壱岐の梅屋トク



梅屋庄吉

梅谷庄吉は、1868年(明治元年)、長崎で、本田松五郎・ノイ夫妻の子として生まれました。

しかし、米屋や貿易商を営んでいる、遠い親戚の梅屋吉五郎・ノブ夫妻の養子となりました。

梅屋吉五郎夫妻には、子供がなかったからです。

梅屋庄吉は、将来、梅屋トクの夫になる人です。



















上海へ

庄吉は、14歳のとき、梅屋商店の持ち船である、鶴江丸にこっそり乗り込み、上海(しゃんはい)に、渡りました。

上海で、庄吉が見たものは、欧米人にひどい扱いを受け、貧しく、苦しい生活を送っている中国人でした。


ハワイへ

1886年(明治19年)、庄吉は、18歳のとき、ビニエスペンドル号に乗り、上海からフィリピンを経て、ハワイに行くことを計画します。

しかし、途中で、船火事に会い、運良く、船長と庄吉だけが生き残り、長崎に戻ることになりました。


米投機

長崎に戻った庄吉は、19歳のとき、朝鮮半島全体が大飢饉となったのを知り、そこに、梅屋商店の米を輸出し、大もうけをしました。

しかし、秋には、米が豊作となり、買い占めていたコメの値段が下がり、今度は、大損をします。



梅屋トク

1875年(明治8年)、梅屋トクは、壱岐市の勝本浦の士族、香椎岩五郎の次女として生まれました。

梅屋吉五郎夫妻は、養子にもらった庄吉が、熱心に家業をしないので、このままでは、梅屋家は、絶えてしまう、と、考え、できれば士族の娘を養女にもらい、ゆくゆくは、庄吉と結婚させようと考え、四方八方手を尽くして、養女になる人を探し始めました。

庄吉が、ビニエスペンドル号の遭難から奇跡的に生還して間もない頃、「壱岐に香椎という士族がいて、そこにしっかりした娘がいる」ということを聞き、養女にしたいと考えます。

香椎家は、鉄砲奉行も務めたほどの、古い家柄でした。

梅屋家の養子の申し出に、香椎岩五郎は、当初は、「平民の、しかも町人の家に娘はやれん。」とはねつけていましたが、梅屋家の根気強い交渉に、ついに折れ、1892年(明治25年)、トクが
、17歳のとき、梅屋家の養子になりました。

梅屋商店は、外国人との取引も多く、英語、フランス語、マレー語などに通じていることが必要でしたが、トクは、これらを、マスターし、吉五郎夫妻は、トクを、養女にしたことを、とても、喜んでいました。

この頃、庄吉は、鉱山開発で各地を飛び回っていて、ほとんど家には帰らず、トクが養女に迎えられたことも知りません。 







写真館開業

1893年(明治26年)、24歳のとき、米投機に失敗し、大損し、莫大な借金だけが、梅屋家に残ります。

このため、庄吉は、長崎にいることができず、中国福建省(ふっけんしょう)アモイ島を始めとして、東南アジアを転々と逃げ回ります。

この、逃避行の途中、シンガポールで、熊本県出身の、中村トメ子という女性と出会い、そこで2人は、生活を始めます。

トメ子は、いわゆる、「からゆきさん」で、上海で、イギリス人と暮らしている間に、イギリス人から写真についての技術を学んでいました。

トメ子は、写真の技術を庄吉に教え、2人は、先ず、シンガポールで、「梅屋照相館」という名前で、写真館を開業します。

しかし、上手くいかず、2人は、香港に移り、香港で、出張撮影を売り物にした、写真館を開業し、大成功をおさめます。

庄吉が、25歳のときです。

また、シンガポールにあった、梅屋照相館シンガポール店で、パテー社製の映写機と映画フィルム4巻の上映をして、映画の世界でも成功しました。


出会い

写真館の経営に、成功した庄吉は、タイにゴム園を作ることを計画します。

そのために、政治家 大井憲太郎と連絡をとるために東京と香港を行き来します。

その折りに、庄吉は、
2年ぶりに長崎に戻ります。

ルンルン気分で、自分の家に入ると、そこには、庄吉の知らない女性がいました。

「あんた誰ですか?なんで、この家に入ってきたとぅ?

「なんで、この家に入って来たとうだって?あんたこそ、だれだい?

「私は、この家の娘たい。」

「娘だって?そんなもんは、この家には、おるはずがなかばい。」

「おらんと言われても、ちゃんとここにおるたい。あんたこそ、いったい、どこの人ね?

「どこの人ねだって? おれは、この家の息子バイ。庄吉というとたい。」

 この女性は、逃げ去った庄吉に代わって、両親が梅屋家の存続のために、香椎家から養女に迎えトクでした。

このとき、養父吉五郎は、老いて病で臥せっていましたが、庄吉とトクを枕元に呼び、「家は、お前たちが継いでくれ。お前たちが結婚するのを見届けてあの世に行きたい」と、頼みます。

庄吉は、中村トメ子と、香港で暮らしていたので、トクと結婚するようにと言われて、とまどいましたが、米の投機に失敗し、大損をして両親に迷惑をかけたこともあって、この頼みを、断ることができず、二人は式を挙げました。

