壱岐の神社 十七社
壱岐の神社十七社とは |
壱岐には、平戸藩主が崇敬していた神社、十七社があります。
十七社の大祭の時には、神幸式、流鏑馬の神事が執り行われました。
このとき、藩主(城代)ではなく、馬廻りの武士が、代参していました。
十七社には、次の神社があります。
1.國津(くにつ)神社 式内社小社 |
祭神
足名槌命(あしなづちのみこと)、手名槌命(てなづちのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)
配祀 武甕槌神(たけみかづちのかみ)
渡良(わたら)の人たちの、守護神となっている神社です。
ここにある、イヌマキの木は、幹周りも大きく、高さもあり、一見の価値があります。
鳥居は、どっしりした、肥前鳥居です。
境内にある、狛犬は、力強い、みごとな出来ばえです。
神社の下の、坂道を下ると、渡良浦に出ます。
とても、海がきれいで、前には、大島が大きく見え、とても静かな、港です。
(お話1)
昔、神功皇后が三韓征伐のとき、常陸国鹿島大神が48隻の兵船のかじ取りとなって、この村の神の崎に着きました。
鹿の嶺に上って、西の海を見ると荒れ狂っていました。
このため、縄碇(なわいかり)を、住民に頼みましたが、急にはできなかったので、神功皇后は、異国を退治して無事に帰ってきたら、この場所の守護神になるので、速やかに縄碇を作るように頼みますと、住民はすぐに、縄碇を作りました。
韓国征伐をして帰ったときに、鹿の嶺に社殿を建てて祀りました。
(お話2)
次のような、お話もあります。
昔、伊豆半右衛門という人の、遠祖が、小浜(神田浦)にいたとき、沖から1つの甕が寄って来ました。
沖に突き出してもまた戻ってきます。
この人は、これは、甕が神様なので、人がいる浦に流れ着いたのだろう、と思い、その甕を今の神殿の右の傍らに埋め、その上に石を置きました。
名づけて甕石といいます。
延宝4年、橘三喜が、この甕を掘らせると、矛、鏡、菊花石などがその中にありました。
幾千年経っても、全く曇りがなかったといいます。
三喜はこれを神殿に納め、甕は元のところに埋め戻しました。
それは、今の宝殿の右傍にあたります
上に石を置いているので、甕石大明神といいます
御利益 ⇒ 農業発展、縁結び、夫婦和合
2.天手長比賣神社 式内社名神大社 |
祭神
栲幡千々姫尊(たくはたちぢひめのみこと)
左二座 稚日女尊(わかひるめのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
右二座 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)
昭和40年(1965)、天手長男神社に合祀しました。
現在は、鳥居と、狛犬が逆立ちしている珍しい形をした灯篭だけが残っています。
写真の狛犬は、後ろから見たもので、乳首が見えています。
神社の前には、川が流れていて、その川の向こうには、天手長男神社があり、一年に一回、七夕のときに、逢瀬を楽しんでいたことでしょう。
今は、同じ、お社にいますが。
鳥居は江戸時代に造られ、肥前鳥居です。
御利益 ⇒ 安産祈願、夫婦円満、延命長寿
3.津神社 式内社小社 |
祭神
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうか やふきあえずのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、豊玉比咩命(とよたまひめのみこと)、玉依比賣命(たまよりひめのみこと)、神日本磐餘彦命(かむやまといわれひこのみこと)
寛文12年(1672)に、壱岐島内で、牛の疫病が大流行し、たくさんの牛が死にました。
これを食い止めようと、守護代や郡代が相談して、費用を国中から集め、角上(つのかみ)に牛神を勧請して、社を建て、牛神といわれる素盞鳴尊(すさのおのみこと)と大国主命(おおくにぬしのみこと)を招き、疫病退散の祈祷が行われ、牛神が祭られました。
むか~し、むかしのお話です。
この神社のある山の麓を流れている、大きな川があって、海水が往来していました。
そのとき、1匹の亀が津神社にお詣りしましたが、潮が急になくなり、帰ることができず、とうとう石になってしまいました。
その亀石が今も麓にあります。
古代には、山の上の神社には社殿がなく、ただ神石があるだけだったので、この亀石は遥拝石ではなかったかといわれています。
御利益 ⇒ 厄除け祈願、豊作祈願、牛の安全祈願
4.河原神社 |
祭神 伊弉册尊(いざなみのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴神(おおなむちのかみ)、罔象女神(みずはめのかみ)
