壱岐の華光寺



華光寺


波多氏

壱岐を支配していた、波多氏に関係の深いお寺です。

1301年、室町時代、唐津の岸岳城主、波多宗無の妻である、華渓(かけい)が、対馬の実家に帰る途中、壱岐で病死しました。

華渓の子供の天祐が、壱岐に、華渓院という菩提寺をつくって、亡き母を弔いました。

その後、200年後の1506年、同じく、室町時代に波多盛(さこう)が、華渓院を改築して華光寺としました。

その後、波多親(ちかし)も華光寺を再建しています。

曹洞宗です。









日高家の墓もあります。

日高氏については、「なぜ壱岐は長崎県」を参照してください。

向かって、左側の2基が日高喜(このむ))夫妻、右側にある2基が日高喜の両親である日高資(かてし)夫妻の墓です。

朝鮮出兵のおりに、日高喜が朝鮮で焼かせたといわれ、今、聖母宮(しょうもぐう)にある古唐津焼の茶壺は県指定文化財になっています

日高喜(このむ))は、壱岐を松浦鎮信に譲り渡した城代です。

これ以後、壱岐は代々松浦氏が支配するようになりました。








高山の宝筺印塔(たかやまのほうきょういんとう)

1301年、室町時代に、唐津岸岳城主、波多宗無(はたそうむ)の妻だった華渓(かけい)が、実家の対馬に里帰りをする途中、壱岐で病気で亡くなりました。

唐津と対馬が見えるところに遺体を葬ってくれという、遺言があり、この場所に埋葬されました。

それにしても、室町時代につくられたとは思えないほどの新しさが残っています。

周辺は、うっそうとした林の中で、その中を歩くと、からすの群れが頭上で舞い、ガーガー、と激しく鳴きわめきます。

とても怖い場所にあります。










庄触梅坂(しょうふれうめさか)の宝筺印塔

実は、この宝筺印塔も、上の印塔と同じ、華渓(かけい)のものといわれています。

なぜ、同じ人物に、2つの印塔があるのか、詳しいことは分かっていません。













お家騒動

これは、波多盛(はたさこう)の妻の、古若女の墓といわれている宝筺印塔(ほうきょういんとう)です。

宝筺印塔の周辺には、
キリシタン関係者の墓もたくさん散乱しています。

宝筺印塔の表面には、十字が刻まれています。

この当時、唐津の岸岳城では、波多盛に実子がいなかったので、盛の死後、跡継ぎをめぐって、熾烈な争いが起こっていました。

壱岐でも、そのとばっちりを受けて、波多隆(はたたかし)や波多重(はたしげし)が壱岐6人衆に暗殺されました。

古若女は、暗殺された波多隆や重の母親です。


60歳余で亡くなりました。

お家騒動については、「なぜ壱岐は長崎県なの?」を参照。











流人の鐘

これは、流人の鐘といわれているものです。

江戸時代に造られました。

長崎から来た流人と堺から流されて来た流人の名前が刻まれています。

吊り下げているところに、竜の頭があります。








松浦隆信の拝塔

写真松浦家の25代当主である道可(印山)隆信の拝塔です。

拝塔には「印山」という文字が刻まれています。

松浦隆信は戦国時代の大名です。

当初は、平戸地方の一弱小の武士でしたが、平戸松浦家を強力な戦国大名に押し上げた立役者です。

平戸城下で倭寇の王直と組んで、盛んに南蛮貿易を行い、莫大な利益を得ました。

織田信長が実権を握っていた、安土桃山時代の元亀2年(1571)から、壱岐を支配しています。

豊臣秀吉が、天正15年(1587)に、九州平定をしたときにも、参加しています。

豊臣秀吉が、朝鮮出兵をしたときには、秀吉から、壱岐と朝鮮の間の、兵糧米の輸送の監督を依頼されています。

この拝塔は深い竹藪の中にありましたが、現在の住職が赴任した折りに、檀家から古い墓がある、と言われ、竹藪を切り開いて、見つけました。

古文書には、この拝塔の記録がありますが、実際に発見されたのは、ごく最近のことです。



松浦長(ながし)の拝塔

松浦隆信の拝塔の隣にあります。

「前肥前大圓宗光居士」と刻まれています。」

松浦長は、第五大藩主松浦棟(たかし)の長男です。

松浦長は、徳川綱吉の寵愛を受けていましたが、早くに亡くなってしまいます。

このため父の松浦棟(たかし)は、弟の篤信を養子として、家を継がせています。