元寇


壱岐は、鎌倉時代に2回の元からの侵略を受けました。

日本史で良くいわれる、文永の役と弘安の役です。

この2回の元寇で壱岐は壊滅的な打撃を受け、残った人口はわずかに2けたの数字だといわれています。

元寇の後、壱岐には佐賀県や福岡県からたくさんの人たちが移住してきました。














文永の役


鎌倉幕府

写真は、マルコポーロがフビライに、日本は黄金の国です。

家の内外ともに金があふれています、と話しているところです。

元の国王フビライは北条時宗に使者を送り、元国の属国になるように要求しました。
















北条時宗は1回も返書を出すことなく、無視し握りつぶしました。

このため、フビライは、文永11年(1274)に、およそ兵等4万人、船900隻で日本占領に出発しました。

ここでの、ポイントは船900隻と兵等3万人にあります。























高麗

まず、船900隻は、高麗に造らせました。

しかも、期日に間に合わないので、工費を節約して簡単なものを急いで造らせました。

また、兵等3万人の中に、フビライの軍隊である蒙古兵はわずか30人しかいませんでした。

残りは、フビライが占領した高麗や中国の兵隊からなる混成部隊でした。

すなわち、元軍は、純粋の元軍ではなく、各地で寄せ集めた兵隊でした。











浦海(うろみ)海岸


さて、対馬を攻略した10日後に、元軍は壱岐に向けて出発しました。

壱岐の上陸場所は浦海海岸、天が原、湯の本方面の海岸地帯でした。

写真は浦海海岸です。

壱岐には、午後4時頃到着しました。

元軍は、先ず先発隊として、2隻の船を浜辺近くまで漕ぎ寄せ、400人くらいが上陸しました。












平景隆(たいらのかげたか)


これを迎え撃つ壱岐国の守護は平景隆(たいらのかげたか)でした。

景隆は対馬が全滅したとの連絡を受けていたので、筑前守護の少弐資能(しょうにすけよし)に使いを送り、援軍を頼みましたが、とても間に合うはずはありません。

平景隆は、樋詰城(ひのつめじょう)から、家来100余騎をしたがえて、湯の本、本宮方面まで、出向いて戦いましたが、後退を余儀なくされ、庄の三郎ケ城(しょうのさぶろうがじょう)という城で激突しました。

写真の一番奥に見える小高い丘が、庄の三郎ケ城です。










古戦場

写真は、いずれも文永の役で戦場になった場所です。

大きな石碑がたっていますが、これは、元寇で犠牲になった人々の冥福を祈るために造られた千人塚です。

 さて、平景隆の軍勢は、わずか100人足らず。

とてもかなう相手ではありません。

 先ず、戦い方が違いました。

日本軍の戦い方は、矢合わせをした後、互いに名乗り合って、一騎打ちというのが当時の常識でした。

「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って眼にも見よ・・・!」と大声で名乗りあって、戦始めの「鏑矢(かぶらや)」を、放つ、というものでした。

