壱岐の式内社 二十四社
延喜式内社 |
平安時代、醍醐天皇は、日本全国の神社を調査して、その神社の格付けを行いました。
この格付けをなすにあたって、作成されたのが、延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)です。
そして、この延喜式神名帳に登録された神社を式内社と呼んでいます。
一方、式内社に入らなかった神社のことを、式外社(しきげしゃ)といいます。
式内社は、まず、官幣社と国幣社とに格付けされました。
官幣社とは、毎年2月の祈年祭に、各神社の祝部(はふりべ・神職)が、神祇官(朝廷)から幣帛(へいはく・神に捧げる物や金銭)を受ける神社をいいます。
国幣社とは、毎年2月の祈年祭に、各神社の祝部(はふりべ)が、国司から幣帛を受ける神社をいいます。
次に、官幣社と国幣社は、その神社の重要度や社勢、境内の面積、社殿の大小によって、大社と小社に分けます。
したがって、式内社は、官幣大社・官幣小社、国幣大社・国幣小社、の4つに分類されます。
また、上の分類とは別に、式内社の中には、臨時的・突発的に国家的な異常事態が発生したり、またはその発生が予想されるときに、その解決を祈願するためのお祈りをする神社がありました。
例えば、元寇のように、外国から侵入された場合が、異常事態にあたります。
このお祈りのことを、名神祭(みょうじんさい)といい、その名神祭を行う神社を、名神大社(みょうじんたいしゃ)といいます。
名神大社は、特に古来より霊験が著しいとされる神様がいる神社に限定されています。
壱岐の式内社 二十四社とは |
壱岐には、名神大社が6社、大社が1社、小社が17社、計24社の式内社があります。
名神大社には、住吉神社、兵主(ひょうず)神社、月読(つきよみ)神社、中津(なかつ)神社、天手長男(あめのたながお)神社、天手長比賣(あめのたながひめ)神社の6社があります。
大社には、海(かい)神社があります。
残りの17社は、小社に指定されました。
壱岐は、小さな島なのに、式内社が多い理由は、壱岐には優秀な卜部がいたことと、壱岐は、辺要(辺地の要害)指定を受け、国として取り扱われ、国防を厳しく行う必要があったから、と思われます。
式内社改め |
延宝4年(1676)、江戸時代、平戸藩主の松浦鎮信は、壱岐国にある式内社24社を調査し、廃れた神社があれば再建し、それぞれの神社の祭神の名前を記録し、後世に残し伝えようと思い立ちました。
そこで、橘三喜に、壱岐国24社の調査を命じました。
調査の結果を受けて、松浦鎮信は、壱岐の式内社24社のそれぞれに対して、木鏡一面と石額を献進しました。
ところが、この式内社24社の調査は、困難を極めました。
なにしろ、平安時代にさかのぼっての調査です。
廃止されて、失われている神社もあれば、神社名が変わった神社もあり、また、移転した神社もありました。
これらを、神社のあった地名や、村の長老の伝承をたよりに、調査を行いました。
その結果、神社の所在地や、神社名が間違っている個所も、いくつかありました。
しかし、一度、結論を出し、藩主に報告書を提出した後は、その間違っている個所の、変更は困難で、訂正されないまま、今日に至っています。
1. 水(みず)神社 小社 |
祭神 速秋津日神(はやあきつひのかみ)
相殿 管贈相国(かんぞうしょうこく)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、布気天神とか天満天神と呼ばれ、祭神も罔象女(みぞはのめ)でした。
延宝4年(1676年)式内社改めのとき、橘三喜が、この地が、水本(みずのもと)という地名だったことから、式内社の水神社となりました。
本当の水神社の場所は、半城村の河原神社です。
ここにある、イチョウの木は、壱岐で最も大きく、高さは、20m、幹周りは6mあります。
御利益 ⇒ 海上安全、大漁祈願、学力向上、合格祈願、開運招福
2.阿多彌(あたみ)神社 小社 |
祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、山の神とか石神と呼ばれていて、建物もありませんでした。
もともとは、湯ノ本温泉の神様でした。
延宝4年(1676年)式内社改めのとき、橘三喜が、この近くに、「あたみ畑」(なまると、あざみともいう)、という畑があるので、式内社の阿多彌神社としました。
本当の式内社の阿多彌神社の場所は、熊野神社です。
