壱岐の国指定文化財



 初めに

壱岐で発見された文化財で、いわゆる国指定文化財には、次のようなものがあります。

それぞれの、遺跡や文化財の特徴については、各章を参照してください。



 原の辻遺跡


壱岐の原の辻遺跡を参照してください。



 勝本城址



壱岐の朝鮮出兵を参照してください。


 壱岐船競漕行事

壱岐では、複数の舟を漕いで、どちらが先に、目的地に着くことができるかを、競い合う行事があります。

この行事のことを、フナグロとかミユキブネ(神幸舟)と呼んでいます。

壱岐では、勝本浦のフナグロが有名です。




















勝本浦のフナグロは、毎年、聖母宮のお祭りが行われる、10月14日に実施されます。

ここでは、本浦と正村からの、それぞれ5人の代表が選ばれ、紅白に別れ、二艘の舟で行われます。

紅白の舟の、どちらに乗るかは、くじびぎで決めます。



















五人の代表は、裸に、ふんどしを締めて、頭には、それぞれ、紅白のはちまきをして、舟に乗り込みます。

紅の舟が勝てば、その年は大漁で、白の舟が勝てば、その年は、豊作です。

競漕は、一回きりです。









 辰の島海浜植物群




壱岐の辰の島の散策を参照してください。




 安国寺高麗版大般若経

概論

大般若経は、仏教の最高の真理について記したもので、釈迦が説いた教えを記録した経典です。

安国寺にある大般若経は、高麗版(初彫版)219帖、補写経(写本版)372帖、合計591帖から成り立っています。

安国寺にある大般若経は、 高麗国の金海府戸長礼院だった許珍寿が、亡父追善のため、大般若経600巻を摺写し、西伯寺に寄付したものです。

その後、1420年(応永27年)、室町時代、倭寇の総司令官の道林(どうりん)が、手に入れ、彼杵郡(そのぎぐん・今の長崎県東彼杵郡)川棚町にある、長浜神社に奉納しました。
















しかし、大村氏の戦いが起こり、戦火を免れるために壱岐石田の真弓城にいた真弓豊後守のところに送り、1486年(文明18年)、豊後守が安国寺に納めました。

この点に関しては、1486年(文明18年)、出羽の立石寺の如円坊(にょえんぼう)により安国寺に持ちこまれた、という説もあります。

昭和51年から52年にかけて約980万円をかけて保存修理を行ないました。












高麗版

安国寺にある、大般若経のうち、高麗版大般若経219帖は、初彫本(高麗国で最初に彫られた版木によって刷られた本)で、このようにまとまって残っているのは、珍しく、歴史的にも貴重なものです。

