

葉が、赤くなって、散っていきます。












祭神

祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、その息子である事代主神(ことしろぬしのかみ)、菅原道真(すがわらみちざね)、その妻の吉祥女(きっしょうめ)、菅原道真の長男の中将殿(ちゅうしょうどの)などです。


大己貴命(おおなむちのみこと)

大己貴命(おおなむちのみこと)は、大黒様(だいこくさま)とか大国主命(おおくにぬしのみこと)とも言われています。

縁結びで知られる出雲大社におまつりされている神様です。

ここで、大己貴命(おおなむちのみこと)にまつわる、エピソードをお話しましょう。

その昔、隠岐島(おきのしま)に兎が住んでいました。

兎は、本土の因幡国(いなばのくに・鳥取県東部白兎海岸)へと渡りたいと思っていました。

しかし、目の前にあるのは、小さな兎など飲み込んでしまうほどの広い海です。

そこで兎は考えました。

この海にはたくさんの鰐(わに・出雲の方言で、鰐=鮫(さめ)のこと)が住んでいました。

兎は言いました。

「ね〜、鰐さんたち、あなた達の仲間の数と、私たち兎の仲間の数とでは、どっちが多いか、数えようと思う。あなた達の仲間を、みんな集めて、ここから、向こう側の岸まで並んでください。私が、その上を通り、数えましょう。」。

これを聞いた鰐たちは、だまされているとも知らないで、喜んで承諾し、兎の言うとおりに島から岸まで一直線に並びました。

兎はその上をはねて渡りながら数を数えながら渡りました。

そして渡り終えて、向こう側の岬に、降りようとしたときに、兎は「あなた達は、私にだまされた。

実は海を渡りたかっただけだ。」と言ってしまいました。

これを聞いた、一番最後にいた、鰐は、兎に襲いかかり、兎の皮をはいで、丸裸にしてしまいました。

兎は、その痛みに耐えかねて泣いていました。

と、そこへ、八十神(やそがみ)と呼ばれる神様が来ました。

八十神というのは、大国主命の兄弟の神様達で、八十というのは、80人という意味ではなく、「たくさんの」という意味です。

この神は大変残酷な神様で、兎に「海水に浸()かれば、すぐに治るだろう。」と教えました。

それを聞いて、兎は、さっそく海に浸かりました。

兎は、全身が焼けつくような痛みに襲れ、もはや泣き声も出ず、必死で陸地に上がって倒れ伏していました。

今度は、八十神と一緒に旅をしていた、大国主命が、兎に言いました。

「体を真水で洗い清め、さらに蒲の花(がまのはな)を、下に敷いて、その上に、伏していれば、もとの肌に戻るだろう。」

そうして兎はなんとか回復することができました。

このとき、通りかかった、八十神は、この近くに住んでいる、八上比売(やかみひめ)に、結婚を申し込みに行く途中でした。

大国主命は、八十神の旅行の用具や食糧を入れた袋をかついで、お伴をしていました。

そして、この一部始終を見ていた八上比売(やかみひめ)は、大国主命と結婚することになりました。

承知しないのは、大国主命の兄弟の、八十神達です。

彼らは、大国主命を殺してしまいます。


事代主神(ことしろぬしのかみ)

事代主神(ことしろぬしのかみ)は、大国主命の子どもです。

エビス様ともいわれています。

豊漁、海上安全の神様です。

またエビス信仰の福神様でもあります。

釣りが好きな神様で、七福神のエビス様は、大きな鯛を小脇に抱えています。

天に住む天照大神(あまてらすおおみかみ)が、地上も支配しようとして、地上の国を譲るようにと、3回、使者を、出雲を治めていた、大国主命のところに派遣します。

このとき、大国主命は、釣りに出かけていた、息子の事代主神の意見を聞き、息子が賛成したので、出雲の国を、天照大神に譲ることにしました。

そして、大国主命は、出雲の国を譲る条件として、宮殿のような、大きな住居を建ててほしい、と、天照大神に言い、それが認められ、今の、出雲大社ができました。


菅原道真

水神社を参照してください。


吉祥女(きっしょうめ)