もともとは、平安時代からある神社で、式内社でしたが、江戸時代、延宝4年の式内社改めの時、橘三喜が、延喜式の河原神社又は妙見宮の登録がなかったので、間 えて、式外社と認定するという、間違いをおかした神社です。
周辺は、昼間に訪れても、全体が薄暗く、し~んとしていて、闇に近い世界が漂っています。
あたり一面、墓地になっているからかもしれません。
境内にある、灯篭など、江戸時代に建てられたものが、たくさんあります。
5.長峰天満神社 |
祭神
菅原道眞公(すがわらみちざねこう)、吉祥女(きっしょうめ)
大正5年 無格社高峰神社を合祀して、伊弉冊尊(イザナミノミコト)、素佐男尊(すさのおのみこと)、菊理姫命(くくりひめのみこと)を祀る。
菅原道真は、皆さん、すでにご存じのように、文才や政策に優れた人で、民間人で、初めて、右大臣にまで、上りつめた人です。
遣唐使の廃止を決めた人でもあります。
しかし、左大臣の藤原時平は、道真が嫌いで、失脚させることをねらい、道真が、醍醐天皇(だいごてんのう)を退け、斉世親王(ときよしんのう)を天皇にしようとたくらんでいる、と醍醐天皇に告げ口しました。
醍醐天皇は、たいへん驚き、道真を大宰府に流しました。
道真が京都を去る時に詠んだ、「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」、の歌があります。
この歌を聞いた、庭の梅は、京都から一晩で、道真の住む屋敷の庭へ飛んできたということです。
これが、飛び梅伝説です。
道真が太宰府で死んだ後、京都では、天変地異が続き、まず道真をおとしいれた、藤原時平がで急死します。
その後、疫病がはやり、日照りが続き、20年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子も数年後に亡くなり、人々はこの一連の事象を、道真の怨霊の祟りとして恐れました。
そこで怨霊の怒りを鎮めるため、人々は、菅原道真を神として祀り、北野天満宮を初めとする、神社を造りました。
吉祥女は、菅原道真の妻となった人です。
菅原道真が、九州大宰府に左遷された後、道真の妻、吉祥女も、3人の子と従者とともに、奥州丹沢郡母体に流されました。
道真が、亡くなったという、知らせを受けると、病に伏して、道真の死後、3年後に亡くなりました。
長峰天満神社の境内には、道長伝説につながる、飛び梅が植えてあります。
写真の鬼瓦も、道真が左遷させられたことに対する、怨霊を感じます。
6.爾自神社 式内社小社 |
祭神
級長津彦神(しなつひこのかみ)、級長戸辺神(しなとべのかみ)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
大正5年、周囲の無格社を合祀
大神宮神社(天照大神、栲幡千々姫命、天手力男命)、禰宜山神社(御食津神)、立石神社(石野姫命)、神坂神社(祭神不明)、國片神社(少彦名神)
高さ約2 .70m 周囲約11.45mあります。
神功皇后が、三韓征伐のとき、軍を、筑前より勝本浦まで進めましたが、風が悪く足止めを余儀なくされました。
そこで、境内にある巨石に、風神を祀り、祈願したところ、岩が2つに割れ、東風が吹き、その加護により三韓に渡り、異敵を攻め、勝利をえることができました。
その後この、東風石は、江戸時代に、朝鮮通信使が来たときにも、早く、壱岐から出て行ってもらいたいために、ここで、順風が吹くのを、祈願しました。
お祈りをしたかいがあって、運よく、東風が吹き初め、祈祷をした神主には、藩主から、御供物が、与えられました。
境内には、江戸時代の灯篭や大きな肥前鳥居もあります。
御利益 ⇒ 航海安全、大漁祈願、厄除け祈願、健康祈願、豊作祈願
7.天道神社 |
祭神
素盞嗚男尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、脚摩乳命(あしなづちのみこと)、 手摩乳命(てなずちのみこと)
配祀 五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命(つまつひめのみこと)
相殿
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、豊玉彦命(とよたまひこのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
神社は、がっしりした、みごとな、肥前鳥居の奥にあります。
鳥居の手前にある、石灯籠の大きさにも、びっくりさせられます。
乱暴な振る舞いが多かった素盞嗚男尊は、高天原(たかまがはら)を追放されます。