御利益 ⇒ 農業・商工業の発展、健康、無病息災、良縁成就
3. 住吉神社 名神大社 |
祭神
底筒男神(そこつつおのかみ)、中筒男神(なかつつおのかみ)、表筒男神(うわつつおのかみ)
相殿 八千戈神(やちほこのかみ)
神功皇后が、三韓征伐をして帰るときに、水先案内をつとめた住吉大神は、半城湾の御津浜(みつのはま)に上陸し、ここに神殿を建てました。
しかし、波の音がうるさく、とても、平穏に過ごすことができなくなり、現在の住吉神社のある地に、移りました。
明治4年(1871)、国幣中社に列格され、壱岐で唯一、官社となった神社です。
ここから流れ出ている水は、弥生時代の遺跡が発見されている原ノ辻を流れている、幡鉾川の源流になっています。
境内には巨木のクスノキ、スギノキ、サクラノキが立ち並んでいます。
御利益 ⇒ 航海、漁業の安全と繁昌、商売繁盛、縁結び、子授け、芸能上達
4.兵主神社 名神大社 |
祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、日吉山王権現と、呼ばれていました。
延宝4年(1676年)式内社改めのとき、橘三喜が、聖母神社とし、聖母神社の石鳥居の額を持って来て納め、聖母神社には、兵主神社の石額をかけました。
しかし、延宝7年(1679)、箱崎八幡宮の吉野末益が異を唱え、藩もそれを認め、勝本浦の聖母神社を元の名前の、聖母神社に戻しました。
日吉山王権現の方は、元の日吉権現には、戻らないで、そのまま兵主神社となってしまいました。
神殿の側壁には、壱岐では珍しい、獅子と梅、鶴と人(朱買臣)の、彩色の壁画が描かれています。
本当の兵主神社の、場所は、本宮八幡神社です。
御利益 ⇒ 厄除け祈願、豊作祈願
5.月讀神社 名神大社 |
祭神
月夜見尊(つきよみのみこと)、月弓尊(つきゆみのみこと)、月読尊(つくよみのみこと)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、清月神社と、呼ばれていました。
延宝4年(1676年)式内社改めのとき、橘三喜が、この近くに、キヨツキという地名があるので、式内社の、月読神社にしました。
しかし、もともと、月読神社は、名神大なので、いかに、廃止されたとはいえ、このような小さな規模ではなかったのではないか、といわれ、ここは本来の月読神社があった場所ではないと、いわれています。
本当の月読神社の、場所は、箱崎八幡宮です。
御利益 ⇒ 厄除け開運、豊作祈願、大漁祈願、健康長寿、安産、学力向上
6.國片主神社 小社 |
祭神
少彦名命、管贈相国(かんぞうしょうこく・菅原道真)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、学問の神様である、菅原道真を祀っていたので、国分天満宮とか国分天神と、呼ばれていました。
延宝4年(1676年)式内社改めのとき、橘三喜が、この地は、国分と呼ばれていて、少彦名命は、大国主命と共に国を分けて、国造りに励んだということから、国片主神社にしました。
国片主神社の、旧社地は、長峰村にあった、「主」という文字は入っていませんが、国片大明神です。
国片大明神は、大正5年に、邇自神社に合祀されています。
ここには、小さい鳥居が三つあり、ここをくぐって祈願する習慣が残っています。
御利益 ⇒ 厄除け開運、豊作祈願、大漁祈願、健康長寿、安産、学力向上
7. 高御祖(たかみおや)神社 小社 |
祭神
高産霊尊(たかみむすびのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、熊野権現とか熊野三所権現、と呼ばれていました。
延宝4年(1676年)式内社改めのとき、宮司が、箱崎八幡宮に別座で祀られていた高御祖神社の社号を、この熊野権現につけ、高御祖神社に改めていたので、橘三喜が式内社としました。
ここの、狛犬は、みごとな出来ばえです。
御利益 ⇒ 夫婦和合、縁結び、子孫繁栄、安産祈願
8.手長比賣神社 小社 |
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、手長男大明神とか棚川大明神と呼ばれ、神功皇后を祀っていました。
延宝4年(1676年)式内社改めのとき、橘三喜が、「棚川(たなごう)大明神」という名前から、式内社の手長姫神社としました。
本来の式内社の手長姫神社は、勝本浦の「聖母宮」と、推測されています。