吉祥女(きっしょうめ)は、901年、藤原氏との勢力争いに負けて、大宰府(だざいふ)に左遷された菅原道真(すがわらのみちざね)の妻です。

奧州胆沢郡母体(おうしゅういさわぐんもたい=現在の奥州市前沢区母体)に3人の子どもと従臣とともに配流(はいる)されました。

903年、夫の菅原道真が亡くなったことを知らされると、そのショックで病気になり、906年に亡くなりました。




大山祗(おおやまずみ)神社

荘厳

私は、今までにこの神社ほど荘厳な感じのする神社を訪ねたことがありません。

道路から入ること10数メートル。

この神社の山に入ったとたん、周りの雰囲気は一変します。

静寂、絶え間なく水の流れる音、鳥の声。

元禄6(1693)と刻まれた、小さな石祠だけが残っています。





巨石

周辺は、巨大な転石が散在しています。

深山幽谷の墨絵の世界に踏み入った感じがします。

この岩石に沿って、水が流れ、渓流を作っています。

このような渓谷は、壱岐には、ここをおいてはありません。












巨木

大きな石を取り囲むように、巨木が生い茂っています。

スダジイ、イスノキ、カカツガユ、バクチノキなどが生育しています。

この神社の境内の木や草は、切ることも折ることも持ち出すことも禁止されて今日に至っています。

神罰やたたりがあるためです。

そのため、人の手がまったく入っていないため、さながら原始林のようです。






祭神

祭神は、大山津見神(オオヤマツミノカミ)という男の神様です。

大山津見神は、大山に住む大いなる山の神という意味です。

その名の通り山を支配する神であり、同時に農業、狩猟とも深く関わる神でもあります。

別名、
和多志大神(わたしのおおかみ)ともいいます。

「わた」は、海の古語で「海の神」であることも表しています。

そのため、古くから海人たちの信仰も集めています。

このことから、海の近くの神社に祀られることが多く、海上安全の神様でもあるわけです。

この神社も、近くに海があります。

また、大山津見神は、穀物から酒を造った初めての神様でもあります。

次女のコノハナノサクヤヒメが、結婚して海幸彦や山幸彦という孫を生んだ時に、それを祝って、最初に酒(甜酒(あめのたむざけ))を造り、神々に供げました。

そのため、酒造の神として酒造業者の信仰もあつい神様です。





プロフィール

「日本書紀」に次のような話があります。

イザナギノミコトの
妻のイザナミノミコトが、火の神、カグツチを産んだときに、やけどをしてそれがもとで、亡くなりました。

怒った、夫のイザナギノミコトは、生まれた子どものカグツチの首を切り落としてしまいます。

このとき、したたり落ちる血から、産まれたのが大山祗神だと、しています。

一方、「
伊予国風土記」では、大山祗神は、百済国からやってきたと書いています。

また、次のような話もあります。

大山津見神は、
ニニギノミコトに、自分の娘二人を嫁に差し出しました。

妹の方は、木の花が咲き乱れるような絶世の美女の木花之佐久夜毘売
(コノハナノサクヤヒメ)でした。

それに対して、姉の方は、名前を、石長比売(イワナガヒメ)といい、醜い顔をしていましたが、その代わりに、
一緒にいれば、良い運が長く続くという特質を持っていました。

ニニギノミコトは、美女のコノハナノサクヤヒメだけを嫁にもらい、醜い顔をしていたイワナガヒメの方
は、実家に帰してしまいました。

怒ったのは、父親の大山津見神です。

イワナガヒメを嫁にやったのは、生まれた子どもが、雨が降っても風が吹いても石のように永久に生命があるようにと願ったからだ。

また、コノハナノサクヤヒメを嫁にやったのは、木の花の栄えるように、生まれてくる子どもが栄えるようにと願ったからだ。

こうなった以上は、これからは、天津神
(あまつかみ・天上にいる神。高天原にいる、または高天原から天降った神の総称)の子どもは、木の花のように栄えるが、その命はかないものとなろう」と言いました。

今でも天皇家の寿命が短いのは、そのせいだとされています。


海幸・山幸

ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメは、結婚し、一夜の交わりをします。

やがて、妻は、妊娠しますが、夫は、たった一日の交わりで子供が産まれるのはおかしい。

自分の子ではなく、きっと国津神の種であろう。と、疑います。

これに対して、妻は、「お腹の子どもが、
もし国津神の子であったら、出産のときに無事ではありますまい。もしあなたの子であれば、無事に産まれるでしょう」と言って、お産小屋を土で固めて、逃げることが出来ないようにして、小屋に火をつけて、燃え盛る小屋の中で、子どもを無事に産み、ニニギノミコトの子供であることを証明します。

燃えさかる火の中で生まれた子どもは、長男が火照命(ホデリノミコト・海幸彦)です。

次に生まれた次男は、火須勢理命
(ホスセリノミコト)です。

この次男は、その誕生の時に名前が登場するだけで、その後は一切出てきません。

三男は、
火遠理命(ホオリノミコト・山幸彦)です。



海(かい)神社

祭神

祭神は、豊玉彦(とよたまひこ)です。

皆さんは、山幸彦(やまさちひこ)、海幸彦(うみさちひこ)の話しをご存知だと思います。

兄の海幸彦の釣り針を失くした山幸彦(彦火火出見尊・ひこほほでみのみこと)は、竜宮に釣り針を探しに行きます。

そのときの、竜宮の主が、豊玉彦(とよたまひこ)で、彼は、山幸彦の話しを聞いて、釣り針を飲み込んでいた、鯛の口から、釣り針を取り出し、山幸彦に返します。

山幸彦は、豊玉彦の娘と結婚するという話しでした。

このようなことから、豊玉彦は、海を守る海神ということが分かります。

豊玉彦が、ここにまつられているのは、神功皇后が、三韓出兵のおりに、いろいろ、案内等をしてくれたので、その功をねぎらってのことではないか、と思われます。


山中

ただ、壱岐の海神社は、対馬と違って、海岸ではなく、山の中にあります。

人里離れた、辺りは昼間も薄暗く、うっそうとした、山中です。

周辺は、物音ひとつせず、空気は、ひんやりとしたものを感じます。

左の写真の建物が、拝殿です。









盤座(いわくら)

神様が降りて来る場所を、盤座(いわくら)といいます。

写真のように、巨石をまつってある場所が盤座といわれています。












燈籠(とうろう)

石を積み上げた上に、燈籠がおいてあります。

















手水鉢(ちょうずばち)

舟の形をした手水鉢もあります。














鏡岳神社


320段

初瀬(はぜ)漁港のそばに高さ50mほどの鏡岳という山があって、その山の頂上にあります。

写真の向かって左側が、神社のある鏡岳です。

この湾は初瀬湾(はぜわん)といって、落ち着いた、静かでとてもきれいな湾です。

上る途中で、左側に初瀬の岩脈(はぜのがんみゃく)の断崖が見え隠れします。









この神社、階段がおよそ320段あるので、上るのが大変です。

山頂も、周りは木々がたくさん茂っていて、見晴らしは良くありませんが、周囲の海を少し、見渡せることができます。











祭神

祭神は、イザナミノミコト、速玉男命(ハヤタマオノミコト)、事解男命(コトサカオノミコト)です。


速玉男命(ハヤタマオノミコト)
事解男命(コトサカオノミコト)

イザナミノミコトは、火の神、火具土命神(カグツチノカミ)を、産んだとき、女陰を焼かれて、やけどをし、それがもとで、亡くなり、黄泉(よみ)の国に、行ってしまいます。