出雲の鳥髪山(現在の船通山)に下りた、素戔嗚男尊は、八岐大蛇のいけにえにされそうになっている、脚摩乳命と手摩乳命の娘、奇稲田姫命に出会います。
3人の話を聞いた、素盞嗚男尊は、みごと、八岐大蛇を酒に酔わせて、退治し、奇稲田姫命を妻にもらいます。
拝殿には、見ざる・言わざる・聞かざるの3猿が座っています。
8.熊野神社 |
祭神
伊弉册尊(いざなぎのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、事解男神(ことさかおのかみ)、速玉男神(はやたまおのかみ)
相殿
天照大神(あまてらすおおみかみ)、國常立尊(くにとこたちのみこと)、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかつはやひあめのおしほみみのみこと
)、
天津彥彥火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎ のみこと)。彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、軻遇突知命(かぐつちのみこと)、埴山姫命(はにやまひめ)、罔象女神(みつはの
めのかみ)、稚産靈神(わくむすびのかみ)、大山祇神(おおやまづみのかみ)
この神社の鳥居は、肥前鳥居です。
どっしりした、重量感があります。
(神様のお話)
妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)を亡くした、伊弉册尊(いざなぎのみこと)は、黄泉(よみ)の国に、妻に会うために出かけます。
しかし、そこでは、妻の体は、腐っていて、うじがたかっていました。
夫は、慌てて逃げ帰りますが、妻は、後を追いかけてきます。
黄泉国と地上との境である、泉津平坂(よもつひらさか)の千人引きの岩で、道をふさぎ、妻に、離婚する、といいました。
妻は、それを聞いて、「あなたには負けません」と言って、唾をはくと、速玉男神(はやたまおのかみ)が生まれ、次に、掃きはらうと、事解男神(ことさかおのかみ)が生まれました。
やっとのことで、逃げ帰った夫は、九州の日向(ひゅうが=現在の宮崎県北部)の「橘の小門の阿波岐原(たちばなのおどのあはきはら)」で、みそぎをします。
このとき、左の目を洗った時に、天照大神、右の目を洗うと、月読命、鼻を洗うと、素盞嗚尊(すさのおのみこと)が生まれました。
(お宝伝説)
室町時代、壱岐に、王子五郎という、海賊がいました。
王子五郎は、にわとりを飼っていて、毎日卵を産ませていました。
しかし、毎日のように、蛇が現れ、卵を呑みこんでいました。
怒った、王子五郎は、木で卵の形を作り、本物の卵と一緒に巣に入れて置いたところ、案の定、蛇がやって来て、これを卵と思って呑み込んでしまいました。
当然、木の卵ですから蛇は腹の中で割ることができません。
7日7夜苦しんで蛇はとうとう死んでしまいました。
ところが、それから蛇のたたりがあり、五郎や付近の住民は困ってしまいました。
五郎は、そこで、蛇が剣にからんだ様子を石に刻んで、これを蛇神様として祀りました。
その後、たたりはなくなったといいます。
上の写真のものが王子五郎が作ったという蛇神様です。
大きさは約40cmあります。
砂岩でできています。
9.若宮神社 新城北 |
祭神
仁徳天皇、仲哀天皇、應神天皇、日本武尊(やまとたけるのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)
合祀
明治3年、神嶽権現の合祀により、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)、菊理姫命(くくりひめのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)を祀る
(神様のお話)
日本武尊は、武勇に秀でていたが気性が激しく,兄を殺害してしまったことで、父・景行天王からは疎(うと)んじられていました。
そのため、父親は、九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えみし )を討伐することを命じ、そばにおくことはありませんでした。
日本武尊の子に仲哀天皇がいます。
仲哀天皇は、熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に行きます。
筑紫で、仲哀天皇は、住吉大神から、新羅を授けるという神託を受けますが、これを信じませんでした。
そのため神の怒りに触れ、朝倉宮で急死します。
仲哀天皇と神功皇后の間に、生まれた子は、応神天皇です。