版本219帖のうち、帖の巻末に重煕(じゅうき)15(1046年・平安時代)、丙戊4月 日、謹記の墨書奥書があります。

奥書には、高麗国の近海府戸長礼院使であった許珍寿が亡父追善のため、この版本大般若経600巻を摺写、供養した旨を伝えています。

これから、この版本が重熙15年以前に印刷された初彫本であることが分かります。

経版の彫版技術の優秀さは世界の印刷文化史の中でも自慢できるもの、と言われています。

高麗版大般若経は、昭和50年に国の重要文化財に指定されました。


写本版

写本版のほうは、高麗とわが国で補われたものです。

高麗時代に写本されたもの119帖、南北朝時代に写本されたもの154帖、室町時代に写本されたもの98帖、江戸時代に写本されたもの1帖に区別されます。


盗難

1994年(平成6年)7月23日、高麗で彫られた版木から刷った初彫本と、写本の計493巻が宝財殿からなくなっていることが判明しました。

宝財殿の南京錠を切断して侵入し、経典だけを持ち去り、被害額は数億円といわれています。

現在は、わずかに98
(版本31、写本67)しか残っていません。

最後に見てから盗難に気付くまで2カ月が過ぎていました。

その後、酷似した経典3巻が95年に韓国で国宝に指定されたことが判明し、文化庁は、この教典3巻と安国寺の初彫本の写真を照合しました。

その結果、しみや汚れ、巻末の署名などが酷似していたことから、外務省は19
982月、韓国側に調査協力を要請しました。

しかし、韓国の購入者は、盗品と知らずに購入したということで、善意取得が成立し、返還不要と、いうことになりました。

現在は、化粧品会社の会長が所有している、ということです。





 壱岐神楽

壱岐の神楽を参照してください。




 石造弥勒如来坐像


由来

この弥勒如来坐像は、平戸の国学者である、橘三喜(みつよし)が、天手長男神社のある、鉢形峰の経塚から発掘しました。

延宝4年(1676)、江戸時代、平戸藩主の松浦鎮信(まつうらしげのぶ)は国学者橘三喜(たちばなみつよし)に、式内社24社の調査を命じました。

当時、天手長男神社は、跡かたもなく、老婆から話しを聞いて、この場所にあった竹薮(たけやぶ)の中に分け入り、神社の跡形を探しました。

しかし、結局、神社の跡形は、見つけることができませんでした。

このとき、地元の人たちを集めて、竹薮の中を掘らせていたら、神鏡
1面、滑石でつくられている石造弥勒如来坐像を2体、その他たくさんの土器を見つけました。

橘三喜が2体の如来像を掘り当てた場所は石で囲まれ木が
1本立っていて、京塚と呼ばれています。

滑石で造られています。

像高
54.3cm、最大奥23.4cm、膝張29.0cm、 台座10.0cmです。

延久2(1070年・平安時代後期)の刻があり、経筒としては、日本で3番目に古い石像です。

仏像そのものが、経筒になっているのは、日本では一つだけです。

昭和五十五年二月二十九日、同時に発掘された、弥勒如来埋納碑、銅製香炉、三角状石製品とともに、国の重要文化財に指定されました。



特徴

石の大きさが制約されているためか、下半身の膝の部分が、全体から見ると、極端に小さくなつています。

頭部の、でこぼこしている肉髻(にくけい・こぶのようなもの)も小さくて、螺髪(らほつ・パンチパーマのような髪形のこと)は段あります。

白毫(びゃくごう・仏像の眉間(みけん)の間にある小さな丸いもの)はありません。

胸飾り等の装飾もありません。

衲衣(のうえ・身に付けているけさ)は、しっかりと両肩から全身を覆っています(通肩(つうけん)。

両手は肘(ひじ)を曲げて、両手の指を伸ばし、腹の前で掌を上に向けて、左手を下に右手を上に重ね合わせ、両手の親指を触れ合わせた形をしています(禅定印(ぜんじょういん)。

足は、右足を左ももに深くのせ、左足をその上から右のももにのせて、座っています(結跏趺坐・けっかふざ)。

像の底部は、縦15cm、横10cmあり、31cmの深さで、長方形に内刳り(うちぐり)されています。

これは腹内に如法経(にょほうきょう・法華経)を納めるためで、法華経を経筒に入れないで、仏像自体の腹の中に入れるための、容器として使用するためです。




台座

台座を見てみましょう。

九つの円があります。

私達が、死んで、極楽往生をする際には、生前の行いや能力、信心の深さによって、往生の仕方に差があり、ランク付けされます。

そして、阿弥陀如来が、臨終の人を迎えに来るときに、その人にふさわしい印(いん・手の組み方)をして、迎えに来ます。

どのようにランク付けをするかというと、まず、上品・中品・下品という、大きく三つにランク付けし、その各々に上生・中生・下生という、三つを組み合わせます。

結局、合計九種のランク付けがあることになります。

これを九品(くほん)といいます。

上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生(じょうぼんちゅうしょう)、上品下生(じょうぼんげしょう)、中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)、中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)、中品下生(ちゅうぼんげしょう)、下品上生(げぼんじょうしょう)、下品中生(げぼんちゅうしょう)、下品下生(げぼんげしょう)、の各印と、願主、結縁者(けちえんしゃ・関係者)が、刻まれています。


台座には、それぞれの円の中に、次のように刻まれています。

頂点から、時計回りに

 時計の針の十二時の所に
  
 下品上生

 時計の針の一時の所に 

   下品下生
  友任  高則
  助定  頼願
  助頼  時圀

 
時計の針の三時の所に

   上品下生 
  妙法一妙圓舜
  糸用
  楽圓久任
    行頼

 時計の針の五時の所に
   中品下生 
  藤原氏并所生
   大中臣氏葉野氏
  
 時計の針の六時の所に
   中品上生 
  授興
  平圓圀仁
   慶勝

 時計の針の七時の所に
   中品中生 
  太秦氏頼正
  糸生
  往生
 
 時計の針の九時の所に
   未行直氏
   上品中生
 若江氏

   
 時計の針の十一時の所に
   下品中生 
    文氏
   須井氏

 
 中央の円には
  
 上品上生

藤原氏 糸用
  勧進僧教因 并若江氏
            父母
     興禪父母



背面

背中には、次のように、刻まれています。

 (右肩下りより)
 「延久三年
(1071)月日」
 當時国司正六位佐伯良孝
   正六位大掾若江糸用
   願主天台僧教因
   佛師肥後講師慶因
      佛師頼圓