夫のイザナギノミコトは、まだ、国造りが完成していないので、妻に帰ってほしいと、頼むために黄泉の国に出かけます。

妻は、「自分は、黄泉の国の、食べ物を食べてしまったので、もう、あなたのもとには、帰れない。

でも、黄泉の国を支配している神様と相談してみましょう。

ついては、そのときの、私の姿を、ぜったいに見ないでください。」、と言って、黄泉の国を支配している神様の屋敷に出かけました。

しかし、いつまで待っても、妻は帰ってきません。

夫は、しびれをきらして、黄泉の国を支配している神様の屋敷に入って、行きました。

ところが、夫が見た、黄泉の国の妻の体には、頭、胸、腹、左右の手、左右の足、女陰の8ヶ所に、たくさんの蛆虫(うじむし)の神様、「八雷神(やくさのいかづちのかみ)」が、ごろごろ音をたてて、たかっていました。

夫は、この光景を見て、びっくりして、自分も、このようになるのではないかと思い、怖くなって、その場を逃げ出しました。

これを見た、妻は、「よくも私に恥をかかせましたね。」、と言って、夫を殺そうと、追いかけてきました。

このとき、夫は、後を追いかけて来る妻に対して、「不負於族」(うがらまけじ=お前には負けないぞ、という意味)、と言って、唾をはきました。

このとき、生れた神様が、速玉男命(ハヤタマオノミコト)です。

そして、さらに、イザナギノミコトが、イザナミノミコトや黄泉の国との関係を断つために、その唾を掃いたときに、生れた神様が事解男命
(コトサカオノミコト)です。

速玉男命、事解男命の2人とも、イザナミノミコトの子どもで、兄弟です。

夫は、必死で逃げ、地下にある黄泉の国と天にある
高天原の国の境界まで来たときに、これ以上、妻が入って来ないようにするために、千人で運ぶほどの大きな岩で、境界をふさぎました。

やっと、黄泉の国から、脱出した夫は、けがれをとるために、川に入って、みそぎをしました。



宝物


宝物として、日高信助が奉納した「かぶと」や「よろい」があります。

















貴重な植物群

この神社の森には分布北限の「ギョクシンカ」「ヒメハマナデシコ」、長崎県で初めて発見された「ヤマラン」などの貴重な植物がたくさんあります。

しかし、今は、人工が加わっていて、自然の群落はほとんどありません。

森全体が県指定天然記念物になっています。

森の中には、大木のスダジイ、マテバシイ、カズラ類などのつる植物が生い茂っています。








悪党

安土桃山時代に、豊臣秀吉の命令で朝鮮出兵をした兵隊が、逆風に会い、ここ、初瀬浦に漂着しました。

この兵隊が、また悪者で、神社の境内にあった石の置物や建物の中にあったいろいろな神具などを、壊したり、崖から投げ落としたりしたために、氏子(うじこ)の人たちがそれを拾って、元の場所に戻しています。

また、室町時代に日高信助が、天狗と話をするためにここの森に100夜こもりました。

その満願の日に、正体不明の大男が出てきたので、日高信助が驚いて刀を抜いたら、消えたという話もあります。

今でも、少し、石垣を築いた跡が残っています。



彦山大権現

鏡岳神社には次のようないわれが残っています。

むか〜し、壱岐の柳田という村に、彦兵衛(ひこべえ)という信心深い農夫が住んでいました。

日ごろから、豊前(今の大分県)にある彦山大権現を信じ、夫婦でときおり、豊前までお参りをしていました。

60歳になって、夫婦が彦山にお参りしたとき、夢の中でお告げがありました。

「自分は彦山権現である。お前たちは、私を信じて、何回もお参りしたので、私も、その間、ずっとお前たちを守ってきた。

しかし、お前たちももう年だし、はるばる海を渡ってくるのも大変だろう。

それで、初瀬の岩脈の崖の途中に生えている松の木の枝に、私と同体の鏡をかけておくので、その鏡をとって、神殿を建てて、鏡を奉納し、そこにお参りすれば、彦山に参拝するのと同じである。

よって、これからは、いつでも、お参りしたいときにそこにお参りするように。」、というものでした。

彦兵衛夫婦は、夢から覚めて、不思議な思いをしながら、すぐ初瀬の岩脈の断崖に行ってみると、お告げのとおりに、断崖の途中にある松の木の小枝に、鏡が1つ、こうこうと輝いてかかっていました。

そこで、人を吊り下げて、その鏡をとり、鏡岳に神殿を建てて、そこに奉納しました。

鏡は、人が作れるようなものではなく、一点の曇りもなく、あたり周辺まで光り輝いたといいます。

これ以来、この神社を鏡岳権現と呼ぶようになったということです。





国片主神社


壱岐の境界

この神社は、古い歴史のある神社です。

江戸時代に、この周辺の村の名前を国分にしたときに、神社も国片主神社にしました。

それまでは、「天満宮」といっていて、棟札もすべて「天満宮」となっており、国片主神社の名前はありません。

国分天満宮ともいいます。

その昔、壱岐は、壱岐郡と石田郡の2つに分かれていました。

そして、国片主神社のあるこの場所が壱岐郡と石田郡の境であることから国分という名前になりました。

祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと・エビス様)です。




占い

この地には壱岐県主の壱岐氏の屋敷があったので、国片主の名前は「国県主」から来たといわれています。

律令時代の郡司、壱岐直(あたい)氏の居館址で、古代の壱岐は壱岐氏が治めており、その屋敷跡に国片神社(国分天満宮)が建てられています。

神社の
後方には堀跡が残っています。

神社の
直ぐそばに、壱岐氏の氏寺の島分寺跡(国分寺)があります。

さて、ここで、壱岐を支配していた壱岐氏について、お話をします。

壱岐氏の初代は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)で、百済から壱岐に渡ってきたといわれています。

