壱岐の隠れキリシタン遺跡




多宗教

壱岐の人たちは、昔から1つの宗教にこだわってはいません。

仏教の人でも、神社の役員をしている人もたくさんいます。

しかし、キリシタンの人が、仏教や神教を信仰しているという話は聞きません。

それだけに、キリシタンの人たちは、一途な性格なのでしょうか。

壱岐のキリシタンも、他の地域と変わりなく、迫害されてきました。

その当時のキリシタンのだれもが、隠れキリシタンでした。







信者数

シュタインシェンが著わした「切支丹大名記」に、次のような記述があります。

永禄4年(1561)、戦国時代、ルイズ・アルメイダという宣教師が、生月や度島で伝道した時、生月には800人、壱岐には500余人、度島には300人の新改宗者があった、と。

壱岐で、500余人というのは、多過ぎる感じがするので、洗礼を受けた人の数ではなく、説教を聴きに、集まった人の数ではないかと、いわれています。

それでも、結構、多くの人が集まったものだと思われます。






壱岐におけるキリシタンマーク

神社の境内にある末社や摂社についている扉や石祠の扉をよく見ると、日常生活では、あまり見ない、いろいろ変わった図案が多くあります。

また、墓碑にも、このような紋様が見られるものもあります。

これらの、図案は隠れキリシタンの紋様といわれています。

壱岐で、今までに明らかになった、隠れキリシタンが使用していたマークは、次のようなものです。




 クルス

はっきりと、十字の紋様が見えます。

瀬戸の神社の境内の周りにあります。

石祠自体が、御神体になっているで、隠れキリシタンの人々が礼拝していたことがうかがわれます。






















 クルスとアンドレクルス

この石祠の両開きの扉の上半分は、の十字架が刻まれています。

扉の下半分は、が斜めになって、×になっています。

このように、+が斜めになっている十字のことを、アンドレクルスといいます。


このような紋様がある石祠は、隠れキリシタンが礼拝していたといわれています。




















 アンドレクルス

が斜めになって、×になっています。

このように、+が斜めになっている十字のことを、アンドレクルスといいます。
























 分割されたアンドレクルス

×のアンドレクルスが―の線で左右に分割されています。




























 十字紋石塔

神社の参道の途中にあります。

中央に大きな十字架があります。


その周りに、4個の斜め十字、―模様、T文様が隠されています。

この石塔の全体がご神体になっています。

このような石塔は壱岐には、ここを除いてはありません。




















ω(おめが)型石像

隠れキリシタンが、礼拝の対象にしていた石像には次のような特徴があります。

(1)頭部が扁平になっています。

(2)顔の眉が―、鼻が―で、全体がT字型の十字架を表しています。

(3)顔が円く、耳がついていないか、ついていても小さい耳がついています。

(4)手は、組んで、合掌しています。

(5)日本にはない、ガウンを着ています。

(6)像の肩の線より、上のところから、翼のようなものが出ています。

(7)細い足があります。足は、外開きになっているものあります。

(8)合掌している腕と手がω(おめが)の形をしています。











 A(あるふぁ)型石像

祈っている姿が、A(あるふぁ)型をしています。































 -(デウス)とT(クルス)

この変形宝篋印塔には、―(デウスを表しています)と、T(十字・クルスを表しています)の2つが、刻まれています。































 牛頭(ぎゅうず)

慶長18年、徳川幕府が宗門奉行に出した通達の中に、「キリシタンが尊敬する本尊は、牛頭・キリシタン・T頭仏」というものがあります。

牛頭とは、この石祠のように、牛の角があるものをいいます。

このような石像は、牛頭キリシタンと呼び、隠れキリシタンが礼拝の対象にしていました。












 鈎十字(かぎじゅうじ)

墓石に、卍が刻まれています。

これは、十字の変形と考えられ、キリシタン関係者の墓石です。





























 エンゼル羽

この石像、良く見ると、両肩のところから、ガウンのようなものを身に付けています。

ガウンは、両肩の後ろからはおっていて、鳥の翼のように見えます。

























 十字印

この四角塔は、お寺の境内にあります。

このように、正面から見ると、※のような印が刻まれています。



























しかし、この四角塔を裏から見ると、十字印が刻まれています。





























弾圧

江戸幕府は、草の根を分けてでも、キリシタンを見つけだし、火あぶりの刑にしました。


武士や神官などの身分を問わず、必ず寺院の檀家となり、キリシタンでないという証明を寺院から出させました。


また、密告の制度を設け、キリシタン信者を密告した者には、報奨金を与えました。


さらに、踏絵を行い、十字架やキリスト像、聖母像を足で踏ませるということも行いました。

踏絵は、主に、庄屋のところで、役人の監視のもとで行いました。

一般の村人は、庄屋屋敷の庭で踏まされ、それを外踏(そとふみ)といいます。

士分の者や脇間(わきま)などの中には、各人の屋敷や主人の屋敷内で踏み、これを内踏(うちふみ)といいます。

徒士以上の給人は踏絵御免の制度がありました。


また、五戸を単位として、一つの組織を作り、その組識内でキリシタン信者がいたら、連帯責任を負わせました。


平戸藩内五人組帳の第一条に、「伴天連(ばてれん)、いるまんの儀は申すに及ばす、切支丹(きりしたん)宗門、 組中男女の内、一人も御座なく候、若(も)し見聞仕(つかまつ)り候わば、早速申上べく候。組外より申し出候わば、組中同罪に仰せ付けられるべき事。」と、あります。




牢屋

隠れキリシタンを逮捕して、牢屋につないだ場所は、今の郷ノ浦図書館の裏手にあり、6畳くらいの広さがありました。

江戸時代には、今のようにまだ埋め立てがなされておらず、郷ノ浦図書館前の駐車場は、浜辺でした。

ここに、各地で宣教活動をしていた神父たちが逮捕され、壱岐に送られてきました。


キリシタン関係者の処刑は、牢屋のあった、浜辺で、行われました。


元和5年(1619)、ドミニコ会士モラーレスとメーナが壱岐に移送され入牢しました。

元和7年(1621)、ドミニコ会士モズニガ、フローレスが壱岐に流されました。

元和8年(1622)、江戸時代、イエズス会士、平戸教会の看坊だったアウグスチノ大田も、小値賀で逮捕され、その後壱岐に移送され、当時、浜辺のあった郷ノ浦図書館前の駐車場付近で、処刑されています。

遺体は、海に捨てられました。

アウグスチノ大田は、五島の小値賀に生まれで、ラテン語も学び、すぐれた修道士でした。

元和8年(1622)、小値賀で、イエズス会のカミロ・コンスタンツオ神父や伝道師のガスパル籠手田(こてだ)、とともに逮捕されました。

コンスタンツオ神父は田平で火あぶりとなり、籠手田(こてだ)は長崎で斬首されました。

壱岐での入牢中の食事について書かれた「日本キリシタン教会史補遺」、フローレスの件に次のような記述があります。

「われわれの食事は、ゆでた大根の葉、大根またはニンニおよび米であり、時には骨の多い少量の魚が出ることもあります。15日ないし20日ごとに鶏が若干、他にはほぼ同じ時期に2ℓあまりの日本酒(焼酎のことか?)が出ますが、これは格別の好意によるもので一同の驚嘆するところです。」