海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部の制度をつくったり、剣池(つるぎのいけ)を作りました。
応神天皇と仁徳天皇は、同じ人物だという、説もあります。
応神天皇の子が仁徳天皇です。
大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)とか大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)、と呼ばれています。
人家のかまどから、炊事の煙が立ち上っていないのを見ると、租税を免除し、天皇自身も、倹約のために宮殿の屋根の葺き替えや修理もしなかった、という話しもあります。
天穂日命(あめのほひのみこと)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子です。
高天原の神々が、地上の国々を支配するために、当時、地上の国々を支配していた、出雲の大国主命のところに、高天原の神に地上の国々を譲るようにとの交渉をするための、使者を出すことにしました。
その使者として、出雲の大国主命のところに、派遣されたのが、天穂日命です。
ところが、大国主命を説得するうちに、逆に、丸め込まれてしまい、その家来となり、3年間地上に住み着いて、高天原に戻らなかった、という話があります。
ミイラとりが、ミイラになった、ということでしょうか。
10.流八幡神社 |
祭神
誉田別尊(ほむたわけ のみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、比咩大神(ひめのおおかみ)
大きな鳥居の、傍に、鳥居に負けないくらいの石灯籠があります。
また、カエル似ている石の置き物もあります。
このカエル、とてもユニークですねぇ。
八幡神社なので、神功皇后に関係のある、神様が祀ってあります。
(神様のお話)
誉田別尊(ほむたわけ のみこと)は、応神天皇のことです。
息長足姫命(おきながたらしひめのみこ・神功皇后)と仲哀天皇の間に、生まれた子です。
海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部の制度をつくったり、剣池(つるぎのいけ)を作りました。
応神天皇と仁徳天皇は、同じ人物だという、説もあります。
比咩大神(ひめのおおかみ)については、いろいろな説があります。
ここでは、2つの説を紹介します。
(A説)
この説は、比咩大神(ひめのおおかみ)は、天照大神が、素盞嗚尊と誓約(うけい・高天原をのっとろうとする、考えがないことを示すこと)を、行った際に生んだ、美人の誉れの高い、三人の女神の総称である、という説です。
まず最初に、奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)(別名 多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと))が生まれました。
「多紀理」とは、速く、激しく流れる潮流のことを、表しています。
次に、生まれたのが、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)(別名 狭依毘売命(さよりひめのみこと)、弁財天(べんざいてん))です。
3人の女神のなかでは、一番美しいと、いわれ、弁天様として、この神様だけを、祀っている神社も多くあります。
市杵島(いちきしま)は、「斎(いつ)く島」のことで、斎くとは、神に仕える、とか、神を祀る、という意味です。
厳島神社(いつくしまじんしゃ)の名前は、市杵島比売命からきている、ともいわれています。
最後に生まれたのが、多岐都比売命(たぎつひめのみこと)(別名 湍津姫命(たぎつひめのみこと)、田寸津比売命(たぎつひめのみこと)です。
多岐都比売命は、奥津島比売命と同じく、速く、激しく流れる潮流のことを、表しています。
この3人の女神は、邇邇芸命(ににぎのみこと)が、天孫降臨をするときに、養育係として付き添い、道中の安全を守るようにと、天照大神から命じられました。
そこから海上安全、交通安全の神として信仰されています。
(B説)
この説は、比咩大神(ひめのおおかみ)は、邪馬台国の女王、卑弥呼である、という説です。
11.覩上神社 |
祭神
素盞嗚尊(すそのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)
昭和13年、若宮神社合祀
相殿
仁徳天皇、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇
あたりは、シーンと静まりかえり、とても落ち着いた雰囲気の神社です。
石鳥居は、江戸時代に造られました。
この神社は、場所を何度も移転しています。
初めは、那珂郷農長の向帯田山にあり、神木の落ち葉を取ると、とても咎められたので、住吉村坪見に遷しました。
しかし、それでも、咎めるので、上山信の白岩山に遷しました。
その後、また、何かの理由で、今の覩上川上に、遷しました。
神社を維持するというのも、たいへんですねぇ。
この神社には、室町中期から江戸時代初期に作られたといわれる、猿田彦(さるたひこ)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)の、古い面があります。
(神様のお話)
素戔嗚命(くしいなだひめのみこと)は、父親の伊弉諾命(いざなぎのみこと)から、海原を治めるように言われますが、母親の伊弉冉命(いざなみのみこと)が住んでいる、黄泉(よみ)の国に行きたいと、泣きわめきました。
そのため、高天原(たかあまはら)から、追放され、出雲の国へ行きます。
そこで、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)と結婚します。
大己貴命(おおなむちのみこと)は、日本書紀では、素盞嗚尊(すそのおのみこと)と奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の子とされています。
しかし、古事記では、六代目の孫とされています。
大己貴命(おおなむちのみこと)は、因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)の話や、兄たちからいじわるをされて、何回も死んで、また生き返る、という神様です。
素盞嗚尊(すそのおのみこと)の末娘、須世理姫(すせりひめ)と結婚しますが、結婚する前に、素盞嗚尊(すそのおのみこと)から、いろいろな試練を与えられます。
12. 高御祖(たかみおや)神社 式内社小社 |
祭神
高産霊尊(たかみむすびのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)
石鳥居は、江戸時代に造られています。
顕宗天皇3年(487)、大和時代、阿閉使主事代(あへのおみことしろ)が、任那(みまな)に使いに出ました。
このとき、月神が現れ、「我が祖、高皇産霊(たかみむすひのみこと)は、天地を造った功績がある。民地を、我が月神に献上しなさい。もし言われた通りに私に献上すれば、福慶があるだろう。」と言いました
阿閉使主事代は京に帰って、このことを、つぶさに、天皇に話しました。
天皇は、山城国葛野郡歌荒樔田(うたあらすだ)に社殿を創建し、壱岐の月読神社の分霊を勧請、壱岐県主・押見宿禰(おしみのすくね)に祀らせました。
月讀神社に天月神命(あめのつきがみのみこと)を祭り、高御祖神社には天月神命の祖高産霊尊(たかみむすひのみこと)を祭りました。
ここの、狛犬は、みごとな出来ばえです。
御利益 ⇒ 夫婦和合、縁結び、子孫繁栄、安産祈願
13.兵主神社 式内社名神大社 |
祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)
延宝4年(1676)の式内社改め以前は、日吉山王権現と、呼ばれていました。
延宝4年(1676年)式内社改めのとき、橘三喜が、聖母神社とし、聖母神社の石鳥居の額を持って来て納め、聖母神社には、兵主神社の石額をかけました。
しかし、延宝7年(1679)、箱崎八幡宮の吉野末益が異を唱え、藩もそれを認め、勝本浦の聖母神社を元の名前の、聖母神社に戻しました。
日吉山王権現の方は、元の日吉権現には、戻らないで、そのまま兵主神社となってしまいました。
昔は、住吉神社と同じくらい格が高い神社でした。
住吉神社と同じ、明神大社だったからです。
しかし、当時の宮司が、神社の大切な書物を燃やしてしまい、格下げになりました。
神殿の側壁には、壱岐では珍しい、獅子と梅、鶴と人(朱買臣)の、彩色の壁画が描かれています。
朱買臣について、お話します。
朱買臣は、科挙(任官試験)を、何回受験しても合格しませんでした。
受験勉強のために、働くことができない朱買臣に代わって、妻が、農奴の下働きに出ていました。
当然生活は、極貧生活でした。
妻は、朱買臣を見捨てて逃げてしまいました。
妻に逃げられた、朱買臣は、猛勉強したかいがあって、50歳のときに、科挙に合格し、官吏として故郷に赴任しました。
試験の合格者には、皇帝から、錦の服が与えられ、この服を着て、出身地に赴任します。
故郷に錦を飾る、とは、このことをいいます。