その後、代々、その子孫は亀トを伝承し、卜部となり、壱岐だけでなく、朝廷からも信頼され、京都、奈良で中央でも、占いをするようになりました。

そして、日本全国でも、有名な占い者となった、
壱岐氏の血を継ぐ者が、壱岐の島を治めるわけです。

なかでも、有名な人として、忍見宿祢(おしみのすくね)がいます。

占いの天才で、天児屋根命の18番目の孫です。

この人が、壱岐の月読神社を日本全国に広めた人です。

詳しくは、次に出てくる月読神社を参照してください。


お祭り

8月には、お祭りが行われ、神輿(みこし)が出たり、相撲が行なわれます。

神輿は
氏子が順番に担ぎ、神社の200mくらい下の、お旅所に下り、神楽を奉納します。
















お祭りの時には、奉納相撲が行なわれます。

相撲は、壱岐中の人が参加します。




















境内

境内(けいだい)には立派な牛の石像があります。

明治時代には、この神社の境内にたくさんの人が集まって、商店などを襲うという犬狩騒動(百姓一揆)の決起集会がありました。

犬狩騒動(百姓一揆)については、国津意加美神社(くにつおかみ)神社参照。












小さな3つの鳥居があります。

お祭りのときに、この鳥居をくぐって、祈願するという習慣があります。

















国津意加美(くにつおかみ)神社


国津神(こくつかみ)

「くにつおかみ」神社と読みます。

神様には、天津神(あまつかみ)と国津神(こくつかみ)の2つの種類があります。

天津神というのは、天にある、高天原(たかまがはら)に住んでいる神様のことです。

これに対して、国津神は、初めから地上に住んでいた神様のことです。

葦原中国(あしはらのなかつくに、今の出雲地方)に住んでいた、大国主神(おおくにぬしのかみ)は、国津神の代表者です。

大国主神(おおくにぬしのかみ)については、大国玉(おおくにたま)神社参照。

国津神には、初めから、地上に住んでいた神様だけでなく、最初は、天に住んでいましたが、その後、天から地上に降りてきて、そのまま、地上に住みはじめた神様も、国津神として取り扱います。

スサノオノミコトは、高天原を追放され、出雲に降り立った神なので、国津神です。

天津神が、地上に降りてきた目的は、地上に住んでいた神様を、征服して、地上を支配するためです。

天津神が、地上に降りた場所は、2ヶ所あります。

1つは、皆さん、すでにご存知の、出雲(いずも)です。

もう1つは、筑紫(ちくし)の日向(ひゅうが)にある高千穂の峰です。


津と意加美

「国津意加美神社」の「津」は、現代語の「の」のことで、「国津」は「くにの」という意味になります。

「意加美」は、神様の名前で、水の神、あるいは雨雪をつさどる神です。

簡単に言えば、龍神(りゅうじん)です。


素盞嗚尊(すさのおのみこと)

国津意加美神社の祭神は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、その妻の稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命の別名)、闇袁加美神(くらおかみのかみ)です。

その昔、スサノオノミコトは、全国平定をするために、日本中をくまなくまわり、それが終わると、韓国、中国まで出かけ、その帰りに壱岐の郷ノ浦に到着し、今の神社のあるところに宮殿を建てたということです。

当時の祭礼の時には、佐賀県の呼子から魚が奉納されていましたが、海がしけることが多く、苦労していました。

たまたま、呼子の人と壱岐の小崎の漁師の間に、縁組があり、それ以後は、小崎から魚が奉納されるようになりました。


百姓一揆

実は、この神社、明治時代に起こった、犬狩り騒動と呼ばれている、2000人の農民達が集まった百姓一揆の参加者が集まった場所でもあります。

この頃、壱岐には野犬が多く、畑の作物や、子牛、にわとりなどの家畜に大きな被害がありました。

農家の人々は集団で、野犬が多く潜んでいる町方まで行って野犬狩りをしていました。

このときは、無断で自由にどこの家にも立ち入ることができました。

ところが、野犬狩りに名を借りた、大騒動が起こりました。

一揆の原因は、皆さんが良くご存知の、明治政府が行った地租改正です。

農業をしている人たちが納める税金が、現金で払わなければならなくなりました。

その結果、物価が上昇し、みんなが困っていました。

農民総決起集会の目的は、名目上は、野犬退治でしたが、納税が地租改正で、金納に代り、商人が勝手に米価を操作して暴利をむさぼっているという悪どいやり方に対して、この機会にうっぷんばらしをしようと計画したものでした。


早朝から、郷ノ浦の国津意賀美神社の広場に、村々から群集が集まりました。

その数
2000人。

一団は、先ず、神社の周辺にある、郷ノ浦の商家になだれ込みました。

酒屋の酒を飲み放題、店の品物を手当たり次第に盗んだり、商品を道路に放り出したり、川に投げ込んだりしました。

また、鳶口
(とびぐち)で戸を打ち破ったりもしました。

一揆の参加者は、続いて湯のノ本浦に押しかけました。

ここでも、同じように、酒屋などの店々に押し入り、戸や壁を壊しました。

さらに、石田の印通寺浦が襲われました。

暴徒は、帰りに国分天満宮の馬場で、明日は芦辺か勝本にすべきか評議しましたが、意気込みが次第に衰えて、中止になりました。


名工

この神社にある狛犬はみごとなできばえです。

造った人は、壱岐の名工山内利兵衛(やまうちりへい)です。

江戸時代に造られました。

山内利兵衛は、江戸時代〜明治時代にかけて活躍した人です。

聖母宮の牛、華光寺の16羅漢なども造っています。

頭が小さく、均整のとれた優しい姿をしています。

左側の狛犬は、子どもを抱いています。

これに対して、右側の狛犬は、口の中に玉をくわえています。

まれに見る、みごとな名品です。





伝染病

右側の祠(ほこら)は疱瘡神(ほうそうがみ)です。

壱岐の神社には、この疱瘡神がよくあります。

よほど、疫病が流行していたのでしょうか。

左側の祠はお稲荷(いなり)さんです。









絵馬



拝殿の中にはこのような絵馬がたくさんかけてあります。

昔の人は、お祈りするときは、このように膝まづいてお参りしていたのですね〜。

なんとなく、歴史を感じさせます。














源三神社(げんぞうじんじゃ)

