壱岐七社巡り


 壱岐七社巡りとは

壱岐には、平戸藩主が特別に、崇敬した神社、七社があります。

この七社の、お祭りの時には、神幸式、流鏑馬の神事があり、城代が参詣しました。

現在は、正月に、豊作、大漁、家内安全、健康長寿を祈願して、七社参りを行います。


七社参りをするときには、時計回りに参拝し、後ろを振り向いてはいけない、とされています。



1. 住吉神社 式内社名神大

祭神  

底筒男神(そこつつおのかみ)、中筒男神(なかつつおのかみ)、表筒男神(うわつつおのかみ)

相殿 
八千戈神(やちほこのかみ)

神功皇后が、三韓征伐をして帰るときに、水先案内をつとめた住吉大神は、半城湾の御津浜(みつのはま)に上陸し、ここに神殿を建てました。

しかし、波の音がうるさく、とても、平穏に過ごすことができなくなり、現在の住吉神社のある地に、移りました。

明治4年(1871)、
国幣中社に列格され、壱岐で唯一、官社となった神社です。

ここから流れ出ている水は、弥生時代の遺跡が発見されている原ノ辻を流れている、幡鉾川の源流になっています。

境内には巨木のクス、スギ、サクラの木が立ち並んでいます。

御利益 ⇒ 航海、漁業の安全と繁昌、商売繁盛、縁結び、子授け、芸能上達

詳しくは壱岐の住吉神社を参照してください。



2.本宮八幡神社

祭神

住吉大神(中殿) 神聖母大神(東殿ジングウコウゴウ) 八幡大神(西殿・ホンダワケ)

桓武天皇延暦7(788)に、異賊襲来により、壱岐に5つの神社を勧請しました。

箱崎八幡神社、白沙八幡神社 印鑰神社、聖母宮、本宮八幡神社の5つです。


もともと、兵主神社(祭神住吉三神・3筒男大神)として創立されました

寛延二年十一月十八日 西戎襲来の警告があり豊前国宇佐郡八幡神(神宮皇后、応神天皇)を相殿に合祀し、外敵に備えたたことから、兵主神社の名を失い、八幡宮と名乗るようになりました。


ここには、神功皇后が、三韓征伐に出かけたとき、応神天皇を妊娠していて、出産を遅らせるために、用いたという鎮懐石があります。


文化財としては、江戸時代初期に作られた猿田彦の神楽面や八咫烏神楽面があります。

曽我兄弟を描いた武者絵馬は、江戸時代に描かれたものです。

組関係者の奉納品が多く、捕鯨で栄えた勝本の鯨組関係者が、奉納したものです。


参道の階段を上りきると、日清、日露戦争の勝利祈願の石灯篭が建ち並び、その上にはトビの像が置かれています。

このトビの像は、百合若大臣の鷹、「みどりまる」を著わしているのではないかといわれています。


本宮山は、海路の交通、漁のおりの目標にされ深く信仰されています。


(神様のお話)

万治元年(1658)、江戸時代、壱岐はひどい飢饉でした。


藩の奉行所が、この神社の山にあった、小さな木を切って薪にしましたが、そのとき使った、斧や山刀、牛馬の鞍などが大松の梢にかかっていました。


人々は困惑していましたが、1221日の丑の刻に八棟の内殿の中央の扉が2つに割れて、神の光が東をさして飛び去りました。

神光の形は数反の布を曳いたようで、人々は肝をつぶしました。


12月25日に、
この村の神楽場に仮屋を作り、祓(はらえ)をし、祝詞を述べ、神楽をして、33晩神の帰りを祈りました。


27日の丑の刻に神光が御殿の中に入るのが見えました。

村人は、本宮山から木を切ると神が怒るということが分かり、その後は、木を切るのを止めました。

御利益 ⇒ 海上安全、交通安全、安産、縁結びの神

詳しくは壱岐の本宮八幡神社を参照してください。


3.聖母宮

祭神

 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)、足仲津彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと・仲哀天皇)、誉田天皇(ほむたのすめらみこと・応神天皇)、上筒男尊(うわつつのおのみこと)、仲筒男尊(なかつつのおのみこと)、底筒男尊(そこつつのおのみこと)

相殿 天照大神、玉垂神、烏賊津連、真根子連

配祠 天照皇大神(明治45年4月神明神社合祀)


奈良時代に創建され、1200年以上の歴史があります。

古くから領主や国主もお参りしていて、「壱岐国2の宮」と呼ばれていました。

昔は、聖母宮のすぐそばまでが海でした。

今は埋め立てられましたが、波や風を防ぐための立派な石垣がいろいろな所にたくさんあります。


神社が、北西の方向を向いているのは、三韓が攻めてこないように、監視し、日本を鎮護するためです。


仲哀天皇の九年、神功皇后は肥前唐津の神集島で三韓出兵の勝利を祈願し、土器崎より壱岐に向け3,270艘の軍船を出発させました。


壱岐の勝本浦に着いた時に、連日西風が続いたために、皇后が、神風を祈ると、船が進むのにつごうの良い東風が吹きはじめました。

そこで、この地を、風本と名づけ、東風が吹きゆく壱岐の方向を風早と名づけました。



このとき、皇后は、応神天皇をみごもっていて、御産月(おさんのつき)が近づいていたこともあり、熱気がとても多いので、肌を冷すために、手毬(てまり)程の大きさの石を数多く集めて、取替々々(とりかえとりかえ)して、懐(ふところ)や腰(こし)を冷しておりました。

