なぜ、壱岐は長崎県になったのか。




元寇後

壱岐は、元寇という、かつてない事件で、壊滅的な打撃を受けました。

元寇までは、壱岐の守護は、少弐家から派遣されていました。

しかし、少弐資時(しょうにすけとき)が、死亡してからは、大宰府の権力が弱まり、九州本土の、松浦の方から、たくさんの人が移住してきました。

そのため、壱岐は、しだいに、松浦党の支配下に入るようになりました。

本土では、南北朝時代、戦国時代、応仁の乱という、戦乱の嵐が吹き荒れていた時代。

壱岐でも、例外ではありませんでした。











覩城(とじょう)跡

元寇後の、壱岐の中心舞台は、覩城(とじょう)と、呼ばれている、お城です。

この、お城について、簡単に述べてみたいと思います。















平治の乱(へいじのらん)

舞台は、平安時代末期に、さかのぼります。

京都では、平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも)が、政権をかけて戦いました。

いわゆる、平治の乱(1159)です。

このとき、敗れた、源義朝は、家来の、鎌田政家(かまたまさいえ)と渋谷金王丸(しぶやこんのうまる)の3人で、尾張(愛知県)まで、逃げていきました。

ここには、鎌田政家の妻の実家があったからです。

到着したのは、年もおしつまった、1159年の12月29日でした。

実家には、長田忠致(おさだただむね)、景致(かげむね)父子が住んでいました。

当初、長田忠致、景致父子は、手厚く、歓迎しました。

しかし、源義朝は、いずれは、平家に殺されてしまうだろう、そのとき、犯罪人をかくまったことが分かると、自分たちの首が危ない。

ついては、ここで、討ち取って、義朝の首を、平家に差し出せば、恩賞をもらえるだろうと考えました。

そこで、義朝を風呂に入れて、丸裸になったところを、殺してしまいました。

丸裸の、義朝は、「せめて、一本の木刀なりとあればかかる遅れはとらぬものを」と叫んで、亡くなりました。

一方、家来の鎌田政家も、長田景致によって、首をはねられました。

その、遺体は、妻のもとに、送られましたが、妻は、それを見て、なげき悲しんでいましたが、突如、夫の短刀を抜いて、自分の首に刺し、自害してしまいました。(川に身を投げて、自殺したという説もあります。)

一方、金王丸も、激しく抵抗し、主君の敵を討とうとしましたが、とてもかなわず、京都に、逃げ帰りました。

京都で、義朝の妻の、常盤御前(ときわごぜん)に、夫の死を知らせた後、義朝の霊をとむらうために、出家しました。

その後、源頼朝(みなもとのよりとも)の命令を受けて、源義経(みなもとのよしつね)を、暗殺しようとしますが、失敗し、六条河原で、首を切られ、さらし首になりました。

43歳でした。



恩賞

さて、長田忠致、景致父子は、源義朝の首を持って、ルンルン気分で、平清盛(たいらのきよもり)のところに行きます。

父子は、ほうびとして、尾張の国司にはなれるだろうと、考えていました。

が、結果は、1160年に、忠致は、壱岐守(いきのかみ)に任命されただけでした。

当然、平忠致は、不満でしたが、壱岐に、やって来た忠政は、ここ、湯岳(ゆたけ)に、覩城(とじょう)を築城し、壱岐をおさめるようになりました。。

しかし、まったく、やる気がなく、そのうえ、「義朝を殺した」たいうことで、世間の評判も悪く、いたたまれなくなって、すぐに、また、尾張に逃げ帰りました。


はりつけ

その後、1190年、源頼朝(みなもとのよりとも)が、天下をとってから、父、義朝の法事を行いました。

そのとき、源義朝を殺した長田忠致、景致父子は捕らえられ、義朝の墓の前で、板磔(いたはりつけ)の刑にされました。

板磔(いたはりつけ)の刑というのは、地面に板を敷いて、その上に、罪人をしばって、寝かせて、一寸(いっすん)きざみにしたり、股裂きにしたりする刑です。



五人による分冶

元寇の後、南北朝時代に、倭寇(海賊)として知られる五人が、九州本土の松浦の方から、やって来ました。

この当時、壱岐では、松浦の方からやって来た志佐(しさ)、佐志(さし)、鴨打(かもち)、呼子(よぶこ)、塩津留(しおつる)の五人が、表向きは海外貿易で、裏では倭寇(海賊)で、莫大な利益を得ていました。