昔、本宮八幡神社の神様と手長姫神社の神様が、手長川の川上に立ち、石つぶてを投げて祭壇の広さを競いました。
八幡様が投げた石は遠くまで飛び、手長姫様が投げた石は、近くの榎にあたって跳ね返り、足元に落ちてしまいました。
このため、八幡神社の祭田は広いものとなりましたが、手長姫神社の祭田は一反5畝という狭いものになってしまいました。
このときの、石つぶてが今でも田の中にある、といいます。
御利益 ⇒ 縁結び
9.佐肆布都(さしふと)神社 新城北触 小社 |
祭神
天津日高彦火 瓊瓊杵尊(あまつひだかひこほににぎのみこと)、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)、天太玉命(あめのふとだまのみこと)
合祀 經津主命(ふつぬしのみこと)
明治41年(1966)、中津神社に合祀されました。
現在は丸木で作った素朴な鳥居だけで、神殿はありません。
昔、佐肆布都神が、神石舟に乗ってこの地にやってきました。
森の中にある境内跡地に、その大石があります。
もとは1つでしたが、いつのまにか、2つに割られています。
イヌマキやスダジイの大木も、みごとです。
御利益 ⇒ 開運祈願、健康祈願、勝利祈願
10.佐肆布都(さしふと)神社 箱崎 小社 |
祭神
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
相殿
高貴神(たかぎのかみ)、天照大神(あまてらすおお みかみ)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)、甕速日命(みかはやびのみこと)、樋速日命(ひはやびのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、稜威雄走神(いつのおばしりのかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、大己貴神(おおなむちのかみ)、事代主命(ことしろぬしのみこと)
延宝4年(1676年)の式内社改め以前は、式外、「平江大明神(ひらえだいみ
ょうじん)」と呼ばれていて、現在でも「おひらえ様」と呼ばれています。
みごとな、狛犬があります。
御利益 ⇒ 開運祈願、健康祈願、勝利祈願
11.中津神社 名神大社 |
祭神
天津日高彦火瓊々杵尊(あまつひだかひこほほぎのみこと)、天児屋根尊(あめのこやねのみこ)、天太玉命(あめのふとだまのみこと)
明治41年(1966)、中津神社を合祀し、経津主命(ふつぬしのみこと)を併せて祀りました。
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、中津宮と呼ばれ、式外で、当時の海人族、壱岐氏が、自分の屋敷の近くに、中津神社を分祀したものです。
延宝4年(1676年)式内社改めのとき、橘三喜が、式内社中津神社としました。
しかし、延宝の式内社改めのとき、社拝殿はありましたが、宝殿や拝殿はなく、名神大にしては、規模が小さいために、式内社の中津神社ではない、といわれています。
本来の中津神社の、場所は、聖母宮です。
御利益 ⇒ 開運祈願、子孫繁栄、勝利祈願
12.角上(つのかみ)神社 小社 |
祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、塗神(とかみ)と呼ばれ、式外でした。
当時、この神社のふもとにある、深江田原平野は、大きな沼地で水はけも悪く、大雨が降ると洪水で、交通の大障害となるので、みんなが困り、ここト神山に、角上神社を勧請しました。
延宝4年(1676年)式内社改めのとき、橘三喜は、角上と書いて、「ツノカミ」と読まれている、この角上神社を、式内社角上神社としました。
神社は、山の頂上にあり、周辺は、スダジイやタブノキの大木があります。
境内のイチョウの木もみごとな大木です。
13.天手長男神社 名神大社 |
祭神
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)
昭和40年(1965)、名神大の天手長比賣神社、物部布都神社、若宮神社、宝満神社を合祀し、次の祭神を追加。淡島神社(祭神 南市御前)を境内に移転。
合祀 仁徳天皇、仲哀天皇、日本武尊(やまとたけるのみこと)、比賣大 神(ひめおおかみ)
合祀 式内社 天手長比賣神社 名神大、栲幡千々姫尊(たくはたちぢ ひめのみこと)
