百姓源蔵事件


公地公民制度

源蔵は、平戸藩の不正を直訴したため処刑された百姓です。

江戸時代、壱岐は平戸藩によって支配されていました。

平戸藩は、農家を支配するために地割制度(じわりせいど)という仕組みを作りました。

この当時、平戸藩は、壱岐の農家に対して、田畑の私有を認めず、幕府が田や畑を農家に貸し与える、というものでした。

歴史に詳しい方は、お分かりと思いますが、聖徳太子の班田収受の法と全く同じ制度を採用したわけです。

そして、村内の田畑をすべて共有にし、期限を定めて村民に割り振りして耕作させ、10後に、そこを耕す者を、決め直すというものでした。

この制度を地割制度といいます。

当初は、だれがどこの田畑を耕作するかを決めるときには、庄屋を中心として、不平等がないように各人に分配され、藩は割り替えには関与せず、ただ監督するだけでした。

ところが、土地に比べて住民の数が増え、耕地の配分がもめているときには、平戸藩から役人が派遣されました。

ここに、中尾丹弥(なかおたんや)という、代官であると同時に可須村(今の勝本町)で、農業をしている人物がいました。


悪代官

中尾丹弥は、可須村の地割りをするときに、酒食に多くを出費し、数10日もかけて田畑割を行なっていました。

その結果、
自分勝手な地割を行い、良い土地を自分がもらうという、地割をしました。

このとき、作五郎と源蔵が中心になって、地割をしている人たちに、地割りの不正を追及しました。

このことが、お上の知るところとなり、源蔵と作五郎は遠島になりました。


直訴

ところが遠島になったはずの源蔵と作五郎は、平戸藩に不正ありと、将軍家斉に直訴をしたわけです。

幕府は、平戸藩に、事実を調べるようにと連絡し、平戸藩は、そのような事実はないという、ま〜、予想された通りの結論に達しました。

幕府から平戸藩、平戸藩から壱岐に送られた源蔵は、中尾丹弥の屋敷のそばにある馬小屋に押し込められ、草やワラを差し入れてもらったといいます。

処刑の日、可須村を引きまわされた、源蔵のもとに、10年以上も顔を見ていない娘のハツが、焼餅を差し出しましたが、源蔵はこれを、「あなたが食べなさい」と言って、娘にまた、返したという話しも残っています。

もちろん、ハツは、源蔵が自分の父親であることを知っているはずがありません。


百間馬場

結局、源蔵は、百間馬場(ひゃっけんばば)という処刑場で処刑されました。

当時、43歳でした。

百間馬場という場所は、古代から、郷ノ浦と勝本を結ぶ大きな道路で、幾万本という広い松並木が百間(180m位)余り続く名勝地でした。

平地で良い馬場もありました。

馬場とは、広い場所という意味です。

死刑場もありました。

牛が死ぬと 夜間、1213人くらいで埋めにきた場所でもあります。

百間馬場には、
60歳になった人を捨てた、という話を聞いたこともあります。

百間馬場は、源蔵が死刑にあってからは、怨念が残り、しばらくは、草木も生えないといわれるほど、淋しくて恐ろしい場所になりました。

今でも、この山の山頂はさびしくて、1人では行くことができないくらいのこわ〜い場所です。

作五郎については何の資料も残っていません。




呼び出し

さて、源蔵が処刑されてから、20日後、江戸幕府から、源蔵を江戸に連れてくるようにと連絡がありました。

しかし、時すでに遅く、このとき、源蔵が江戸に再び行くことができてれば、平戸藩の運命も変わっていたかもしれません。

それにしても、お上のやることは、いつの時代でも、後手後手にまわるものですね〜。



神社

村人たちは、武家の圧政に反抗して、自分を犠牲にした源蔵を義人として崇め、神として祀るために、源三神社を造りました。

源三神社は、里を見下ろす小山の山頂にあります。


















源蔵の墓は麓の墓地にあり、里人といっしょに眠っています。


この当時、百姓は、苗字(みょうじ)を持つことを許されていませんが、なぜか、源蔵には、「岩本源蔵」という苗字が刻んであります。















写真の墓は、源三と関係の深い、中尾丹弥の墓です。

中尾丹弥の墓とこの隣にある墓には、戒名がありません。

死後に、墓が荒らされないように、無名にしたと言われていますが、定かではありません。

中尾丹弥は、槍の名手でした。

参勤 交代のとき、他藩の武士を殺したり、 その追っ手を返り討ちにしたとも、言われています。


平戸藩は、江戸時代後期に、勝本沖に異国船がたびたび現れるのを見て、勝本に、海上や陸上での警備や治安維持のために、押役所という、見張り番所を設置しました。

このとき、この押役所で、軍事訓練の指導をしたのが、中尾丹弥でした。













源蔵虫

源蔵が処刑された後、壱岐では、病害虫が大量に発生し、農作物が不作の年が続きました。

人々は、この病害虫を源蔵虫と呼び、源蔵の怨霊(おんりょう)が、害虫になって、災いを起こしていると、考えるようになりました。

怨霊信仰は、奈良時代の桓武天皇、藤原氏から始まり、鎌倉時代、江戸時代まで続いています。

浮かばれない死に方をした人が、稲に害を与える虫に姿を変えて、祟(たた)りを起こし、救われない魂を、救ってもらいたいと、考えていると、その時代の人たちは、考えていました。

このため、壱岐の渡良(わたら)の麦谷ノ辻(むぎやのつじ)や筒城(つつき)にも分霊を祀り、農作物の病害虫の駆除を祈るようになりました。

壱岐の渡良の麦谷ノ辻の分霊については、渡良半島散策「虫供養塚」参照。