五人は、壱岐を倭寇の本拠地にして、それぞれが、縄張りをもって、壱岐を分冶していました。

このとき、覩城(とじょう)に住んでいたのは、この周辺を支配していた、志佐氏でした。


波多氏侵略

ところが、1472年、室町時代に、肥前上松浦の岸岳城(きしだけじょう)の城主、波多泰(はたやすし)の軍勢が、突然、数百隻の軍船で壱岐に攻め込んできました。

今まで、壱岐を分治していた松浦党5人の連合軍は、志佐氏の居城であった覩城(とじょう)に集まって、戦いましたが敗れてしまいました。

志佐氏は、当時、印通寺港を使って、荷揚げをしていた、倭寇の一人でした。

この戦いを覩城の戦い(とじょうのたたかい)と呼んでいます。

左の写真は、その覩城跡です。















現在、周囲は、深江田原平野(ふかえたばるへいや)という、長崎県では2番目に広い平野の一角にあります。

波多氏が壱岐に侵略した目的は、自分の領地が海に恵まれない場所だったことにあります。

波多氏の根城は、佐賀県にある、波多城や岸岳城でした。

このお城から唐津港までは、10km以上あり、もっと、役に立つ、港がほしいと、考えていました。

そのため、壱岐を支配して、中国や朝鮮との海外貿易の拠点にしようと考えたわけです。

波多泰(はたやすし)は、海外貿易をするための、港をもっていなかったこともあり、壱岐に目をつけ、侵略したわけです。

波多泰が、勝利をおさめて以来、壱岐を拠点とする倭寇は、急速に減少しました。








亀尾城

波多氏は、その後、郷ノ浦にあった、鎌倉時代に、祖先の波多宗無(はたそうむ)が築いた、亀尾城(かめのおのじょう、右写真)を修築し、代官を派遣して、そこを拠点に壱岐の統治を始めました。

