壱岐のお寺

壱岐でお寺が多い理由

壱岐には現在、仏教会加盟の寺院が35寺あります。

内訳は、曹洞宗
17、臨済宗10、真言宗5、日蓮宗2、浄土宗1です。

この中には、無人のお寺もあります。

壱岐でお寺が多い理由は、平戸藩の特殊性にあります。

平戸は、江戸時代、海外
貿易の拠点でした。

そのため、幕府の厳しい目が光っていたので、
平戸藩主は、あらぬ疑いをかけられないように、先ず、お寺をたくさん造りました。

そして、そのお寺に、
農村、漁村の戸主の名前、年齢、妻の実家、結婚年月日、子の生年月日等を記載した帳簿を作らせました。

この帳簿を宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)といいます。

さらに、
この帳簿をもとにして、お寺に、自分の寺の檀家がキリスト教徒ではないと、いうことを証明させました。

これを、寺請制度といいます。

このような制度を維持し、どこかのお寺に住民をしばりつける必要があったことから、壱岐では、お寺が多くなったと考えられます。



安国寺

壱岐の安国寺参照




玉泉寺

曹洞宗のお寺です。

本尊は、薬師坐像(唐作)

脇士 日光、月光各立像。

12
神将各立像。

このお寺には、いろいろなお話しが伝わっています。

まず、玉泉寺の3大不思議というお話から始めましょう。






十二神将(しんしょう)の消火

その昔、このお寺の周辺の山で火事があり、お寺も燃えそうになりました。

近所の人々は懸命に消火に努めましたが火の勢いは激しくなるばかりで、手の施しようがありませんでした。


もうだめだと、みんながあきらめかけたときでした。

どこか来たのか、12人の変わった姿の人が、手に手に生木の枝
()を持ち火を消し始めました。

村人たちはそれを見て励まされ、また力を合わせて再び火を消し続けました。

そのかいがあって、2時間余りの後、火は消し止めることができました。

火が消えてから、手伝ってくれた12人の人たちは、だれだろう?、と、話し合いましたが、だれも知りません。

やがて、12人は黙って寺の中に入っていきました。

不審に思い村人がついて入って見ると、寺の中には人影はなく静まりかえっていました。

床には灰がこぼれ、12神将の像がビッショリと汗をかき、中には手や足に焼け焦げのできたものもありました。

村人たちは火を消したのは、この仏様に違いないと有り難く手を合わせました。


盗人1

あるとき、どろぼうがこの寺に入り、釜を盗み、頭にかぶり、夜の闇にまぎれて逃げようと思いました。

しかし、いくら、走っても、このお寺から離れることができません。

夜が明けて、どろぼうがあたりを見回すと、
12神将が取り囲みその周りを走っていたことがわかりました。

どろぼうは、怖くなって釜をまたもとの所に返して逃げて行きました。


盗人2

ある時、どろぼうが、お寺から、布を盗み、町に行って売ろうとしました.

店の主人が、この布はどこから持ってきたか?、と聞きますと、どろぼうは、ある人にお金を貸して、質に取ったものだ、と答えました。

店の主人が、この布は私が買って寺に贈ったものだ、と言うと、どろぼうは、しばらくしてから、実は盗んできたものだ、といいました。

その時、店にいた12人の小僧が前後を取り囲み、この布はお前の布ではない、寺の布だ、明後日に取り戻す、と言って大笑いしました。

店の主人は怖くなって、3日後に寺に布を持って行きました。

人がたくさんいる世の中で、元の買主に戻るとは不思議なこともあるものです。



宝篋印塔(ほうきょういんとう)


左の写真は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。

造られた時期は室町時代末期から江戸時代初めで、壱岐の石工が造りました。

宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)というお経を納めるための石積みの塔で、後に供養塔などとして建てられるようになりました。