左二座 稚日女尊(わかひるめのみこと) 、木花開耶姫命(この はなさくやひめのみこと) 右二座 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、 玉依姫命(たまよりひめのみこと) 物部布都神社 布都主命(ふつぬしのみこと)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、若宮神社と呼ばれ、式外でした。
延宝4年(1676)、式内社調査の際、平戸藩の国学者橘三喜は、この付近の地名が「田中村」であることと、神社が鉢形山上にあることから、「田中丘」「タナガオ」と考え、式内社 天手長神社にしました。
現在、天手長男神社は壱岐国一の宮となっていますが、壱岐国一の宮は、興神社といわれています。
橘三喜は、当時、何とかして、天手長男神社である証拠を見つけるために、鉢形山を発掘調査しました。
この時、掘り出されたものが、石造弥勒如来坐像です。
国指定重要文化財になっていますが、盗難に遭い、現在は、奈良博物館にあります。
御利益 ⇒ 五穀豊穣、開運祈願、安産祈願、夫婦円満、延命長寿
14.天手長比賣神社 名神大社 |
祭神
栲幡千々姫尊(たくはたちぢひめのみこと)
左二座 稚日女尊(わかひるめのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
右二座 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)
昭和40年(1965)、天手長男神社に合祀しました。
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、幡宮(はたのみや)とか五所比売大明神と呼ばれていました。
延宝4年(1676)、式内社調査の際、平戸藩の国学者橘三喜は、名神大 天手長比売神社にしました。
現在は、鳥居と、狛犬が逆立ちしている珍しい形をした灯篭だけが残っています。
鳥居は江戸時代に造られ、肥前型鳥居です。
御利益 ⇒ 安産祈願、夫婦円満、延命長寿
15.彌佐支刀(みさきと)神社 小社 |
祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
「延喜式神名帳』には、八剣大明神と記載されています。
この場所に移る前には、神度丘や太刀丘にあり、何回か、場所を、転々としています。
境内にある狛犬は、壱岐の名工、山内利兵衛の力作です。
御利益 ⇒ 開運祈願、豊作祈願
16.國津(くにつ)神社 小社 |
祭神
足名槌命(あしなづちのみこと)、手名槌命(てなづちのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)
配祀 武甕槌神(たけみかづちのかみ)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、初め、鹿の辻にあり、後に、矢櫃山(宮尾)に移転しました。
式内社改め以前の祭神は、武甕槌命で、荒波加大明神(あらはかだいみょうじん)とか蓬の宮(ふつのみや)と呼ばれていました。
延宝4年(1676)、式内社調査の際、平戸藩の国学者橘三喜は、国津神社にし、祭神も上に記している祭神に変えました。
しかし、現在、この神社は、天手長男神社に合祀されている、物部布都神社ではないかと、いわれています。
(お話1)
昔、神功皇后が三韓征伐のとき、常陸国鹿島大神が48隻の兵船のかじ取りとなって、この村の神の崎に着きました。
鹿の嶺に上って、西の海を見ると荒れ狂っていました。
このため、縄碇(なわいかり)を、住民に頼みましたが、急にはできなかったので、神功皇后は、異国を退治して無事に帰ってきたら、この場所の守護神になるので、速やかに縄碇を作るように頼みますと、住民はすぐに、縄碇を作りました。
韓国征伐をして帰ったときに、鹿の嶺に社殿を建てて祀りました。
(お話2)
次のような、お話もあります。
昔、伊豆半右衛門という人の、遠祖が、小浜(神田浦)にいたとき、沖から1つの甕が寄って来ました。
沖に突き出してもまた戻ってきます。
この人は、これは、甕が神様なので、人がいる浦に流れ着いたのだろう、と思い、その甕を今の神殿の右の傍らに埋め、その上に石を置きました。
名づけて甕石といいます。
延宝4年、橘三喜が、この甕を掘らせると、矛、鏡、菊花石などがその中にありました。
幾千年経っても、全く曇りがなかったといいます。