この石を鎮懐石と呼んでいます。

三韓からの帰りに、再び立ち寄り、出兵の勝利を祝い勝本と、名を改めました。


この時、神功皇后は、異敵の首、101,500を持ち帰り、風本の浜に穴に掘って埋め、九町八反の築地を一夜で築き、その上に御殿をつくり、本朝平安、異国降伏の守護神としました。


皇后は、出兵の往来にさいし、行宮を勝本に建てましたが、御殿はその後放置されてしまいました。

しかし、毎夜、海中から光る物があがってきて、燈火のようにしばらくして静かに燃えてまた海に入る、という出来事が続きました。

そこで、村人は、54面の神殿に、神鏡を納めて神功皇后を神としてまつるための神社を、建てました。

これが、今の聖母宮です。


この神社では、毎年、聖母宮大祭が開催され、船グロ(和船の競漕)や神輿の御還幸行列、神楽の奉納などが行われます。


また、拝殿には、
左大臣と右大臣の木像2体があって、左大臣の烏帽子にラテン十字が陰刻されています。

隠れキリシタンにより、信仰されていたのではないかと、と言われています。


神社の近くには、神功皇后が乗っていた馬がつけたという、馬蹄石もあります。

豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、従軍してきた、
加藤清正 が造った石垣や西門もあります。

南門は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、肥前藩主の鍋島直茂が造営寄進しました。

境内には、江戸時代の名工、山内利兵衛が造った、壱岐牛の石像があります。

豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたときに、朝鮮に従軍した壱岐の城主、日高喜(ひだかこのむ)と元岡修理(もとおかしゅうり)が注文主となって朝鮮で焼かせた、茶壺も有名です。


御利益 ⇒ 安産、子宝、海上安全、大漁満足、必勝、厄除け、産業・家業繁栄、家内安全、縁結び、夫婦和合


詳しくは壱岐の聖母宮を参照してください。



4.箱崎八幡神社

祭神

月讀神社 天月神命

海裏宮 

豊玉毘古命
(とよたまひこのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと) 

八幡宮

応神天皇
(品陀和気命・ほんだわけのみこと) 、中津姫命
(なかつひめのみこと・仲日賣命・なかひめのみこと・応神天皇の皇后)、 仲哀天皇(帯仲日子命・たらしなかひこのみこと) 神功皇后(息長帯日賣命・おきながたらしひめのみこと) 天月神命(あめのつきがみのみこと) 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)


この神社には、神社の中に、また神社があって、それだけ、祭神も複雑になっています。


箱崎八幡神社は、最初は月読神社として造られました。

月読神社は、初めは、男岳山に鎮座し、その後、山を下りて上里本村の東屋敷に遷りました。

その後、下里の辻に遷り、その後、箱崎村と新城村とが喧嘩して、八幡宮を、新城村の宮地山に遷しました。


その後、元禄11年(
1698、箱崎村と瀬戸村で話し合いがもたれました。

その、話の内容は、次のようなものでした。

八幡宮を箱崎本郷
(釘丘山・現在地)に戻したいけれども、長い年月が流れてしまっているので、神の考えが分からない。そこで、
御鬮(ミクジ)によって、神の考えをうかがおう、というものでした。

御籤の結果、箱崎本郷に戻すべき、と出ました。

その旨を、壱岐国主に、訴えたところ、元禄13年(1700)、正月に許可され、今の箱崎八幡宮になったわけです。

それゆえ、箱崎八幡宮は、式内社の月読神社でないかと、いわれています。

相殿に、月神命が祀られており、棟札にも「箱崎八幡宮月讀宮…」と記されています。

その後、海神を祀ったり、龍神を合祀して、海裏宮(うみうらぐう)となり、その後、桓武天皇延暦6年(787)、西賊襲来により、勅命により、筑前筥崎宮を勧請し、八幡神の配祠があって、箱崎八幡宮となりました。


延宝4年の、式内社改めにより、式外社(しきげしゃ)となりました。


室町時代、紀州熊野浦の日高吉弥(ひだかきちや)が、「明応二年十二月吉日」(1493)の銘がある、金灯篭1基を箱崎八幡宮に献じました。

壱岐における捕鯨業の始まりを知る貴重な資料です。

また、この神社には、壱岐で、一番古いといわれている、狛犬があります。


御利益 ⇒ 航海安全、大漁祈願、商売繁盛、縁結び、子授け

詳しくは壱岐の箱崎八幡神社を参照してください。





5.白沙八幡神社

祭神

中は応神天皇、仲姫之命(なかつひめのみこと)、左は仲哀天皇、神宮皇后、仁徳天皇、右は武内大臣(たけうちのおおおみ)、玉依姫命
(玉作姫命)(たまよりひめのみこと)となっています。

