壱岐の春一番のフェスティバル


春一番のフェスティバル


春一番


立春(2月4日頃)〜春分の日(3月21日頃)にかけて、初めて吹く、風速8m以上の南風を春一番と呼んでいます。

この風は、台風並みの風で、以前、東京の地下鉄東西線の列車が、春一番の強風にあおられ、脱線転覆したこともありました。

当時は、地下鉄でも、ひっくり返るのか、と驚いたものでした。

壱岐でも、昭和55年に、イルカ騒動というのがあり、アメリカ人のケイトという青年が、辰の島で捕獲しているいるイルカの網を切って、逃がしたことがありました。

そのとき、春一番の強風のため、辰の島から、壱岐に帰ることができなくなり、壱岐にいたケイトの妻が、アメリカ大使館にSOSを発信して、助けに行くという人騒がせな事件もありました。

今では、気象用語として、日本全国に定着していますが、実は、この春一番という気象用語、壱岐が発祥の地なのです。

写真の供養塔のある周辺を元居浦(もというら)といいます。





遭難

江戸時代のお話です。

この元居浦の漁師達が、月に1〜2回、五島沖にある喜三郎曽根というところに、タイの延縄漁(はえなわりょう)に出かけていました。

この喜三郎曽根は、タイがたくさん獲れるところでした。

港を出るときは快晴の良い天候でした。

当時の船は、帆船で1隻を4人で漕いで行きました。

予定の時間に、漁場に着いて、すぐに延縄漁を始めましたが、しばらくして、南風が吹き始め、黒雲が、南の水平線上に、もくもくと湧き上がってきました。

それを見て、漁師の1人が、「春一だ」、と叫びました。

それを聞いて、他の漁師達は、いましかけたばかりの延縄を切り捨てて、帰る用意を始めました。

しかし、間に合わず、強烈な南風が海上を吹き荒れ、周りはおおしけになり、小山のような大波がたち始め、漁船におおいかぶさってきました。

漁師達は、なすすべもなく、船もろとも海中に沈んでいきました。

遭難者の数は53名でした。

上の写真は、その53名の供養塔です





春一番の塔

その後、壱岐では、昭和62年に、郷ノ浦港入り口のある元居公園内に、記念碑の「春一番の塔」を建てました。

塔の形は、江戸時代当時、壱岐で利用されていた船(長さ2.7m)をモデルにしたものです。

余談ですが、春一番の遭難事故があって以来、壱岐で利用している船のつくりが悪いのではないか、という話がもちあがり、この遭難事故以後、船の形を、萩の鶴江の型にしたり、広島の船の型にしたりと変えていきました。

船の造り方にもいろいろあるのですね〜。

その結果、もともとあった壱岐の漁船の型はほとんど残っていないといわれています。











イベント

春一番の塔が完成した翌年から、「春一番・風のフェスタ」が開催されるようになりました。

このお祭りの時には、屋台や出店が立ち並び、子供が喜ぶような、イベントショーなどが行われます。

まぐろの解体と即時販売もなかなかの好評で、あっという間に売切れてしまいます。

私が行ったときには、サザエの積み上げ競争や抽選会が行われていました。











舟グロ

舟グロと呼ばれている、小さな船を漕いで競争することも行われています。

この舟グロ競争、今は、聖母宮(しょうもぐう)が有名ですが、もともと、壱岐の各地で、港祭りが行われる時には、いつでも、実施されていました。













右の写真は、大島の女性が参加した当時の舟グロ競争です。

このように、当時は、とてもにぎわったイベントが行われていました。













春2番

これも、余談ですが、皆さんは、春2番、春3番という、言葉をご存知でしょうか。

桜の花が咲く頃に吹く南風を春2番、桜の花が散る頃に吹く南風を春3番と呼んでいます。