郷ノ浦散策


郷ノ浦は、壱岐の南西部にあり、博多と壱岐を結ぶフェリーの寄港地でもあります。

国や県の出先機関もこの町に集中していています。

島全体の人口が減少する中で、経済の活性化も思うようにならず、以前に比べて、活気がなくなったような気もします。

でも、島に残っている人たちは、元気にがんばって生活しています。


常盤井(ときわごう)

昔からこんこんと湧き出している井戸で、枯れたことがありません。

夏の暑い時も、冬の寒い時も水量が変わらないという不思議な井戸です。

そういうことから、常盤井と名づけられました。

郷ノ浦のことを、壱岐では、「武生水」(むしょうず)と呼んでいます。

この「武生水」という意味は、水がこんこんと湧き出ている地という意味です。











三富朽葉(みとみきゅうよう)の碑

三富朽葉は、壱岐郡武生水村(むしょうずむら)生まれ、明治44年に早大英文科を卒業しました。

フランス象徴派の詩人です。

大正6年に、12日で29歳になる前の、28歳の若さで、千葉県にある犬吠崎(いぬぼうざき)の海岸で海水浴をしているときに、おぼれて亡くなりました。

早稲田大学在学中に、西条八十らと雑誌「深夜」を発行し、文学の方面に進みました。

いくつかの詩集も出しています。

特に、
第2詩集「營み」は、私が好きな詩です。
 
 寨(とりで)を囲む麦の穂
……
 寨を囲む麦の穂よ、
 おお、季節、熟(う)れゆく麦よ、
 希(のぞ)みの海に今日もまた、
 溺れつつ、叢(くさむら)の中、
 わが魂はひざまづく!

生家は、今はありません。





トイレ

この公衆トイレは、総工事費2000万円をかけて造りました。

ステンドグラスが2枚はまり、天井はガラス張りでとても明るいトイレです。

ステンドグラスは長崎市の業者に特注しました。

ステンドグラスだけで
68万円です。

入り口はでこぼこしたタイルの上り坂になっています。

体の不自由な方は利用できません。

県の補助金
を1000千万円もらうときに「特色あるトイレを」といわれこのような形になりました。





客船

壱岐には、年に何回か豪華客船が入港します。

このときには、関係者の方々を中心にして歓迎のセレモニーが行われます。

客船が入港する場所は、郷ノ浦港の近くに専用の場所があります。

報道関係者は内部が見学できます。

壱岐の人も、壱岐の説明役として招待され、客船の出発地から乗船します。

運が良ければ、このような豪華客船が見られるかも知れません。










亀尾城(かめのおのじょう)跡

平安時代には、この場所に城代役所が置かれていました。

城代役所を出発地として、勝本まで駅馬が設けられていました。


















亀尾城と呼ぶようになったのは、鎌倉時代以降と思われます。

城の中に、亀石と呼ぶみごとな石があったこと、場所が郷ノ浦町の東北、すなわち山の尾にあたること、からこの名が付きました。

現在この亀石はありません。


鎌倉時代に、唐津(肥前国上松浦波多村)の岸岳城主である波多宗無が壱岐にやって来て城を築きました。

元冠直後から壱岐を統治するための本拠地となった場所で、平戸藩は江戸時代までここに城代・郡代を派遣して壱岐を統治しました。








室町時代になり、倭寇という海賊が中国沿岸や朝鮮沿岸を荒らし回っていた時期がありました。

この頃、肥前上松浦岸岳城主の波多秦
(はたやすし)の軍勢が突如数百隻の軍船で壱岐に攻め込み、子どもの波多興(こう)を亀尾城に住まわせました。

その後、波多氏の関係者である、お家騒動で殺された波多隆(たかし)、日高喜(ひだかこのむ)が壱岐を支配するために派遣した波多政(まさし)が壱岐城代になって、亀尾城で政治を行いました。