もともと、大社の海神社(かいじんしゃ)でしたが、中昔、兵乱の時代に、八幡宮を勧請し、応神天皇、神宮皇后を合わせ祀りました。

そのとき、元は、海神社ということを、伝えることをしなかったので、海神社という名前は、消えてしまいました。





(神様のお話)

応神天皇は、神功皇后と仲哀天皇の子供です。

応神天皇の妻は、仲姫之命(なかつひめのみこと)です。

応神天皇の子供が、仁徳天皇です。

玉依姫命(たまよりひめのみこと)は、海の神、大綿津見(おおわたつみ)神の娘です。

姉の 豊玉姫(とよたまひめ)と共に綿津見の宮に住んでいましたが、姉が、サメになって、彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を、産んでいるところを、夫の山幸彦から見られてしまい、竜宮に帰ることになります。

入れ代わりに、妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)が、養母となって、姉が産んだ、山幸彦の子供を育てます。

後に、彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と結婚し、神武天皇を産みます。


武内大臣(たけうちのおおおみ)、大和朝廷の初期に活躍した人物で、日本書紀では、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇という五代の天皇に仕えました。

古事記では、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇という四代の天皇に仕えました。

神功皇后を助けて、新羅出兵などをしています。

非常に長寿で、300歳くらいまで、生きたと言われています。


この神社には、江戸時代、平戸藩主第29代松浦鎮信が奉納した、三六歌仙画があります。

歌は松浦鎮信直筆、画は片山尚景(狩野派の御用絵師)です。

現在拝殿内に飾ってある三十六歌仙画は、片山尚景の画を元に江戸末期~明治初期に描かれたものといわれています。


石鳥居
は、元は、高い鳥居でしたが、風が当たるので、一部を土中に埋めました。

大檀那松浦豊後守源信実立之とあります。


この神社の社叢は、
島内で最も保護されてきた場所の1つで、社叢全体が県指定文化財になっています。

シイの老木をはじめ、イスノキやクスノキなど暖帯林が、たくさん繁っています。


拝殿の中に、大きな石があります。

韓櫃石(からびついし)といいます。

むかしから、人々は尊敬し、上ることをしませんでした。

中昔、拝殿を造り替えるとき、この石を動かそうとしましたが、石から血が流れてきたので、恐れて動かすのをやめました。


御利益 ⇒ 五穀豊穣、海上安全、良縁、安産、厄除け開運


詳しくは壱岐の白沙八幡神社を参照してください。





6.國片主神社 式内社小

祭神   

少彦名命(すくなひこなのみこと)、管贈相国
(かんぞうしょうこく・菅原道真)


この神社が建つ前は、壱岐を支配していた豪族、壱岐氏の館がありました。

壱岐氏の館の近くには、後に、国分寺として、使用された、氏寺の嶋分寺(とうぶんじ)がありました。

近くにある、大型の古墳は、壱岐氏の一族の墓といわれています。

壱岐氏が、信仰していた神様は、国分天神でした。

国分天神は、この近くに現存するので、壱岐氏は、国分天神を分霊したものと、考えられます。


延宝4年(1676)の式内社改め以前は、学問の神様である、菅原道真を祀っていたので、国分天満宮とか国分天神と、呼ばれていました。

延宝4年(1676年)式内社改めのとき、橘三喜が、この地は、国分と呼ばれていて、少彦名命は、大国主命と共に国を分けて、国造りに励んだということから、国片主神社にしました。 

国片主神社の、旧社地は、長峰村にあった、「主」という文字は入っていませんが、国片大明神なので、橘三善は、間違っていたことになります。

国片大明神は、大正5年に、邇自神社に合祀されています。


ここには、小さい鳥居が三つあり、ここをくぐって祈願する習慣が残っています。


御利益 ⇒ 厄除け開運、豊作祈願、大漁祈願、健康長寿、安産、学力向上

詳しくは壱岐の國片主神社を参照してください。


 7.與神社 式内社小

祭神  

足仲彦尊(あしなかひこのみこと)
息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) 

相殿  

大鷦鷯天皇(おおさざきのみこと)、誉田別天皇(ほむたわけのみこと)、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)、八意思兼神(やおもいかねのかみ)、住吉大神(すみよしのおおかみ)


延宝4年(1676)の式内社改め以前は、印鑰宮大明神(いんにゃくぐうだいみょうじん)を祀っていました。

印鑰宮には、倉庫の鑰(かぎ)と国府の印(印鑑)を納めてあるので、この神社があるということは、壱岐国一の宮がここあったと、いうことになります。

「與神社」の「與」とは、国府の意味で、この近くに、壱岐の国府があったことが分かります。

とすると、この與神社は、延喜式に記載されている、壱岐国一の宮、天手長男神社ということになります。

しかし、延宝4年(1676)、式内社調査の際、平戸藩の国学者橘三喜は、延喜式に記された「與神社(よじんじゃ)」を「興」と見間違えて、ここを「興神社」にしてしまいました。

境内には、おおきなホルトの木があり、タイワンリスが、幹をかじっています。


ご利益 ⇒ 安産、子宝、家内安全


詳しくは壱岐の與神社を参照してください。




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