朱買臣が故郷に赴任すると、村中の人々が、通りの両側を埋め尽くして、出迎えます。
この中には、今は、再婚して、新しい夫がいる、かつての妻もいました。
その夜、元妻は、朱買臣を訪問して、復縁を懇願しました。
朱買臣は、元妻の話を聞いたあとで、「水を入れた土瓶と、茶碗を持ってきなさい」といいました。
元妻は、言われたとおり、土瓶と茶碗を持って来ました。
朱買臣が、「茶碗に水をいっぱい注いでください」と言うと、元妻は言われたとおりにしました。
朱買臣が、更に、「その水を捨ててください」と言うと、妻は、水を捨てました。
「今捨てた水を茶碗に戻してください」、と言うと、元妻は、捨てた水は跡形もないので、困ってしまいました。
その様子を見ていた朱買臣は、「以前、あなたは私の妻だったが、今は夫がいるではないか。あなたは今の夫をどうするつもりですか? 捨てた水は、元に戻せないように、元通りにはならない。今のご主人に生涯尽くしなさい」、と諭して帰しました。
元妻はその足で首吊り自殺をしたといいます。
翌日、その事実を知らされた朱買臣は嘆き悲しみ 元妻を丁重に葬りました。
御利益 ⇒ 厄除け祈願、豊作祈願
14.石田天満神社 |
祭神
菅相国(かんしょうこく)、吉祥女(きっしょうめ)、老松殿(おいまつどの)、
境内には、狛犬、龍、亀、牛などの石像があります。
壱岐は、牛の飼育が盛んに行われていて、多くの神社に、牛の石像が置かれています。
拝殿の右奥から、山を上っていくと、頂上に古天神が祀られています。
昔はここで、祭祀をしていました。
山全体に大木が繁り、あたりはとても静かで、神秘的な場所です。
(神様のお話)
老松殿は、菅原道真の父親の、菅原是善(すがわらのこれよし)をいいます。
菅相国(かんしょうこく)は菅原道真、吉祥女(きっしょうめ)は、道真の妻です。
豊玉彦は、竜宮に住んでいる神様です。
山幸彦が、兄の釣針をなくして、探しに、亀の背中に乗って、竜宮に行きます。
そのとき、竜宮を支配していたのが、豊玉彦です。
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)は、豊玉彦の娘で、山幸彦と結婚します。
15.志自岐神社 |
祭神
十城別王(ときわけのみこ)、武加比古王(たけかいこのみこ)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、帯彦天皇(たらしひこすめらのみこと)、稲依王(いなよりのみこ)、
稚武王(わかたけのみこ)、稚武彦王(わかたけひこのみこ)
そうそうたる、メンバーの祭神ですねぇ。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の子供たちが、総出演しています。
全員が、戦争の神様といわれるくらい、戦い、戦いで、明け暮れた人たちです。
古い本に、次のようなお話があります。
昔、神功皇后が、三韓征伐のために壱岐に寄ったとき、十城別王命(ときわけのみこ)を伴っていました。
しかし、十城別王命(ときわけのみこ)は、戦争が怖くなり、途中で引きかえしました。
神功皇后は、その命令に違反している、と言って、責め、怒り、弓箭(ゆみや)を執り、背中をめがけて投げたら、あやまたず王を射通しました。
これ以後、この地を射通し「イトヲシ」といい、これが訛って、「印通寺」となった、という事です。
また、皇后の箭を投げた地を「ナゲヤ」と言い、今は、名護屋と呼び、呼子村の西に在あります。
名護屋は、豊臣秀吉が、朝鮮出兵の際、名護屋城を築いた場所です。
式内社24社にいう、邇自神社は、ここではないかと、とも言われています。
この神社の境内には、いろいろな動物の彫り物がたくさんあります。
拝殿のなかには、みごとな、素晴らしい絵馬もあります。
(神様のお話)
日本武尊(やまとたけるのみこと)は最初、垂仁天皇(すいにんてんのう)の娘、両道入姫(ふたぢのいりひめ)と結婚し、稲依王(いなよりのみこ)、帯彦天皇(たらしひこすめらのみこと、足仲彦(たらしなかつひこ)ともいい、後の仲哀天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)という、子供がいました。
日本武尊は、又、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘、吉備穴戸武姫(きびのあなとたけるひみ)とも結婚し、武加比古王(たけかいこのみこ、武卵王(たけかひごのみこともいう)と十城別王(とおきわけのみこ)という、子供がいます。
日本武尊は、さらに、忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘、弟橘姫(おとたちばなひめ)と結婚し、稚武彦王(わかたけひこのみこ)という、子供がいます。