玉泉寺の宝篋印塔は、供養のために造られたもので、完全な形で残っている、珍しいものです。

小型ですが、全体として洗練された作柄で、緩和にまとめられています。

もともとは、山門脇の供養塔のそばに対になって2基ありました。

残りの1基は、
石田の個人の家にあります。

玉泉寺にある井戸の地下水の水路は、渡良の火島と続いているといわれています。





金蔵寺

密教寺院です。

このお寺の前に、神岳山(かんだけさん)が、そびえ立っています。

かつて、山伏が修行していました。












銅像如来形坐像

 これは、本尊の銅像如来形坐像です。

 印(いん)の結び方が特殊です。

 右手をあげて、親指と中指を念じています。

 左手は、腹の高さで前に差し出し、親指と薬指を念じています。

 頭部を見てみましょう。

 螺髪(らほつ)は比較的小さめです。

 顔の部分は、なんとなく、ポッチャリとしていて、見ていて、心がなごみます。

高麗仏です。

高麗時代中期から末期の作といわれています。





鰐口(わにぐち)

これは、鰐口(わにぐち)です。

比較的、小ぶりで、2つの耳があり、両方の面に同じような文様が刻み込まれています。

「応永七年・・・」という立派な書体の銘があります。

ここから、室町時代前期に制作されたことが分かります。

九州では古いものに属します。

上の写真には2個写っていますが、寝かせてある方が、古いものです。

寝かせてあるほうは、ちゃんと溝が彫ってありますが、立っている方は、張り合わせたようになっています。

長崎県指定文化財です。






 この鐘には、「応永19年・・・」の銘があります。

 やはり、鰐口と同じように室町時代の制作です。

 造った人は、豊前小倉の「丹国吉」という鋳物師です。

 それにしても、この鐘は、現在使用されているのでしょうか。

 また、自由につくことができるのでしょうか。

 高さは80.8cmあります。

 県指定文化財です。








猿らしきものが座禅を組んでいるのでしょうか。

実は、これ、お寺の屋根瓦に使用されていました。

屋根の葺き替えをするときに、使わなくなったので、お寺の境内に置いてありました。

それにしても、迫力がありますね~。









お釈迦様

 壱岐で最初の涅槃像(ねはんぞう)です。

 涅槃像とは、お釈迦様(おしゃかさま)が亡くなったときに、横になった姿のことをいいます。

 台座を加えると2mという大型の像です。

 関西に在住されている檀家のある方が寄進されました。

 平成17年に開眼供養が行われています。








華光寺


波多氏

壱岐を支配していた、波多氏に関係の深いお寺です。

1301年、室町時代、唐津の岸岳城主、波多宗無の妻である、華渓(かけい)が、対馬の実家に帰る途中、壱岐で病死しました。

華渓の子供の天祐が、壱岐に、華渓院という菩提寺をつくって、亡き母を弔いました。

その後、200年後の1506年、同じく、室町時代に波多盛(さこう)が、華渓院を改築して華光寺としました。

その後、波多親(ちかし)も華光寺を再建しています。

曹洞宗です。







裏山には、日高家の墓もあります。

日高氏については、「なぜ壱岐は長崎県」を参照してください。














高山の宝筺印塔(たかやまのほうきょういんとう)