壱岐を手に入れた波多泰は、唐津の岸岳城に残りましたが、壱岐の代官を通して、莫大な海外貿易の利益を得ることができるようになりました。
















お家騒動


波多氏は、その後、波多興(はたこう)、波多盛(はたさこう)と、肥前松浦の岸岳城(きしだけじょう、左の写真)と代が続きます。

ところが、波多盛が急死し、しかも、跡継ぎとなる実子がいなかったために、本家本元の岸岳城では跡継ぎをめぐって、お家騒動が起こります。

なお、このとき、壱岐の城代は、波多盛の弟、波多隆(はたたかし)でした。

さて、岸岳城のお家騒動は、日高資(ひだかたすく)を中心とする家老側とこれに対立する奥方側とが、波多盛の跡継ぎを誰にするかということでした。

家老側は、波多盛の弟の、隆(たかし)、重(しげし)、政(まさし)のうちのだれかを、跡継ぎにしようと思っていました。

この3人は、当時、壱岐に住んでいました。

そして、まず、隆を跡継ぎの第一候補にあげていました。

これに対して、奥方の真芳は、盛の娘と有馬義貞の間に生まれた次男の藤堂丸(とうどうまる・後の波多親(はたちかし))を養子に迎えて、跡継ぎにしようと考えていました。















壱岐6人衆

壱岐6人衆というのは、牧山善右衛門、牧山舎人、下条将監、立石三河、下条掃部、松本左近という、壱岐の代官をいいます。

実は、この6人衆は、世継ぎ問題で揺れていた当時、奥方側についていました。



波多隆暗殺

そして、このお家騒動を解決するために、奥方の真芳は、壱岐6人衆に、壱岐の城代だった波多隆を暗殺するように、頼みました。

6人衆は、波多隆を殺すことにしました。

亀尾城(かめのおじょう)や玉泉寺(ぎょくせんじ)を転々とした、波多隆は、写真のような海岸まで追い詰められました。

その時、写真にある島(火島)の方から、味方の舟がやって来ました。

ところが、波多隆は、この舟を、敵の舟と勘違いして、もはやこれまで、と思い、この場所で自害して果てました。















写真は波多隆の墓です。

急斜面の途中の海岸沿いにあります。

同じ場所に、馬渡弥八右ヱ門や草履取りの墓もあります。

波多隆の暗殺後、奥方側は、藤堂丸(後の波多親)を第16代の城主にしました。












波多重暗殺

波多隆を殺害した翌年、奥方側は、壱岐6人衆に、壱岐の城代、波多重も暗殺するように、命令しました。

波多重は、一時、脱出に成功しますが、追っ手につかまり、筒城の権現崎(ごんげんざき)で射殺されました。














写真は、波多重の墓です。

これ以後、11年間、壱岐はこの6人衆によって統治されました。















3従士

写真は、壱岐6人衆によって、殺された波多重を、守るために戦った、3人の家来の墓です。

壱岐6人衆は、波多隆(たかし)を殺し、その翌年、城代を継いだ弟の波多重をも殺そうとしました。

危険を感じた波多重は逃亡しましたが、筒城の十手田原(じゅってたばる)で追いつかれ、争いとなりました。

主君の波多重を助けて逃がすために、3従士は必死に戦いましたが、多人数で押し寄せる敵には勝てず、ついにこの場所で討ち死にしました。

この塚は、その後、地元の人たちが、3人の冥福を祈るために、建てたものだと思われますが、いつの時代に建てられたものかはっきり分かりません。








日高甲斐守

一方、松浦の方では、相変わらず、お家騒動が解決しません。

家老側の抵抗は、続きます。

がまんできなくなった奥方側は、反対派の中心である、日高資(ひだかたすく)をお茶席で毒殺してしまいます。

これを知った、日高資の子供の日高甲斐守(ひだかかいのかみ・後の日高喜(ひだかこのむ))は、親のかたきを討つために、岸岳城に突入し、岸岳城を手に入れます。

奥方の真芳と藤堂丸(後の波多親)は脱出して、姉のもとに身を寄せます。












壱岐へ

岸岳城を手に入れた、日高甲斐守は、さらに、壱岐に渡り、奥方側についていた壱岐6人衆を殺します。

6人のうち、3人は、長栄寺の大御堂で討たれました。

このとき、長栄寺の大御堂は、焼けてしまいました。

残る3人は、
木田という場所で、横田秀定に討たれました。

6人衆を殺した日高甲斐守は、波多隆の弟の波多政(まさし)を、壱岐城代にすえて、岸岳城に帰りました。

右の写真は、6人衆のなかの、立石三河、下条掃部、松本左近の墓といわれています。








仁義無き戦い

これ以降、波多氏と日高氏の怨念に満ちあふれた仁義なき戦いが繰り返されます。

岸岳城を手に入れた日高甲斐守は、勝手なふるまいが多く、次第に周囲から反感をかうようになりました。

そのため、一時、逃げていた、奥方の真芳と藤堂丸(後の波多親)は、親戚関係にある佐賀の龍造寺氏や島原の有馬氏の助けを借りて、岸岳城を取り返そうとしました。

これを、知った、日高甲斐守は、平戸の松浦隆信(まつうらたかのぶ)に助けを求めます。

松浦隆信は、子供の松浦鎮信(まつうらしげのぶ)を岸岳城に向かわせますが、海がおおしけのため、足止めをくっているうちに、日高甲斐守は戦いに敗れてしまいました。

戦いに敗れた日高甲斐守は、壱岐に渡り、自分が城代にすえ、亀尾城に住んでいた、波多政を、弟の日高信助と一緒に攻めて殺害し、その後、日高甲斐守は壱岐の城代になって、壱岐を支配するようになりました。