 (背面から腰にかけて)
       日本国壹岐嶋物部郷鉢形
       嶺
       奉納置如法妙法蓮華経奉
       篭腹内
       経者釋迦滅度二千年後始
       自延久二年十月
       一日十七日書墨十一月十
       三日供養佛者
弥勒如来 同二年十月十五日造華
       月 日 
       奉納釋尊中間五十六億七
       千万歳慈尊出世之初
       結縁衆共先奉開此佛経

  (左肩下りより)
     仏子授与子文氏僧平

 (左側面)

       教因者為其教主講説
       流布竜花樹之初會結縁
       衆共預皆成佛之位乃至
       自他三千恒沙度数之世界
       令法久住有縁无縁合識
       有情併爲施未來遠遠之
       利益奉納如右敬白

  (衲衣左胸部)
    若江氏  尼一妙 尼妙法授与
       子文氏

  (衲衣腹部中央)
    藤原氏
  
  (像胎内背面)
   慶因
         

銘文は、延久三年月日、当時国司正六位佐伯良孝に始まり、天台僧教因を願主として、仏師の肥後講師慶因が彫ったと、あります。

また、弥勒来世を祈願して、つくられたものです。


釘状の工具で彫られ、書体は藤原朝風で、力強い感じを受けます。



埋め戻す

橘三喜は、この仏像を掘り出した後、凶災があるとして、延宝九年(1681年)、国命により、再び埋め戻しています。

その、埋納碑は、砂岩製の板状のもので、51.7cm、横33.0cm、厚さ5.2cm、の大きさです。

表面には、次のように陰刻されています。
 

    延宝五年丁
        巳 三月廿八日也
  弥勒如來堀出事
    
今亦延宝九辛
        酉 十一月廿八日埋者也

つまり、延宝五年(1677年)三月に掘り出し、再度、延宝九年(1681年)十一月に埋め戻したということになります。



盗難

橘三喜(みつよし)は、弥勒如来像を二体発見しています。

しかし、
発見された二体とも、盗難にあい、後に一体は、奈良の骨董品屋で、2000万円で売りに出されていたものを、奈良博物館の関係者が偶然発見し、買い求めました。

今は、この一体は、奈良国立博物館にあります。

壱岐には、レプリカがあるだけです。



 壱岐古墳群

 

 掛木古墳



壱岐の掛木古墳を参照してください。




双六古墳


壱岐の双六古墳を参照してください。




 鬼の岩屋古墳


壱岐の鬼の岩屋古墳を参照してください。



 笹塚古墳

壱岐の笹塚古墳を参照してください。




 兵瀬古墳


壱岐の兵瀬古墳を参照してください。




 対馬塚古墳


壱岐の対馬塚古墳を参照してください。




 古墳出土品

双六古墳





壱岐の双六古墳を参照してください。




 笹塚古墳




壱岐の笹塚古墳を参照してください。




 国登録文化財

この建物は何に利用されていると思いますか。 

実は、昔、薬局だったところです。

明治45(1912)に朝鮮で財を成した中上家が金に糸目をつけないで贅沢な建築をし、その後中村家が買い取って薬局を営みました。


















基礎石は、すべて大理石です。


店舗兼住宅になっています。

建物の周りはレンガ造りになっています。

1説には火事になったときの延焼をくい止めるためだと聞きました。

1階は格子窓の付いた和風のデザインになっています。

2階はモルタル壁と銅板張りの開き戸になっていて洋風の印象を受けます。

レンガ造りのうだつ
(梁の上に立てて、棟木を受ける短い柱)もあり、個性的な景観をさらし出しています。

トイレの側壁や雨戸袋は屋久杉の巨大な1枚板を使用しています。












持ち送りも見事ですね。

つくりつけのタンスもあります。


奥庭には石灯籠や巨大な自然石の手水鉢もあります。
















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