1301年、室町時代に、唐津岸岳城主、波多宗無(はたそうむ)の妻だった華渓(かけい)が、実家の対馬に里帰りをする途中、壱岐で病気で亡くなりました。

唐津と対馬が見えるところに遺体を葬ってくれという、遺言があり、この場所に埋葬されました。

それにしても、室町時代につくられたとは思えないほどの新しさが残っています。

周辺は、うっそうとした林の中で、その中を歩くと、からすの群れが頭上で舞い、ガーガー、と激しく鳴きわめきます。

とても怖い場所にあります。





庄触梅坂(しょうふれうめさか)の宝筺印塔

実は、この宝筺印塔も、上の印塔と同じ、華渓(かけい)のものといわれています。

なぜ、同じ人物に、2つの印塔があるのか、詳しいことは分かっていません。













お家騒動

これは、波多盛(はたさこう)の妻の、古若女の墓といわれている宝筺印塔(ほうきょういんとう)です。

宝筺印塔の周辺には、
キリシタン関係者の墓もたくさん散乱しています。

宝筺印塔の表面には、十字が刻まれています。

この当時、唐津の岸岳城では、波多盛に実子がいなかったので、盛の死後、跡継ぎをめぐって、熾烈な争いが起こっていました。

壱岐でも、そのとばっちりを受けて、波多隆(はたたかし)や波多重(はたしげし)が壱岐6人衆に暗殺されました。

古若女は、暗殺された波多隆や重の母親です。


60歳余で亡くなりました。

お家騒動については、「なぜ壱岐は長崎県なの?」を参照。



流人の鐘

これは、流人の鐘といわれているものです。

江戸時代に造られました。

長崎から来た流人と堺から流されて来た流人の名前が刻まれています。

吊り下げているところに、竜の頭があります。






国分寺


臨済宗です。

国分という名前は、昔ここに国府があったから、この名がつきました。

聖武天皇は鎮護国家・五穀豊穣を祈るため、天平13(741)年、全国に国分寺及び国分尼寺を建立しました。

壱岐の国分寺もその1つです。

国分寺は、もともとは、阿弥陀寺で、長徳3(997)、恵心僧都が開きました。

元文3(1738)、国分寺と改名しました。

国分寺の旧地は阿弥陀寺(今の国分寺跡)です。

客殿には本尊、釈迦如来像があります。

仏殿には本尊、阿弥陀像があります。

本尊、阿弥陀像は、恵心僧都の作といいますが、後世に作り替えているので本物ではありません。

本物は阿弥陀寺にあります。


木造弘法大師坐像

ここにある、木造弘法大師坐像は、秘伝として伝えられており、60年に一度開帳されます。

ヒノキを組み合わせた寄木造りです。

現在は木眼をはめてありますが、当初は玉眼ではありませんでした。

衣の上に袈裟をかけ、右手に五
鈷杵((ごこしょ・人間の心の中の煩悩をうち砕き本来の仏性をひきだすための法具で)を持っています。

像高37.9cm

弘法大師(空海)は、若い頃唐の長安に学び、帰朝後高野山に金剛峯寺を創建し、真言宗を開いた平安時代の高僧で、仏教のみならず、多方面に活躍し、日本各地に多くの弘法伝説を残しています。

膝前底部に、「大進作、同拝興、佛所藤次郎、願主雄肝、大永八己戌十一月日」と、墨書きがあり、大進作です。

大永
8(1528)に博多の仏師藤次郎が招かれ、父の大進が造った像を、その子どもの藤次郎が修理したことが分かります。

弘法大師像は数多くありますが、時代的に古いものは少なく、室町時代の遺品として、とても貴重なものです。



雲版

版とは、禅宗の寺院で食事、座禅、法要等の時刻を知らせるためにだけ、たたいて知らせる金属製の版です。

雲の形をしているので雲版といいます。

承応四年(1655)、江戸時代、の銘があります。

片面式で、形も古風な作で、頭部上辺に日象を表し、縁周りに飾り鋲を鋳出しています。

47.4cm、横44.9cm


蛸足香炉

国分寺大師堂にあります。

鉄製。

禅院で用いられる香炉の一形式ですが、鉄製であることや8足が短い点などに特色があります。



請雨観音

享保7年(西暦1722年)、当田新田の開発のときに掘り出されました。




国分寺跡


 741年、奈良時代、聖武天皇は仏教の力を借りて国を守り、天下泰平を図ろうと考え(これを鎮護国家思想といいます。)、全国に国分寺と国分尼寺を建立し、そこで経典を読むことを命じました。