なぜ、こんなことしたのでしょうか。

それは、当時の武士が、幕府から手柄を立てたときにもらう、土地の評価基準に関係します。

武士の評価基準には、「先駆(さきがけ)」、「討死(うちじに)」、「手負(ておい)」、「分捕(ぶんどり)」という、4つがありました。

これらの手柄も、証人がいて初めて認められるといった仕組みになっていました。

そこで、大声で、名乗りあうことによって、証人に自分の働きを認めてもらう、必要があったというわけです。



戦法

写真は、皆さんがすでにおなじみのものです。

教科書に出ています。

これを見ると、日本軍は、「一騎討ち」を考えて、1人で敵陣に突っ込んでいるのに対して、元軍は集団で戦っています。

とてもこれではかないません。

また、「てつはう」と呼ばれている、爆弾のようなものが破裂して、その音に馬が驚いて暴れ回り、竹崎季長(たけざきすえなが)が馬にしがみついています。

竹崎季長は、手柄をたてて、領土をもらうために、「先駆け」で、敵陣に突っ込んでいきました。

しかし、結果は、絵のとおりで、この後、季長は、瀕死(ひんし)の状態にあるところを、白石通泰(しらいしみちやす)から、助けてもらうというありさまでした。

この戦いで、日本軍は火薬というものを初めて知りました。



元軍のいでたちは、短刀と刀、長槍を持ち、服装は、身軽なよろい、かぶとでした。

これに対して、日本軍のいでたちは、長弓と日本刀を持ち、服装は重いよろい、かぶとでした。

また、武器の能力も違っていました。























日本軍の矢は100mくらいしか飛ばないのに対して、元軍の矢は2倍の200m、しかも、矢先には毒が塗ってありました。






















自害


ということで、平景隆は一族もろとも自害して果ててしまいました。

写真は、景隆の切腹の図です。

切腹のときに、家来の宗三朗(むねさぶろう)に元軍の襲来を大宰府に知らせるようにとの命令を出しています。


















平景隆の墓は彼の本拠地「樋詰城(ひのつめじょう)」跡にひっそりと立っています。
















五輪塔

写真は五輪の塔です。

この五輪の塔がある場所は、長徳寺があった場所です。

現在の長徳寺の場所とは少し離れています。

壱岐七堂の一つとして建てられました。

3基のうち、2基は花崗岩、1基は玄武岩で作られています。

花崗岩の方は形も正しく、きれいな形で残っています。

石も技も壱岐のものではありません。

鎌倉時代に作られたと推定されます。

塔の高さは91cmあります










この場所から500mくらいの所に、元寇で討ち死にした少弐資時(しょうにすけとき)が住んでいた船匿城(ふなかくしじょう)があります。

以上のことから、この五輪の塔は、文永の役で活躍した平影隆に関係のある一族の墓ではないかといわれています。














姫御前(ひめごじょう)塚

平景隆は、自害するときに、家来の宗三朗と自分の娘の姫御前(ひめごじょう)に、壱岐に元軍が攻めてきて、壱岐は全滅した、という伝言をするように命令しました。

命令を受けた2人は、大宰府に向かいますが、その途中で、元軍の放った毒矢が、姫御前にあたり、死ぬまぎわを見せたくない姫は自害しました。

この写真は、里人がその死をあわれんで、このような塚を造りました。

宗三朗は、危機を脱出して、大宰府に壱岐の惨状を報告しました。














残虐行為

これから、元軍の残虐行為が始まります。

老人、子供、男はすべて切り殺し、赤ん坊は股裂きにし、妊婦はお腹を切り裂き、お腹の中の胎児を殺したり、女は集めて乱暴、暴行の後で、手に穴を開けて綱を通して、数珠(じゅず)つなぎにして、船に運び、船の横に吊るしました。