皆さんは佐倉惣五郎の話を知っていると思います。

その佐倉惣五郎と同じような道を歩いたのが壱岐の百姓源三という人です。

江戸時代の壱岐では、農村は大和朝廷が採用した班田収受の方法と同じ方法がとられていました。

農民の田畑は平戸藩のもので個人所有が禁じられていました。

そして、田畑は、一定の期間がくると、家族構成や耕作能力に応じて各農家に再配分されました。

これを地割りといいます。

ところが、割奉行の中尾丹弥(なかおたんや)が、自分に有利なように地割りを行いました。

中尾丹弥は役人であると同時に農業もしていましたが、自分や一族の農地を自分地の住居から近い場所にしたり、一等地を割り当てたりしていました。

源三は、この不正を訴えるために壱岐から江戸に上り、11代将軍の徳川家斉に直訴をしました。

当時、直訴をすると死刑になったという時代でした。


中尾丹弥は刺客を送り、源三を暗殺しようとしますが、源三はうまく逃れて、壱岐を脱出し、江戸へ向かいました。

直訴の後、捕らえられた源三は平戸藩に差し戻され死刑を言い渡され百間馬場(ひゃっけんばば)というところで処刑されました。

当時43歳でした。

左の写真はその源三の墓です。

右上の写真は源三を祀ってある源三神社です。

それにしてもこの墓石、相当な大きさです。









興神社(こうじんじゃ)


一の宮?

この神社の敷地はおよそ1000坪あります。

昔は、壱岐国一の宮とか国府社とよばれ、また、拝殿は印鑰大明神(いんにゃくだいみょうじん)と呼ばれていました。

一の宮とは、古く平安時代から用いられている名前で、国司がその国の神社を参拝するときに一番最初に参拝する神社のことをいいます。

だから、壱岐では一番古い神社ということもできます。

壱岐では天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)が今壱岐国一の宮とされていますが、これは間違いだというのが定説になっています。

興神社の「興」は国府という意味で、近くに壱岐国府があった場所と考えられています。




市役所

印鑰神社は、平安時代に、朝廷から渡された公印と倉庫の鍵を管理していた神社です。

印は壱岐国の官印、国印のことです。

また、鑰は郡官庁の倉庫の鍵のことです。

今風に言えば、市役所と同じ役割だと思ってください。

その国の印鑑と鍵は国司が国をおさめるのに最も重要なものです。

印鑰神社があることは、この近くに、律令時代の官庁の建物か、付属設備があったことになり、興神社が一の宮といわれる理由がここにあります。

主祭神は、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇のことで神功皇后の夫)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)です。



肥前鳥居

右の写真は2番目の島居です。

ご存知のとおり肥前鳥居ですね。

肥前鳥居というのは、横になっている石の先端が丸みを帯びて、そり上がっています。

島居の右脚には松浦鎮信(まつうらしげのぶ)の銘が刻まれています。

高さは3.45mあります。








本殿

左の写真は本殿です。

長崎県で3番目に古いものです。

棟札によると江戸時代に建てられたことになっています。














七郎神社

次のようなお話があります。

江戸時代、平戸藩から検地の役人がやって来ました。

壱岐では、この役人を、正伝庵で接待しました。

飲めや歌えやの大騒ぎで、長い時間が経過しました。

この日、役人の乗る馬を見張っていたのが七郎でした。

酒盛りが余りにも長かったので、七郎は眠ってしまいました。

そのため、馬が逃げてしまい、田に植えてあった稲を食べてしまいました。

それを知った奉行は、七郎を激しくたたきのめしました。

これに怒った、七郎は、馬を殺してしまい、自分も自害して果ててしまいました。

それ以後、この付近では、霊魂があらわれ、人々を悩まし、また、ひずめのない牛や馬が生まれたり、不吉なことが続きました。

村の人々は、これは、七郎や馬のせいだと考えて、神社を建てて、祀りました。





また、供養塔をたてて、七郎の霊を慰めました。


















津(つ)神社

津上山(つのかみさん)

地元では、津上山(つのかみさん)と呼ばれている、高さ134mの山の頂上にあります。

この山には、平安時代から、見張りのための役所があったところです。


祭神

祭神は、海彦、山彦の話しで有名な、山彦の別名、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと・山彦)