一方、岸岳城を取り戻した、藤堂丸は名前を変え、波多親(はたちかし)と名乗るようになりました。

それにしても、自分が城代にすえた波多政を殺した日高甲斐守はどういう人物だったのでしょうか。

まさに、自分の目的を達するためには手段を選ばないということでしょうか。








最後の決戦

さて、波多親は、日高甲斐守との決着をつけるために、佐賀の龍造寺氏や対馬の宗氏と連合軍を組み、壱岐に攻めていきました。

これに対して、日高甲斐守と日高信助の兄弟は、松浦隆信に助けを求めます。

これが、壱岐の将来を決定することになります。

日高甲斐守は、もし、自分を助けてくれるなら、壱岐を松浦氏の領地として提供し、自分は、松浦氏の家来になってもよい、

と、約束します。

そして、自分の娘を人質として、松浦隆信に提供します。

松浦隆信は、まさに、棚からぼたもち、の心境です。

もちろん、2つ返事でO.Kです。














こうして、日高氏と波多氏の最後の決戦が始まりました。

場所は、浦海海岸(うろみかいがん)です。

結果は、日高氏と松浦氏の連合軍の勝利に終わりました。

写真は、浦海海岸です。

平戸の松浦隆信は、約束どおり、壱岐をもらいました。

そして、自分の子供の松浦信実(まつうらのぶざね)と、日高甲斐守が、人質に差し出した娘と結婚させ、壱岐の亀丘城に派遣して、壱岐城代にしました。

1571年のことです。

以後、壱岐は版籍奉還まで、平戸藩の領土になり、廃藩置県で長崎県に属するようになったわけです。

この浦海の合戦で、日高氏が負けていたら、壱岐は佐賀県になっていたかもしれません。

なにしろ、壱岐は、九州の本土では、佐賀県が一番近いのですから。

この後、日高甲斐守は、日高喜(ひだかこのむ)に名前を改めています。

この後の、日高喜については、朝鮮出兵を参照してください。

国士の墓については、浦海散策を参照してください。

鞍馬滝(鞍馬の滝)については、浦海散策を参照してください。



松浦隆信の拝塔

これは、日高喜から壱岐をもらった松浦隆信の拝塔です。

松浦隆信は、父が松浦久信、母はメンシア(おその)です。

松浦隆信は、住吉神社の拝殿を作ったり、本宮八幡神社の再建をしたり、郷ノ浦の妙見社の再建をしています。

このように、壱岐のために、いろいろなことをしてくれたので、壱岐に在住していた家臣が建てたものと思われます。

拝塔には、「前壱州大守正宗院殿向東宗陽」と刻まれています。






立石図書(たていしずしょ)

浦海の合戦で、波多親は、対馬の宗氏に応援を頼みました。

このとき、宗氏の家来に立石四郎左衛門(たていししろうざえもん)という者がいました。

立石四郎左衛門には、壱岐に立石図書という日高喜の家来をしている、親戚の役人がいました。

立石四郎左衛門は、立石図書に手紙を書いています。

その内容は、もし、波多氏のみかたをして、戦いに波多氏が勝ったら壱岐の半分をあげる、というものでした。

立石図書は、驚きましたが、その手紙を日高喜と日高信助に見せました。

3人は、これからどうするかを話し合い、だまし討ちをすることにし、次のような返事を対馬の宗氏に書きました。

対馬軍に、みかたをする。

ついては、対馬軍が壱岐の近くにきたら、城に火をつけるので、その混乱に乗じて上陸するように、というものでした。

さて、だまされているとも知らないで、100余隻、3000人余の対馬軍は、勝本の若宮島の近くで、7月16日の夜、城が燃え上がるのを今か今かと待ちました。

それを見て、立石図書は、近くの布気(ふけ)という村にある山の頂上に、薪(まき)をたくさん積み上げ、火をつけました。

火が勢い良く、燃え上がるのを見た、対馬軍の大将の宗釆女介(そううねめのすけ)は、勢い良く浦海海岸に上陸しました。


























これを迎え撃ったのは、日高喜、日高信助、元岡修理、立石図書、深見助左衛門等1300人と、松浦信実勢1700人、合計3000人でした。

左の写真にある山で挟み撃ちにしました。

対馬軍は、まさか迎え撃って来るとは、夢にも、思っていなかったのであわてました。

当然、指揮系統は乱れ、対馬軍は、われ先にと船に戻りました。

ところが、運悪く、引き潮だったことにくわえて、逆風で、船がまったく動かず、生き残ったものは100人余という有様でした。

一方、対馬軍の大将の宗釆女介(そううねめのすけ)は、沖合いの船に残っていて、様子を見ていましたが、負け戦だということが分かると、対馬に逃げ帰ることにしました。

ところが、逆風のために、船は流され、平戸の塩俵(しおだわら)に上陸したところを、松浦藩の武士に発見され、主従7人ともども殺されてしまいました。

飛んで火に入る夏の虫、というところでしょうか。











写真は、立石図書の墓です。

この周辺は、山の頂上で、近くには、古墳もたくさんあります。

立石屋敷という立派な屋敷もありました。

この周辺の村を立石触(たていしふれ)と呼んでいます。










波多親

ここで、戦いに敗れた波多親のその後について、お話しします。

この波多親は、行動がはっきりしない人物で、城主になってからも、周囲からは嫌がられていました。

たとえば、豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたときに、他の九州の武将が秀吉を博多まで、出迎えに行ったときに、遅れて行き、秀吉の感情を害しています。

また、朝鮮出兵では、鍋島直茂にしたがって、出かけましたが、まったく、戦う気がなく、怒った秀吉は、所領を没収し、身柄を徳川家康に預けました。

その後、常陸(ひたち)に追放され、亡くなっています。