 しかし、当時の壱岐では、飢饉(ききん)が続き、また、伝染病がはやるとともに、さらに、台風などの天災による不作が続き、大損害を受けていました。

 当然、国分寺を建てる余裕はありません。

そこで、壱岐を支配していた豪族の壱岐直(いきのあたい)は、自分が個人用に持っていた氏寺を嶋分寺(とうぶんじ)という名称にして国分寺に代用することにしました。

 壱岐直はこの国分寺跡の近くにある国片主神社(くにかたぬしじんじゃ)が建っている場所に屋敷を構えて住んでいました。


国分寺の規模は東西600m、南北80mありました。

3重の塔があったと推定されています。



礎石


右の写真は、国分寺の礎石で、柱を建てた土台の跡です。

この付近には、数多くの古墳が集中しています。

巨大な石室のある鬼の窟(おにのいわや)古墳兵瀬(ひょうせ)古墳などたくさんあります。

また、国分寺のあった場所は、壱岐の島のどこから行っても車で20分かければ行くことができ、古代壱岐の政治経済の中心地でした。

ここでは8回の発掘調査が行われ、数多くの瓦や土師器(はじき)、須恵器(すえき)、輸入陶磁器などが出土しました。




 特に注目されるのは、軒丸瓦(のきまるがわら)、軒平瓦(のきひらがわら)です。

 軒丸瓦の模様が、当時、都のあった、奈良の平城京瓦とまったく同じものでした。

 瓦全体は、蓮(はす)の花の模様になっています。

瓦の模様を良く見ると、花弁の数が8枚あり、それぞれの花弁が2つずつあります。

つまり、2枚の花弁でワンセット、というわけです。

このような、瓦を、複弁8弁蓮華文(ふくべんはちべんれんげもん)、と呼んでいます。

真ん中には、蓮の種子、すなわち、蓮子(れんし)があります。

中心に、1個の種子があり、その周りに、8個の種子が、配列されています。

長崎県では、このような瓦は、壱岐だけにしかありません。

当時は九州各地の寺院は一般的に大宰府系の瓦を使用しましたが、壱岐だけは平城京の瓦を使用していたわけです。

 しかし、軒丸瓦を平城京から運んできたものか、壱岐に瓦職人が中央からやってきて作ったものか、分かりませんが、どちらにしても、当時の壱岐の豪族であった、壱岐直(いきのあたい)は大和朝廷と深い関係にあったことがうかがわれます。

壱岐直の氏寺の嶋分寺を建設するためには瓦だけではなく、奈良の職人もたくさんやって来て、いろいろ技術指導をしました。

もともと、壱岐直は、良くあたる占いをするという卜部(うらべ)で、中央政府の信頼も厚く、その占いの技術を生かして中央政府とも深い関係を結んでいました。





刀賊の侵入


この国分寺は、平安時代に、刀伊賊(といぞく)の侵入を受けました。

刀伊賊(といぞく)の侵入については、刀伊賊(といぞく)の侵入参照。




祥雲寺(しょううんじ)


山門

 このお寺の山門を良く見てください。 
 
まず、お寺なのに一見鳥居のようものがあります。

 実は、これは石で造られた山門なのです。

 その山門の上に石灯篭があり、さらにその石灯篭の上に鯱(しゃち)があります。

 鯱はお寺の入り口から入る人をじっと見つめています。

明治時代に住職の考案で造られました。

山門の高さは4.75m、石灯篭の高さは鯱と合わせると1.71mあります。

石は、勝本の布気触(ふけふれ)から持ってきた布気石と呼ばれている玄武岩です。

もともと、鯱は想像上の海の魚ですが、海に住んでいるので、防火の守りのために飾られています。

これを造った石工は勝本町布気触生まれの茶屋本初蔵(ちゃやもとはつぞう)という人です。

江戸時代から明治時代にかけての人で、44歳のときの作です。

茶屋本初蔵は壱岐で一番高い技術を持った人といわれています。

他にも、住吉神社の石垣、水神社の石灯篭、柳田触の忠魂碑など優れた仕事を残しています。














サボテン


おおきなサボテンですね~。

実は、このサボテン、住職の奥さんが鹿児島に旅行に行ったときに、サボテンの葉を1枚買ってきたのが、屋根よりも高く伸びたそうです。

増やすときには、葉を1枚植えればよいそうです。

でも、壱岐の人たちは自分の家の屋根よりも高く伸びることを嫌う傾向にあります。

サボテンの横には、昔懐かしい手でくみ上げるポンプが見えます。

今でも使われているそうです。








西福寺

 臨済宗のお寺です。

 このお寺では、夏休みに近くの小学校の生徒がお寺に泊まりいろいろな体験をします。

 食事を自分達で作ったり、庭や部屋の掃除をしたりというものです。

 もちろん、朝の涼しいうちに勉強もすることでしょう。

 








古墳

写真のような鬼の窟(いわや)とでもいうような大きな石で造られた古墳もあります。

お寺ではとても珍しいものです。














うたた寝

いいですね~。ゆ~っくり、の~んびり。

しばらくみとれてしまいました。

こういうかっこうでのしばしのうたたねは気持ちがいいでしょうね~。

寄りかかっているのは木魚でしょうか?







