壱岐のお宝仏像を訪ねて
はじめに |
壱岐は奈良平安時代に新羅や刀伊の入寇によりお寺や仏像が破壊されました。
更に、度重なる豪族の戦闘で神社やお寺が焼かれました。
お寺自らが火事を出して全焼するということもたびたびありました。
また、鎌倉時代には二度にわたり、元軍が来襲するという元寇も経験しました。
戦国時代には、有力武士が壱岐の支配をめぐって戦争に明け暮れました。
明治時代になってからも廃仏毀釈で大量の文化財が壊されました。
このようなことから、壱岐には古い時代の仏像は多くは残っていません。
ここでは、運良く破壊を免れた仏像を紹介します。
保存修理がなされていないものが多く、廃棄寸前状態の仏像も多くあります。
阿弥陀如来 |
皆様、ご存じのように阿弥陀如来は、死後、極楽浄土に行くために信仰するものです。
ただ、「南無阿弥陀仏」と、一心に唱えるだけで極楽浄土に行くことが出来る、と説いたのは平安時代の源信(恵心僧都)でした。
阿弥陀如来1 |
この阿弥陀如来は、平安時代・恵心僧都の作といわれています。
三尺像で、高さおよそ98.5cmあります。
檜材の木造、寄木造です。
縦半分に割って、内刳りし、矧いであります。
顔の表情は
衣文(えもん)の褶(ひだ)は
腹の前に 結び紐があり、他の藤原仏にはない特徴があります。
中国や朝鮮半島では結び紐は、通常あるので、中国・朝鮮半島の影響を受けて制作されていると考えられます。
右手は胸前にあげて、第1指、第2指を捻じ、左手は垂下していますので、いわゆる上品下生の来迎印を結んでいます。
阿弥陀如来2 |
江戸時代
檜材の木造、寄木造です。
大坂の仏師である宗慶が作りました。
この仏像の胎内にも仏像が納められています。
この胎内仏は、室町末期~江戸時代(16~17世紀)
胎内に「南無阿弥陀佛」「安阿弥門流 大坂本町五丁目 大佛師小西法橋宗慶 施主平戸道圓夫婦 寛文五稔己八月ノ一日」
と刻まれています。
阿弥陀如来3 |
室町時代末期(15~16世紀)に作られました。
木造、寄木造です。
阿弥陀三尊像
向かって左は勢至菩薩で合掌しています。
中央は阿弥陀如来で、両手首欠損していますが、来迎印と思われます。
向かって右は観音菩薩で、蓮台を持っています。
蓮台は死者の霊を乗せて極楽浄土に運ぶものです。
阿弥陀如来4 |
私が、個人的には一番好きな阿弥陀如来です。
すらりと伸びた全体のプロポーションには素晴らしいものがあります。
作られた年代や作者は不明です。
線香の煙や年月の経過で退色してはいますが、いつまで眺めても飽きがきません。
上品下生の来迎印を結んでいます。
薬師如来 |
この薬師如来は、平安時代後期に作られました。
像高80.2cm。
木造、寄木造りです。
左手に薬壷を持っています。
薬師如来は、眼病や耳の病気、病気一般の回復をを祈るものといわれています。
「め」や「耳」という字を、百字書いて祈るとか、年の数だけ書いて祈るとも言われています。
江戸時代、天明7年(1787)に大掛かりな補修が行われています。
大がかりな補修の際に、鉄釘を使用したために、再度傷みが激しくなっています。
体の一部に大きな穴が開いていて、周辺の人は、ネズミが中に入って巣を作っているとも、話されていました。
それにしても、文化財を維持していくのは難しいものだと、つくづく思います。
弥勒如来 |
弥勒菩薩は現在如来になることを目指して修行中の仏です。
そして、釈迦入滅後、56億七千万年後に、弥勒如来となって人々を救うといわれています。
弥勒如来1 |
この仏像は、橘三喜(みつよし)が、跡かたも残っていない天手長男神社のあった竹藪の中から、江戸時代に発掘しました。
滑石で造られています。
像高54.3cm、最大奥23.4cm、膝張29.0cm、 台座10.0cmです。
延久二年(1070年・平安時代後期)の刻があります。
二体掘り出しましたが、二体とも盗まれてしまい行方不明でした。
その後、一体は古物商に売りに出され、それを奈良国立博物館が2千万円で購入し、今は奈良国立博物館にあります。
本物そっくりのレプリカが一支国博物館にもあります。
もう一体はいまだ行方不明です。
仏像そのものが、経筒になっています。
仏像そのそものが経筒になっているものは日本ではこの仏像だけしかありません。
弥勒如来2 |
楠木材の一木造りです。
平安時代作に作られました。
しかし、何回押し流しても元のところへたどり着くので、みんな、連れて帰れとの御宣託と信じ、どうしたも
かと、話し合いました。
その結果、福元伝右エ門という人が、私財を投入して、末永くまつることにしました。