山彦が、なくした釣り針を探すために、竜宮上に行ったときに、釣り針をさがしてもらったりして、いろいろ、お世話になった、豊玉比売命(とよたまひめのみこと)です。










牛神


江戸時代、壱岐では、牛の伝染病が大流行し、たくさんの牛が死にました。

伝染病は、新城(しんじょう)村、箱崎(はこざき)村、諸吉(もろよし)
から始まり、壱岐中に広まりました。

そのため、守護代や郡代ら、役員が
協議して、津上山に、牛神を呼んで、神社を建てました。

同時に、牛神といわれる素佐男尊(スサノオノミコト)と別名、大黒様とも呼ばれている、大己貴命(おおなむちのみこと)を招来し、疫病退散の祈りが行われました。









母子神様

境内には、母子神さまもいます。

男は、母子神様の、左の袖を引っ張れば、美しい女性と結婚することができます。

女性も、左の袖を引っ張れば、イケメンの男性と結婚することができます。

また、母子神様の、腰をなでれば、子どもが授かり、円満な家庭を築くことができます。


牛まつり

津神社では、毎年4月の第2日曜日に牛まつりが行われています。

壱岐牛の名前を広めるためと、牛の安全祈願のために、20数年前に地域おこしを兼ねて、牛祭りを始めました。

牛祭りをしているのは、牛方触(うしかたふれ)、大浦触(おおうらふれ)の人たちです。

大人や子供たちが、牛のハリボテや
福神の格好をして、1.5kmの道のりを歩き回ります。

さながら、仮装行列のようです。

山頂にある、神社では、地元の婦人会によって、バザーが行われたり、せんべいやまんじゅう等が販売されています。


見晴らし

神社の境内からは、半城(はんせい)湾や牧崎がはるかかなたに、箱庭のように、見えます。

見晴らしの良いところです。



月読神社


豪族壱岐氏

大和時代、壱岐では、壱岐氏という豪族が壱岐を支配して、治めていました。

また、壱岐氏は、占いによって航海の海上案内をしており、朝鮮半島→対馬→壱岐→九州の航海安全を祈るため、月読神社を建てました。

月読神社は、
当時、航海の第一人者であった壱岐氏が壱岐の島でまつっていた航海の神様です。

いつ造られたかは分かりませんが、日本最古の神社と言われています。


月読神社があるこの場所は、今は小さな神社ですが、かつては大きな神域をもっていたと考えられます。




古事記

古事記には、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)、左目を洗ったときに産まれたのが天照大神(あまてらすおおみかみ)です。

その後、今度は、
右目を洗い、そのときに産まれたのが月読尊(つきよみのみこと)です。

月読尊(つきよみのみこと)は夜をつかさどる神として、月にたとえられ、この神様をまつってある神社が月読神社というわけです。

そして、更に、鼻を洗ったときに産まれたのがスサノオノコトです。

この神様は、海を治めるように命じられた、
とあります。

この3人の神様は他の八百万(やおよろず)の神々とは別格で、三貴神(みはしらのうずみこ)と記されています。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は昼をつかさどる神で、太陽にたとえられて、高天原(たかまがはら)を治めています。

これに対して、月読の神は、この地上を月の光がまんべんなく照らし、自由、平等、平和に過不足なく生きられるようにと願っている神様です。


狛犬

県道に面した鳥居から、急な石段の参道を上ったところにあります。

神社は、うっそうとした、昼なお暗く神秘的なたたずまいを見せる森の中にあります。

階段を上りきると、左の写真のような、狛犬がいます。









月つながり

左の写真は、お堂のなかに飾ってある写真の1つです。

月を表しています。















分霊

月読神社と名前のついている神社は、三重県の伊勢神宮の内宮の月読神社外宮にある月夜見神社、それと、壱岐の島の月読神社、京都府の松尾大社の横の月読神社があります。

問題は、壱岐の島の月読神社と他の場所にある月読神社との関係です。

壱岐の月読神社は、もともとは壱岐の豪族の壱岐氏が、航海の安全を祈るために、おまつりしていました。

その後、487年、大和時代、安倍臣事代(あべのおみことしろ)が、遣任那使として、任那の国に使いで行きました。

そのとき、
壱岐の月読神が、「私は月神である。私を京都にまつれ。もし、私がいうようにすれば日本国中が幸せになるだろう。」と、いいました。

安倍臣事代は都に帰り、天皇にそのことを報告しました。

天皇は、これを受け入れ、さっそく、壱岐県主の先祖、押見宿彌(おしみのすくね)を壱岐島から京都に呼び、嵐山に、壱岐の月神を分霊して、月読神社をまつりました。

この嵐山の月読神社は京都では最も古く「松尾大社」の南隣にあります。

その後、京都の月読神社を中心にして、日本全国に神道が根付くようになりました。

したがって、壱岐の月読神社が全国の月読社の「元宮」(もとみや)となるわけです。

このことから、壱岐は、神道の発祥の地とされています。



月延石(安産石)

右の写真は、月読神社の隣にあります。

2つのほこらみたいなものが見えますが、この中に、月延石(安産石)があると聞いたので、
確認しましたが、発見できませんでした。

この月延石(安産石)については、次のような話があります。

この神功皇后が、のちの応神天皇を腹に宿して朝鮮へ出征しました。

そのときが、ちょうど産月でしたが、その際、皇后は、自ら祭主になって祈念し、「事が終えて帰ってからこの地で産むまで産月を延べて欲しい」と願いました。

すると、月神が現れて、神石を示し、「この石で皇后のお腹をなでて心を鎮めると良い」、と言われたので、神石を袂(たもと)に挟んで出産を遅らせた、といいます。

鎮懐石とも呼ばれています。


この石は筑紫にありましたが、雷が落ちて、三つに割れてしまいました。

その結果、一つは京都の月読神社に、一つは福岡県糸島市の鎮懐石八幡神社に、あと一つが壱岐の月読神社に祭られました。

話は、ちょっと、変わりますが、壱岐に、本宮八幡神社という神社があります。

この神社に、月延石がありますが、この石を見ることができる人は、この神社を継ぐ人だけだそうです。

したがって、我々一般人は、見ることができないそうです。


月読神社の場所についての説

現在、壱岐島内では、芦辺町国分字東触にある神社が「月読神社」を名乗っています。

現在の場所にある、月読神社は、江戸時代、延宝4年に、平戸藩の国学者、橘三喜(たちばなみつよし)によって、単純にこの周辺が、清月という地名だったことからから、式内社の月読神社と推定されました。