三喜はこれを神殿に納め、甕は元のところに埋め戻しました。
それは、今の宝殿の右傍にあたります
上に石を置いているので、甕石大明神といいます
境内にある、狛犬は、力強い、みごとな出来ばえです。
御利益 ⇒ 農業発展、縁結び、夫婦和合
17. 海(かい)神社 大社 |
祭神 豊玉彦命(とよたまひこのみこと)
延宝4年(1676)の式内社改めのとき、橘三喜は、海神社がどこにあるか分からず、石田町筒城に、里人が、カミジヤマと呼んでいた地名を、海神山(かいじんやま)と聞き間違えて、海神山にあった、小さな祠を、式内社の「海神社」にしてしまいました。
御利益 ⇒ 航海安全、大漁祈願
18.津神社 小社 |
祭神
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうか やふきあえずのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、豊玉比咩命(とよたまひめのみこと)、玉依比賣命(たまよりひめのみこと)、神日本磐餘彦命(かむやまといわれひこのみこと)
寛文12年(1672)に、壱岐島内で、牛の疫病が大流行し、たくさんの牛が死にました。
これを食い止めようと、守護代や郡代が相談して、費用を国中から集め、角上(つのかみ)に牛神を勧請して、社を建て、牛神といわれる素盞鳴尊(すさのおのみこと)と大国主命(おおくにぬしのみこと)を招き、疫病退散の祈祷が行われ、牛神が祭られました。
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、津上(つのかみ)大明神と、呼んでいました。
昔は、立石村潟長江(かたなえ)より、深江の川内尻にかけて、海水が往来し、物部の壱岐渡、烏賊の口、柳田を経て、津の上の麓、べべ津という所まで、海水が往来していました。
そのとき、1匹の亀が津ノ神様に参詣しましたが、潮が急に涸れて帰ることができず、とうとう石になってしまいました。
その亀石が今も麓にあります。
古代には、山の上の神社には社殿がなく、ただ神石があるだけだったので、この亀石は遥拝石ではなかったかといわれています。
御利益 ⇒ 厄除け祈願、豊作祈願、牛の安全祈願
19.與神社 小社 |
祭神 足仲彦尊(あしなかひこのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
相殿 大鷦鷯天皇(おおさざきのみこと)、誉田別天皇(ほむたわけのみこと)、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)、八意思兼神(やおもいかねのかみ)、住吉大神(すみよしのおおかみ)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、印鑰宮大明神(いんにゃくぐうだいみょうじん)を祀っていました。
印鑰宮には、倉庫の鑰(かぎ)と国府の印(印鑑)を納めてあるので、この神社があるということは、壱岐国一の宮がここあったと、いうことになります。
「與神社」の「與」とは、国府の意味で、この近くに、壱岐の国府があったことが分かります。
とすると、この與神社は、延喜式に記載されている、壱岐国一の宮、天手長男神社ということになります。
しかし、延宝4年(1676)、式内社調査の際、平戸藩の国学者橘三喜は、延喜式に記された「與神社(よじんじゃ)」を「興」と見間違えて、ここを「興神社」にしてしまいました。
御利益 ⇒ 安産、子宝、家内安全
20.大國玉神社 小社 |
祭神
大己貴神(おおなむちのかみ)、大后神(おおきさきのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、菅贈相國(かんぞうしょうごく)、吉祥女(きっしょうめ)、中将殿(ちゅうしょうどの)、宰相殿(さいしょうどの)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、田原天神(たいばるてんじん)とか大原大明神(たいばるだいみょうじん)といわれ、祭神は、大国魂命(おおくにたまのみこと)でした。
延宝4年(1676)、式内社調査の際、平戸藩の国学者橘三喜は、ここを、式内社の大国玉神社としました。
主祭神は、大己貴神ですが、天神ということで、菅原道真公も祀っています。
この神社の裏手には、未発掘の古墳が2基あります。
みごとな狛犬ですね。