キリシタン

 この手水鉢(ちょうずばち)はハート型をしています。

 壱岐ではハート型の手水鉢はキリスト教に関係しているといわれていますが、この手水鉢の真相はどうでしょうか。

 このお寺には月桂樹の木が植えてありました。

 月桂樹の葉はこのようなハート型をしています。

 おそらく、この月桂樹の葉を真似て作られたものかもしれません。








竹林

の写真はこのお寺の裏山です。

何となく見ていたら、数本の竹が曲がって成長しているのが見えます。

どのようにしたらこのように曲がった竹になるのでしょうか。

それは、たぶん、竹の子のときに、竹の子に付いてる皮をはいで、風にあてるとこのように曲がった竹になる、ということを聞いたことがあります。













アジサイ


 実は、このお寺。アジサイの花がシーズンになるときれいに咲くお寺としても有名です。

 毎年6月になるとアジサイが満開になります。

 梅雨にぬれたアジサイ。雰囲気がありますね~。

 だれかと一緒にぬれながら歩いてみたいで~す。











大般若経


右の写真はこのお寺にある大般若経(だいはんにゃきょう)です。

大般若経というのは、唐の時代に、三蔵法師がインドから経典を持ち帰り、3年と11ヶ月の歳月をかけて、663年に翻訳完成したお経の本です。

西福寺にあるこの大般若経は、江戸時代にこの寺の住職、大賢和尚が万福寺から600巻を取り寄せ奉納したものです。

明治時代に火災に会い、寺は全焼しましたが、近くに住む、山本兵十という人が火の中に飛び込んで、3箱のうち2箱を運び出しました。

現在は391巻残っています。





長栄寺



焼失


曹洞宗。

平重盛の祈願で島内に建てられた七堂の一つでした。

由緒ある大御堂(おおみどう)も昭和502月に、放火によって全焼しました。

本尊聖
(しょう)観音坐像(平安時代・行基作)、脇士、広目天、毘沙門天各立像(運慶作)も焼失しました。

室町時代に、波多氏と日高氏が、壱岐の支配を巡って、戦争をしたとき、
壱岐6人衆がここにこもり、火をかけました。

その時、御堂(みどう)は全焼しましたが、本尊と脇士は無事でした。


五輪塔群


五輪塔は主に供養塔や墓塔として建立されました。

参道の片側に古めかしい
13基の五輪塔群が並んでいます。

どれも鎌倉・南北朝時代の古いものです。

五輪塔は、5つに分けることができます。

上から、「空輪(キャ)」「風輪()」「火輪()」「水輪()」「地輪()」です。

昔、この周辺は、荘園がありました。

中世には呼子氏や牧山氏らの豪族が勢力を張っていました。



この寺の背面の小高い丘を、城の辻といいます。

ここに、呼子氏や牧山氏らの本拠地の
白石城がありました。

13基の五輪塔は、もとは城の辻の山中にあったものを明治の中ごろ今の地に降ろしました。

持ってくるときに、いい加減に組み合わせたらしく、不ぞろいのものがたくさんあります。

だれの墓か分かっていません。

呼子、牧山両氏より以前の豪族の墓だと考えられています。







最古

五輪塔群のなかに、「承元三年七月」(1209)という紀年名をもった高さ40cmの小ぶりの宝塔がありました。

承元三年というと、鎌倉時代初期にあたります。

長崎県では一番古い宝塔です。

現在は、
壱岐郷土に展示されています。


いろんな墓石が、所狭しと置いてあります。

詳しいことは、分かっていません。
















報恩寺





曹洞宗。

このお寺には、たくさんの文化財があります。

立派な門構えのお寺ですね~。

本尊は、薬師如来坐像

脇士 日光、月光各立像。

12神将。







ウスギモクセイ

右の写真は、報恩寺の境内にある、ウスギモクセイです。

毎年、10月頃に、薄い、あせた黄色の花が咲きます。

中国が原産地です。

自然分布は西南日本に限られています。

空気のきれいな場所でしか、花が咲かないとされています。

モクセイというと、まず、キンモクセイを思い出しますが、キンモクセイほどの香りはありません。

県指定天然記念物です。

幹周り1.8m、高さはおよそ10mあります。

全国でも大きい部類に属します。

台風のために、倒れてしまい、2本の棒で支えてあります。




木造十一面観音坐像

くすのき材で造られ、一木造りです。

色はほとんど落ちています。

室町時代に、博多の仏師である藤次郎が造りました。



雲版

江戸時代に造られたものです。

片面式で、頭部上辺に日象を、縁周りに飾り鋲があります。






龍蔵寺

壱岐の龍蔵寺参照