しかし、実は古くからこの場所が月読神社だという推定には疑問が
もたれています。

その理由として、神祠がないことです。

式内の月読神社は名神大なので、いかに廃止したとしても、神祠を廃止するようなことまではやらないだろう、というわけです。

また、祭神は夜見尊、月弓尊、月讀尊になっていますが、月読社は天月神命なのでここからみてもおかしい、 ともいいます。

それでは、本当の月読神社はどこにあるのか、ということです。

まず、候補としてあげられているのは、箱崎八幡宮です。

次に、あげられているのは、男岳神社です。



爾自(にじ)神社

神功皇后

難しい漢字ですね〜。

この神社の本殿裏に、縦約3.9m、横約3.3m、高さ約2.7m、周囲約11.4mの大きな石があります。

玄武岩でできていて、「東風(こち)石」と呼ばれています。

以前は、宝殿の中にありましたが、中世に今の場所に移しました。

神功皇后が三韓出兵のとき、勝本浦に寄港しましたが、順風がないため出船できません。

そこで、この東風石と呼ばれている、この巨石に東風の順風祈願をしたところ、この石が二つに割れ、そこからさわやかな東風が吹き出しました。

神功皇后は、この風で出航することができました。

中世には、この付近は勝本の聖母宮の神領となっていました。




財政難

さらに江戸時代になると、朝鮮通信使とこの東風石が深い関わり合いを持つようになりました。

朝鮮通信使は、将軍が代るごとに、お祝いに訪れました。

朝鮮通信史は300から500人の大使節団で、
平戸藩は江戸までの行き帰りに朝鮮通信使の接待を勝本浦でおこないました。

しかし、この接待、莫大なお金がかかりました。

風向きの関係で、壱岐での滞在が長くなると、藩の財政が苦しくなります。

そこで、神功皇后の故事にならって城代に命じ順風祈願をさせました。

祈願は、8人の神主による大神楽で行なわれました。

運良く東風が吹くと、白銀や米などが送られました。


灯篭

大きな石のすぐ隣にある灯篭(とうろう)には、「寛文十一年十一月吉日」(1671)と刻まれ、15人の名前が刻まれています。

手前に見える白い灯篭ではありません。

お伊勢参りの道中、船旅の安全祈願をし、それが成就したので献納されました。









肥前鳥居

この石の鳥居は、江戸時代につくられたものです。



















箱崎八幡神社


月読神社?

この神社はみるからに古くからの由来がありそうな神社です。

壱岐では海の男たちの守り神として昔から有名です。

この神社は、最初は式内月読神社として創立され、その後、海神や龍神が祀られ、さらに、八幡神が祀られました。

相殿には、月神命も祀られていて、棟札にも「箱崎八幡宮月讀宮・・・」と記されています。

このことから、この神社は月読神社ではなかったかともいわれています。

現在、壱岐には月読神社が他の場所に存在しています。

現在、月読神社と呼ばれている神社がある場所は、江戸時代に橘三喜(たちばなみつなり)が、現在、月読神社のある場所が、「清月村」だったことから、その場所の神社を月読神社と推定しました。

しかし、この推定は誤りであるといわれています。

推定当時のその神社は社殿もない神社だったといわれています。




壱岐は室町時代から江戸時代にかけて鯨がたくさん捕れました。

特に壱岐で捕れる鯨は紀州で捕れる鯨よりも大きいので、遠くは紀州からも鯨組がやってきてたくさんの鯨を捕っていました。

室町時代に、紀州熊野の日高吉弥(ひだかきちや)が、金灯篭1基をこの箱崎八幡宮に献上しました。

彼は、壱岐の恵美須浦(うびすうら)で鯨を捕っていました。

壱岐における捕鯨業の始まりを知る貴重な資料になっています。

右上の写真の灯篭や舟形の手水鉢は江戸時代に作られたものです。




一番古い

左の写真はこの神社の狛犬です。

実は、この狛犬は壱岐で一番古い狛犬です。

普通、狛犬は神社の入り口に置いて、その神社の敷地を守る役目をしていますが、この神社の狛犬は、本殿の後ろにある山の中に置いてありました。

この狛犬を見つけたとき、その荘厳さ、周りの環境の静けさに背筋がぞっとしたことを覚えています。











兵主(ひょうず)神社


兵主神(ひょうずしん)

私は、兵主神社を訪ねたとき、その独特の名前に驚きました。

兵主神社は、日本全国に19社あります。

兵主神とは、どのような神様でしょう。

日本の神様ではありません。

古事記や日本書紀には、兵主神は登場しないのです。

兵主神社に、まつってある神様は、壱岐の場合、素盞鳴尊(すさのおみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)です。

しかし、こ3人は形式上の、神様であり、兵主神は、中国の「史記」という本に出てくる、蚩尤(しゆう)という、武将が、神様になったものと考えられています。

蚩尤(しゆう)は、鉄を食べ、顔は人間、体は獣の姿をしていて、額(ひたい)には、角(つの)があり、角力(すもう)では、かなうものがいなかったといいます。

ということで、この、兵主神社はなかなか奥が深そうです。

しかし、ここでは、とりあえず、うわべだけのお話しになります。







祭神

素盞鳴尊(すさのおみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)がまつってあります。

素盞鳴尊は、別名、ヤマトタケルノミコとも呼ばれ、高天原(たかまがはら)で、姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)に、乱暴をはたらいた罪で、高天原追い出され、地上に降りて、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した武将です。