16.彌佐支刀(みさきと)神社 式内社小社 |
祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
この場所に移る前には、神度丘や太刀丘にあり、何回か、場所を、転々としています。
境内にある狛犬は、壱岐の名工、山内利兵衛の力作です。
境内には、きれいな湧き水が流れています。
この周辺は、昔は、沼地だったので、その影響で、水が湧き出ているのかもしれません。
(神様のお話)
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、景行天皇の子です。
武勇に秀でていて、気性が荒く、兄の大碓命(おおうすのみこと)を殺したために、父の景行天王からは、嫌われていました。
16才のとき、父から、九州の熊襲(くまそ)を平定するように命じます。
熊襲を平定して、帰ると、休む間もなく、父の景行天王は東国の平定を命じます。
東国とは、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(ふさ)、常陸(ひたち)、陸奥の12国です。
東国平定に出発する前に、倭姫命(やまとひめのみこと、景行天皇の妹、日本武尊のおばに)を訪ね、「父は自分に死ねと思っておられるのか」、と嘆いたといいます。
このとき、倭姫命は伊勢神宮にあった神剣、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と、言っています。
この剣と袋が後で、命を救ってくれるのです。
この遠征の途中で、日本武尊は、滋賀県と岐阜県の県境にある、伊吹山(いぶきやま)で、神の怒りにふれて、亡くなります。
ご利益 ⇒ 開運祈願、豊作祈願
17.鏡岳神社 |
高さ50mほどの山頂近くに神社があります。
急な坂道になっていて、320段以上の石段があります。
左右は崖です。
さぞや、見晴らしが良いだろうと、やっとの思いで、上りますと、山頂ではあまり見晴らしは良くありませんが、周囲の海は、見渡せます。
江戸時代に数回の地震に会い、社地が崩れ、そのたびに、建て替えをしています。
(お話1)
室町時代、日高信助が、天狗と話しをしようと、鏡岳の近くにある北山に百夜、籠りました。
百日目の夜に、何かは分かりませんが、大きな人が現れ、信助が、驚き、刀を抜くと消えていきました。
北山の頂上に、城というところがあり、少し、石垣を築いた跡があり、信助が籠ったところと言います。
(お話2)
壱岐の柳田に、彦兵衛という信心深い農夫がおりました。
日ごろから、豊前の国の彦山三所大権現を信じ、夫婦共におりおり参詣していました。
60歳になって、夫婦が、彦山三所大権現の山に参ったとき、夢の中で神のお告げがありました。
「自分は彦山権現である。お前たちは、私を信じて、長い間、当山にお参りしてくれた。私も、長い間、お前たちを守ってきた。しかしお前たちは、海路は遠く、年もすでに老いている。だから何月何日の朝、初瀬の白滝(初瀬の岩脈)の中岸にある小松の枝に、私と同体の鏡一面をかけておくから、これをとって、東嶽に親殿を造り、3嶽3所大権現と崇め、月に一度あるいは日に一度、参詣すれば彦山に参詣するに同じなので、心のまにまに一生参詣すべし。」とおおせられました。
彦兵衛は、夢から覚めて不思議な思いをしながら、郷里に帰り、すぐ初瀬浦の白滝に行ってると、神様のお告げのとおりに、白滝の石の間に小松が一株あり、その枝に円鏡が一面、こうこうと輝いてかかっていました。
その滝の高さは42m余り、人間の行き来できるところではないので、人を吊り下げて鏡をとり、東嶽に移して、3嶽3所大権現と称し、祀りました。
その鏡は、真に人が作ったようなものではなく、神通をもって虚空から下したもので、一点の曇りもなく、山川江海にまで光り輝き、神力、神通、神変、顕然でありました。
これ以来、鏡岳権現というようになりました。
夫婦の死後、その子は大権現の恩恵を受け、父母の石碑を作り、石階を左右に立て、祭日には供物を供え祀りました。
これが、今日の鏡岳神社です。
(お話3)
文禄元年、豊臣秀吉が朝鮮出兵のとき、逆風で兵隊が数日間、この神社のある初瀬浦(はぜうら)に滞在しました。
そのとき、石碑等を社前の崖から投げ落とし、それを、村人が、拾って神社のそばに置きました。
このように悪徒が横行したので、大権現の御霊形を初山の西八幡宮に遷し、日夜、氏子8人で守ったということです。
秀吉の軍隊が引き上げた後、また元の場所にに戻しました。
この神社のある、森には、珍しい貴重な植物がたくさんあります。