ごらんの通り、顔面の目鼻立ちや衣文線ははっきりと見ることはできません。
仏の表面も著しく朽損しています。
損傷していなければ超一級の国宝級のできばえといわれています。
頭部は、初めから螺髪はつくられていません。
後頭部に流した髪の彫りは荒く、平ノミで落としています。
光背は一枚板で作られ、仏体を包むように湾曲しています。
木製の一枚板の光背は、例が少なく、とても貴重なものといわれています。
弥勒菩薩 |
元々は、自徳庵という廃寺にありました。
その後、自徳庵が廃寺になったために、住吉神社に移しました。
しかし、明治時代の廃仏毀釈の折りに、壊されそうになりました。
心ある人が、見かねてここに移しました。
自徳庵は鎌倉時代にはあったので、その時代の前後に作られたものと思われます。
かなり、傷んでいて、足も、もぎ取られていて残っていません。
修理すれば、立派な弥勒菩薩になると思われます。
かなり、大きな仏像です。
釈迦如来 |
釈迦如来は言うまでもなく、仏教の創始者です。
もともとは、王の子どもとして生まれ、出家して、如来となり、人々を救うようになりました。
釈迦如来1 |
昔、 対馬から来た、海賊が、この釈迦如来の仏像とお寺の鐘を盗み取り、舟で運ぼうとしましたが、湾内か
ら出ることができず、海中に沈めてしまいました。
時は流れて、三十一年後に、釈迦像は、漁師の網にかかって引き揚げられました。
鐘は、まだ、海底にあり、見つかっていません。
高麗時代後半の制作です。
頭部には、小さくとがった螺髪(らほつ・髪の毛が巻き毛状なっているものをいいます)があります。
肉髻(にっけい)はゆるやかに盛り上がっています。
後背はありません。
台座は後補です。
衲衣(のうえ)は、両肩を被っています。これを、通肩(つうけん)といいます。
袈裟をつけています。
如来は一般に、衲衣だけを身につけるので、袈裟をつけているのはとても珍しい、と言われています。
腹部に下裙(かくん・したばかま)の上部をのぞかせて結跏趺坐をしています。
菩薩形坐像 |
銅造の高麗仏です。
壱岐国続風土記
寺の堂中に座していたが、高麗陣のとき、人盗んで船を漕ぎ出すに、船出やらず。
そのまま、海中に捨てたれば船行けり。
其の所はせさき(初瀬崎)なり。
その海辺の漁師海中に仏ありという。
蜑(あま)をしてかつかしむるに仏あり。
十一面観音なり。
唐土より渡る赤銅の仏という。
国からの渡来仏で、中国的色彩が感じられます。
今は、一支国博物館に寄託されています。
とても重く、一人では持ち上げられないほどです。
同じ菩薩像が、福岡県糸島郡の一貴山夷巍寺(いきさんいきじ)にあります。
左右の手が壱岐の菩薩形坐像と相称(そうしょう)になっています。
そのことから、同時同作で、当初は一具のうちの二躯(にたい)であったと考えられ、二躯が我が国へ同時にもたらされて、その後分離したと考えられています。
如来形坐像 |
写真の一番右端の木彫りの仏像をご覧ください。
檜材の一木造りです。
像高125.0cm
平安時代初期に作られました。
中央仏師の作
全身が破損していて、原形をやっと保っている状態です。
制作当時は全身に漆箔がほどこされていました。
当時の状態を保っていれば国指定の重要文化財だといわれています。
壱岐に残っている木像の坐像の中では最も大きいものです。
誕生釈迦仏立像 |
朝鮮・高麗時代初期に作られました。
御存じの通り、誕生時の釈尊をかたどった像です。
右手は、天を、左手は地を指し、「天上天下唯我独尊」と唱える相をあらわています。
台座は後補
本体部から足枘部まで蠟(ろう)型による一鋳
短裳(たんも)をつけています。
頭髪には、魚の卵のような小さな円文がついています。
このような文様を魚々子(ななこ)といいます。
胸部には肉の盛り上がりを陰刻しています。
手足は細く、両足を開いて立ちます。
上に上げた右手と垂下した左手の内側への湾曲度が他の仏像より強くなっています。
同様のものが壱岐の他のお寺にもあります。
両手先、両足先が欠損していますが、顔のつくりや短裳などは酷似しているので、この種の誕生仏がかなり量産されたことが分かります。
天部 |
向かって左側が不動明王、向かって右側が毘沙門天です。
ご覧のように、相当傷みが激しく、とても胸が痛みます。
本尊は、阿弥陀如来ですが、それと同時に、この仏像も同時に作られました。
室町時代初期から中期の作といわれています。
不動明王の足元には、朽ちた材木が散らばっています。
毘沙門天も手首から先は、欠損しています。
このまま、手をこまねいて、壊れるのを待つのみでしょうか?
表情はとても豊かで、迫力を感じます。