ちゃんと、シンボルもついています。
御利益 ⇒ 開運祈願、豊作祈願
21.爾自神社 小社 |
祭神
級長津彦神(しなつひこのかみ)、級長戸辺神(しなとべのかみ)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
大正5年、周囲の無格社を合祀
大神宮神社(天照大神、栲幡千々姫命、天手力男命)、禰宜山神社(御食津神)、立石神社(石野姫命)、神坂神社(祭神不明)、國片神社(少彦名神)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、東風大明神(こちかぜだいみょうじん)、といっていました。
延宝4年(1676)、式内社調査の際、平戸藩の国学者橘三喜は、ここを、式内社の邇自神社としました。
爾自とは、西の意味で、壱岐の西の方にあるので、邇自神社と呼んでいます。
この神社にある、大きな石を「東風石」といいます。
竪約3.90m 横約 3.35m 高さ約2 .70m 周囲約11.45mあります。
神功皇后が、三韓征伐のとき、軍を、筑前より勝本浦まで進めましたが、風が悪く足止めを余儀なくされました。
境内にある巨石に、風神を祀り、祈願したところ、岩が2つに割れ、東風が吹き、その加護により三韓に渡り、異敵を攻め、勝利をえました。
この、東風石は、江戸時代に、朝鮮通信使が来たときにも、早く、壱岐から出て行ってもらいたいために、ここで、順風が吹くのを、祈願しました。
御利益 ⇒ 航海安全、大漁祈願、厄除け祈願、健康祈願、豊作祈願
22.見上(みかみ・みのえ)神社 小社 |
祭神 彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、三上大明神(みかみだいみょうじん)、といっていました。
延宝4年(1676)、式内社調査の際、平戸藩の国学者橘三喜は、ここを、式内社の見上神社としました。
見上神社は、壱岐で、最高峰の岳ノ辻(212.8m)にあります。
岳ノ辻は、大和時代から、海上防備の要の地であり、烽(とぶひ)が置かれ、江戸時代には、遠見場所が設置され、異国船の警備をしていました。
御利益 ⇒ 開運祈願、航海安全
23.國津意加美(くにつおがみ)神社 小社 |
祭神 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
配祀
大己貴命(おおなむちのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、闇袁加美神(くらおかみのかみ)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、妙見宮、といっていました。
延宝4年(1676)、式内社調査の際、平戸藩の国学者橘三喜は、ここを、式内社の国津意加美神社にしました。
境内にある、玉を加えている狛犬は、壱岐の名工、山内利兵衛の作です。
昔、素盞嗚尊(すさのおのみこと)が、悪鬼、邪神を滅ぼさんがために、日本国を残らず巡り、また、韓国を巡り、帰朝のさい、壱岐国郷ノ浦に着きました。
江上に上がり、御幸坂を通り、御手洗の水で、手を洗い、この社に、仮に鎮座し、その後、今の宮地に宮殿を建て、鎮座しました。
これ以後、壱岐中の人々が、崇敬する、妙見宮となりました。
明治6年(1873)年、犬狩騒動と呼ばれる百姓一揆が起こったとき、200人の一揆衆が、集まった場所でもあります。
御利益 ⇒ 厄除け祈願、健康祈願、豊作祈願
24.物部布都(ものべふつ)神社 小社 |
祭神 経津主神(ふつぬしのかみ)
昭和40年に、天手長男神社に合祀され、神社跡には、住宅が建設されています。
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、布都の宮(ふつのみや)、といっていました。
延宝4年(1676)、式内社調査の際、平戸藩の国学者橘三喜は、ここを、式内社の物部布都神社にしました。
橘三喜は、物部布都神社の「物部」の地にこだわって、物部村に限って見たために、この場所を式内社の物部布都神社にしました。
しかし、物部郷は、この場所の物部村だけでなく、武生水村、渡良村も含みます。
渡良村には、蓬宮(ふつのみや)とか蓬主神社と呼ばれていた、国津神社(祭神は荒波加大明神で、青波加大明神ともいいます)がありました。
この国津神社が、式内社の物部布都神社である、といわれています。