船に吊るしたのは、日本軍が攻めてきたときの矢玉除けのためでした。

こうすれば、日本軍が矢を撃てないと考えたのでしょう。

民家はすべて放火され、この当時、壱岐には7000頭の牛がいました。

多分、食べられてしまったのではないかと思われます。

また、生き残った島民はわずか65名という記録もあります。






博多へ

壱岐を侵略した後、元軍は博多を攻めます。

しかし、1日戦っただけで引き上げてしまいます。





















引き上げ

一夜明けました。

なんと、元軍の船は、1隻も博多湾からいなくなっているではありませんか。

蒙古軍が、たった1日だけ戦って引き上げたわけは、次のようにいわれています。

約3万人の兵隊が攻めてきたわけですが、彼らの多くは、元によって滅ぼされた、高麗軍で、命令されてしかたなしにやって来た者ばかりでした。

したがって、やる気もありませんでした。

また、混成部隊であったために、指揮系統も十分でなく、くわえて、食料も武器もなくなり、戦いを続けることが不可能だったからです。

よく、その晩、暴風雨のために元軍の船のほとんどが沈没したということがいわれています。

しかし、元軍が攻めてきたのは、現在の暦では、11月26日にあたります。

しかも、この日に、神風が吹いたという、当時の記録はありません。

しかし、沈没した船の数200余隻、死亡者数3万人の記録があります。

したがって、元軍が、戦いを止めて、国に帰る途中で、暴風雨にあったと考えられます。

難破した船は、高麗が突貫工事で造ったものでした。

それだけに、手抜き工事が多く、船としては十分なものではなかったといわれています。

生き残った元軍は、非難と船の修理のために、再び壱岐、対馬に寄りました。

そのとき、わずかに生き残った少年、少女200人を捕らえて、国王や后に献上しています。



弘安の役

文永の役から7年後の弘安4年(1281)、再び、フビライは日本に攻めてきました。

攻めてきた日付は、現在の太陽暦では、台風シーズンにあたる、8月20日前後にかけてでした。

その数14万人、船4400隻です。

写真の赤い点が元軍の船の数を表しています。

上陸地は、浦海海岸、天が原、瀬戸浦です。 

この弘安の役の元軍が準備していた物は、前回の文永の役と異なっていました。

それは、長期戦にそなえて、12万3千560石という大量の食糧を積み込み、さらに、鋤鍬(すきくわ)などの、農機具まで用意していたことです。

つまり、日本に着いたら、田畑を耕作しながら、長期戦で、戦争をするということを、考えていたわけです。




瀬戸浦

当時、瀬戸浦では若干19歳の少弐資時(しょうにすけとき)が船匿城(ふなかくしじょう)に住んでいました。































写真は、その船匿城跡です。

現在は原野になっています。

ここから元軍が上陸した瀬戸浦が一望できます。

当時、元軍は写真のような場所から攻めてきたわけです。

船4400隻、14万人の軍隊を見たとき、どのような感じをもったでしょうか。

想像を絶します。








少弐資時(しょうにすけとき)

写真は、少弐資時の墓です。

戦いはあっという間に終わってしまいました。

地元の人たちは、毎日のように少弐資時の墓にお参りしていました。

しかし、この墓が、少弐資時の墓と分かったのは明治時代になってからです。

この後、元軍が行った残虐行為は文永の役と同じです。














壱岐を攻略した元軍は博多を攻めます。

しかし、台風にあって全滅したのは皆さんが学校の授業で学んだとおりです。

12万人が死亡、3800隻が沈没しました。

日本軍は、生き残った元軍2〜3万人を捕らえ、博多の那珂川あたりで首をはねました。













隠れ穴

写真は、元寇のときに生き残った人が隠れた穴です。

壱岐にはこのような隠れ穴がたくさんあります。

隠れていた人たちの中には、赤ん坊を抱いている人もいて、その泣き声が敵に聞こえないように、きつく口を押さえていたら、赤ん坊が窒息して亡くなったという話もあります。

穴は、壱岐では一番大きな穴で、入り口の奥行き5m、幅3m、高さ2mあります。












千人塚


写真は、元寇で亡くなった人の、冥福を祈るために、当時に作られた墓です。

千人塚と呼んでいます。

壱岐にはこのような千人塚がたくさんあります。
















碇石(いかりいし)

写真は、この近くの海底から引き上げられた船の碇石(いかりいし)です。

碇石については、元軍の船のものか日本軍の船のものか、はっきり分かっていません。

中国製の花崗岩(かこうがん)でできています。

重さは約300kg、長さは2m42cmあります。

現在、周辺の海底には、食器類、石臼、碇石の割れたものなどがたくさん沈んでいます。

















これは、芦辺漁港にある千人堂の碇石です。

上の少弐公園にある碇石と形が違っています。

地上2m、地下1mあり、単純に加えても、長さは3mになります。

こういうものを積んで、元軍と日本軍の戦いが繰りひろげられたわけで、感慨もひとしおです。
















碇石は、写真のような形で利用されていました。




















天皇家

元寇の時には、日本の勝利を祈って、いろんな人が登場します。

御家人だけでなく、僧侶や神官も加持祈祷(かじきとう)を行っていました。



















天皇家も例外ではありません。

亀山上皇は「敵国降伏」と書いた額を箱崎宮(はこざきみや)に奉納しました。

戦争が終わって、日本が神風が吹いて勝利したことが分かると、これらの利害関係者は、自分達が貢献したから、勝利したと思い、報償を求めて鎌倉に交渉に出かけたわけです。