大己貴神(おおあなむちのみこと)は、皆さん良くご存知の大きな袋を肩にかけている、大黒様と呼ばれている、神様ですね。

天照大神に、出雲の領土をゆずった神様です。

事代主神(ことしろぬしのかみ)は、大黒様の子どもで、別名、エビス様と呼ばれ、大きな鯛(たい)を、抱えている、豊漁、海上安全の神様です。


絵画

この、兵主神社の、神殿の側壁に、鮮やかな色の絵画があります。

絵には、獅子、梅、鶴、朱買臣(しゅばいしん)などが描かれています。














本宮八幡神社

豊前国宇佐郡八幡を勧請したので宇佐八幡になりました。

祭神 東殿聖母大神、中殿住吉大神、西殿八幡大神。

鎮懐石2個は内殿にあります。

この山にいる蝮(まむし)や蛇は人に噛み付くことはないということです。

また、近くの水田にいる蛭(ひる)も、人に吸い付くことはないそうです。

これはこの神社の神様のいましめがあるから、といわれています。


1658年、江戸時代、壱岐はひどい飢饉にみまわれました。

そのため、藩の奉行所が崎野のあたりの木を切って薪(まき)にしました。

ところが、薪を切るために使った斧や山刀、牛馬の鞍などが大きな松の枝の上に移されていました。

人々は困惑しました。

また、
1221日の丑の刻に神社の内殿の中央の扉が2つに割れて、神の光が東をさして飛び去りました。

その形は数反の布を敷いたようだったので、人々は肝をつぶしました。

その後、25日にこの村の神楽場に小屋を作り、祓(はらえ)をし、祝詞を述べ、神楽をして、33晩神の帰りを祈りました。

27日の丑の刻に神の光が御殿の中に入っていきました。

このことから、神社の木を切ると神が怒るということが分かったということです。





ちょっと急な山頂へまっすぐ伸びる参道を登ると階段があり、階段を上りきると日清、日露戦争凱旋祈願の石灯篭が建ち並んでいます。

これは、日清戦争の戦勝祈願のために作られました。

その上にはトビの像が置かれています。


鬼伝説で名高い百合若大臣の鷹、みどりまるがモデルになったといわれています。












これは、日露戦争のときの戦勝祈願のために作られました。

何となく歴史を感じさせますね〜。















これは、江戸時代に作られた石燈籠です。















絵馬

ここには江戸末期に奉納された絵馬が多く残っています。

裏手にある本殿の絵はみごと
です。

鯨漁で栄えた鯨組関係者が奉納したといわれています。

また江戸初期の神楽面も有名です。

本宮山は、海路の交通、漁のおりの目標にされ深く信仰されました。






伝説

八幡大神が鬼どもに言いました。

本宮八幡神社の近くに、御手洗湾(みたらいわん)という入江があり、ここに、柄杓江(ひしゃくごう)と呼ばれている中州があります。

この中州を、1夜のうちに柄杓江(ひしゃくごう)とをつなぐことができたら、この国をやろう、というものでした。

喜んだ鬼どもは、
1夜で築き合わせようとしました。

あと、もう少しで完成するときに、八幡大神が、山上に上って、鶏の声を出しました。

鬼どもは驚きました。

今の勝手口はそのときの残りです。




石鳥居

元禄2年建立されました。
















彫刻

拝殿にある素晴らしい彫刻。





















水(みず)神社

平安時代

壱岐式内社の一つで、当初は、天神と言っていました。

嵯峨天皇の平安時代に建てられました。

当初は、今の布気川(ふけがわ)をのぼり、射辻というところにある、下津岩根に建てました。

しかし、海上を通る船が、帆を下ろし、神様を敬わなかったので怒り、今の水本山
(みずのもとやま)に遷しました。









江戸時代

その後、江戸時代に、平戸藩主の松浦鎮信は国学者橘三喜(みつよし)に、壱岐の式内社24社の調査を命じた折に、この神社のある村が「水本(みずのもと)」と呼ばれ、また、神社のある山が水本山(みずのもとやま)であったことから、この神社を水神社と推定し、今に至っています。

写真は、水本山からのわき水によってつくられているため池です。














鳥居

鳥居は肥前鳥居です。

元禄
2年、江戸時代建立です。

参道の途中にも鳥居があります。











祭神

神様は、速秋津日命(はやあきつひのみこと)で、相殿に菅原道真公をまつっています。

速秋津日命は、水神で、海や川に流れ込む汚れや穢(けがれ)れを取り除いてくれる神様です。

水害や、水難等を防いでくれる神様でもあります。

そういうことからすると、当初は、この付近に大きな川が流れていたと考えることもできます。











菅原道真

菅原道真は、平安時代の政治家兼学者で、894年に遣唐使に任命されましたが、当時の唐の政治情勢が不安定だったこともあり、遣唐使の廃止を主張し認められました。

当時は、皆さんがご存じのように、藤原時平(ふじわらのときひら)の全盛時代でした。















異例の出世

醍醐天皇のとき、道真は右大臣、時平は左大臣になりましたが、時平にとっては、異例の出世で学者出身の道真が右大臣になったことは、おもしろくありませんでした。


左遷

そのため、時平は、道真が天皇の廃止をとなえたとか謀反をたくらんでいるとか、というデマを流し、それを信じた醍醐天皇は、道真を大宰府に左遷させました。

道真は船に乗って、京都、宇治川、瀬戸内海を渡り、大宰府までやってきました。

中央から、地方に流された道真は、大宰府で亡くなり、安楽寺に埋葬され、その後、関係者によって、同じ場所に大宰府天満宮が建設されました。











たたり

道真は、死後、雷神となって、自分を陥(おとしい)れた藤原氏一族や天皇に復讐を開始します。

先ず、会議場であった清涼殿に落雷し、会議中の藤原時平一族を、感電死、落雷死させました。

また、
醍醐天皇もこれによりショックを受け、病死しました。

道真は死後なった雷神は雨をもたらす水神でもあります。

そういうことから、速秋津日命と菅原道真は関係があるのではないかと思われます。







イチョウ

大イチョウの木については、壱岐の木イチョウを参照。


石灯籠

石灯籠は茶屋本初蔵(ちゃやもとはつぞう)が16歳のときの作といわれています。

茶屋本初蔵については祥雲寺参照。