日高氏から壱岐を譲り受けた平戸藩主の松浦鎮信(まつうらしげのぶ)は、亀尾城に最高責任者としての城代を置き平戸から重臣を派遣しました。

江戸時代に、松浦信実が亀尾城を再建しています。

松浦氏は、手に入れた壱岐を、明治時代まで領有しました。

本丸が頂上にあり、今は、雑木が生い茂っています。

四方に石垣はありません。






壱岐郷土館


壱岐の全体の概要や、壱岐の縄文時代から現代に至るまでの歴史などの、簡単な資料を展示して紹介しています。

国指定重要無形民族文化財の壱岐神楽(いきかぐら)のダイジェスト版のビデオもあります。

水曜日、年末、年始休館です。





1階は
美術館になっていて、壱岐出身の彫刻家小金丸幾久の彫刻が展示してあります。




















2階はアートギャラリーになっていて、いろんな団体の趣味の作品展が開かれています。



















殿川屋敷跡

むか〜し、むかしのお話しです。

この場所に、殿川伊勢守(とのかわいせのかみ)という人が、出雲の国からやって来て、屋敷を造りました。

と、ある日、どこからともなく、美しい娘が現れ、伊勢守と夫婦になり、やがて、子どもができました。

妻は、子どもを、産む場所を作ってください、と夫に頼み、また、自分が子どもを産むところを、絶対に見てはいけません、と言い残して、その場所に入っていきました。

絶対に見てはいけないと、言われた夫ですが、やはり、気になります。

すき間から、そ〜っと、のぞいてみました。

な、なんということでしょう。

そこには、きれいな妻はおらず、七つの頭を持った大きな蛇がいて、産んだ子どもの蛇の体をなめまわしているではありませんか。

夫は、自分は、今まで、蛇とまじわりを持って生活していたのかいたのか、と、驚きながら、その場所を離れました。

しばらくしてから、また、きれいな妻にもどった大蛇が夫に言いました。

「無事に子どもを産むことができました。つきましては、勝手なお願いですが、私と離縁してください。」

夫は、「離縁するのは良いが、子どもはどうする?」と尋ねました。

妻は、蛇の鱗(うろこ)の模様がついた、刀を持って来て、「この刀で子どもの背中をなでて、育ててください。」と、言って、夫に渡しました。

刀を、渡した妻は、屋敷の庭にあった、池の中に入っていき、やがて、その姿も見えなくなりました。

さて、刀で、背中をなでられて、育った子どもは、その後、どうなったでしょうか。

実は、その子どもの背中には、蛇のうろこがあり、その後、45代まで、背中にうろこのある、子どもが産まれたといいます。













今、残っているのは、屋敷跡の水田と、大雨の時でも、干ばつの時でも、変わることなく、一定の水量を保って、流れ出ている殿川井(とのかわごう)だけです。
















囲は、とても静かな、水田や竹林、山があります。

ウグイス、ホトトギスなどの野鳥の声も聞こえます。

















長栄寺の5輪塔

「承元三年七月」(1209)という紀年名をもった高さ40cmの小ぶりの宝塔です。

長崎県では一番古い宝塔です。

長栄寺については「壱岐の長栄寺」参照。















牛化石

ある長老の話しでは、この石は、牛が、何らかの事情によって、このような、石になったそうです。

詳しいことは、今後の研究に待つことにします。
















宝篋印塔(ほうきょういんとう)

壱岐のお寺 壱岐の華光寺 庄触梅坂の宝篋印塔参照



















春一番の慰霊塔

壱岐の春一番参照

















春一番の塔

壱岐の春一番参照



















お宝地蔵

お宝伝説参照


















賽神社

壱岐の賽神社参照。




















昭和橋(しょうわばし)


この橋は、昭和橋といいます。

鬼のモニュメントがくっ付けてあります。

この橋を渡ると、奥の方に賽神社があります。

橋の中央には、ご覧のような、百合若大臣の鬼退治の像があります。

鬼退治については、壱岐の鬼伝説参照。








実弾演習

写真の山は本居浦にあります。

戦時中、左の山から右の山に向かって、軍が実弾演習をしていた場所です。

それにしても、軍隊のやることは分かりませんね〜。














メインストリート

写真は、郷の浦のメインストリートです。
メインストリートなので、もっと、にぎわっていてもおかしくは、ないのですが、祭日の早朝だったので、人っ子、ひとりいません。

さびしいです。













獲物

皆さん、これは何だと思いますか。

変わった形の石、サンゴ、海藻などが置いてあります。

実は、これは、漁師の網にかかって、引き上げられたものです。

それにしても、海底には、いろいろな物が、あるものですね〜。

お地蔵様の形をした石もあります。

まさに、海は宝の宝庫です。