1894年(明治27年)、時に庄吉
27歳、トク20歳のときです。

養父吉五郎は、2人の結婚後、息を引き取ります。

結婚式の後、庄吉はすぐに香港に戻りますが、トクは、長崎に残り、9年後の明治36年に養母ノブが亡くなるまで、面倒をみるかたわら、梅屋商店を切り盛りします。














孫文

香港に戻った庄吉は、慈善パーティの席上で、英国人医師ジェームス・カントリー博士から孫文(29)を紹介されます。

その、数日後、孫文は庄吉を訪ね、二人が思いを語り合います。

庄吉は、アジア各地を、武力支配していた、西洋列強の国々に、義憤を感じ、孫文も、民族自立をめざし、西洋の武力支配を除こうとしていました。

人は、意気投合し、庄吉は、孫文の革命にかける情熱を知り、「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す。」といって、資金援助をすることを誓います。

香港で庄吉の帰りを待っていたトメ子は、そんな庄吉を見限り、別の男性と結婚しました。













新婚生活

1903年(明治36年)、トクは、養母ノブが他界した後、香港に移り、庄吉と、遅い新婚生活を始めます。

長崎で挙式して以来、9年後のことでした。

香港では、かげひなたになり、庄吉を支えました。

莫大な財産を築いた庄吉は、社会福祉事業にも手を出します。

トクは、庄吉が、賭場で、ばくちにふけっている大勢の犯罪者を、更生させ、面倒を見るために、自宅に連れてきたときも、文句ひとつ言うこともなく、更正するのを手伝いました。

このとき、トクは、娘に当てた手紙のなかで、「人の愛を知らない心のまがった人には、神のような心で接しないと、真人間にはなりません。自ら肌着の汚れまで洗ってあげて愛を示してあげる事が、人をよみがえらせることになるのですよ」。、と、書いています。

また、捨て子を家に連れ帰り、トクが面倒をみたり、庄吉の友人と愛人との間に生まれた子を、トクが育てたこともありました。






脱出

トクが、香港で庄吉と暮らし始めて1年後の1904年(明治37年)、香港の写真館が、反乱軍の拠点であると密告され、トクと一緒に、シンガポールへ脱出します。

シンガポールで、偶然、荷物に入っていた映写機と映画フィルム4巻で映画興行を行い、大当たりします。

庄吉36歳のときです。

帰国

1095年(明治38年)、シンガポールでの映画興行で、成功した庄吉は、長崎に帰り、「Mパテー商会」を設立し、映画興行を始めます。

庄吉は、映画興行界では新規参入者でしたが、半額クーポンなどの斬新なアイデアを次々と打ち出し、業績を伸ばします。


辛亥革命

1911年(明治44年)、武昌で辛亥革命が起こり、米国にいた孫文は、帰国します。

このとき、孫文は45歳でした。

庄吉は、このとき、撮影隊を派遣し、辛亥革命の映画を製作しています。

翌年1912年(大正元年)、
孫文は、アジアで最初の共和制をとりいれた、中華民国の建国を宣言し、臨時大総統に就任します。

しかし、清朝の旧勢力がまだ、激しい抵抗を繰り返したために、清朝の旧勢力を抑えるために、2か月余りで、袁世凱に大総統の座を譲ります。

孫文に代り、大統領になった、
袁世凱は、独裁政治を始めたので、孫文は、翌年1913年(大正2年)、袁世凱を討伐しようとしますが、失敗し、日本に亡命しました。











映画製作会社設立

翌年1912年(大正元年)、庄吉は、「日本活動写真株式会社 」を設立し、取締役に就任しました。

庄吉44歳のときです。

1912年(大正元年)、さらに、庄吉は、より大規模に映画製作をするために、現在の日活株式会社の前身である「日本活動写真株式会社」を設立し、取締役に就任します。

しかし、翌年1913年(大正2年)株式の暴落により、多額の損失をこうむり、責任を取る形で、日活の取締役を辞任します。

一方、1913年(大正2年)、日本に亡命してきた孫文に、住まいを提供して、経済的にも、精神的にも、孫文を支えます。



孫文の結婚

これは、余談ですが、孫文は何回も結婚と離婚を繰り返しています。

分かる範囲で、挙げてみます。

1885年(明治18年)、孫文19歳のとき、盧慕貞(ルー・ムージェン)18歳と結婚し、子供が3人いました。

1891年(明治24年)、孫文24歳のとき、陳粹芬(チェン・ツイフェン)18歳と出会い、結婚します。

1900年(明治33年)、日本に亡命していた孫文 34歳のとき、神戸で、浅田春(15歳)と出会います。

1902年(明治35年)、清朝政府打倒に失敗した孫文は、長崎に亡命します。

このとき、横浜市で、大月薫と出会い、その美しさに一目ぼれし、薫の父に結婚の許しをえようとします。

しかし、孫文は36歳、薫14歳であったために、きっぱりと断られます。

ところが、翌年、薫に直接求婚し、駆け落ち同様の形で、横浜市内で質素な結婚式を挙げました。

1906年(明治39年)、薫は長女を妊娠しますが、孫文は、長女が生まれる前に、中国に帰国してしまいます、

薫は、その後、2度再婚し、1970年(昭和45年)、82歳で他界します。

1915年(大正4年)、宋慶齢(ソン・チンリィン)と結婚します。

日本に、亡命した孫文は、東京で、孫文の秘書をしていた、宋慶齢と結婚しようとします。

このとき、周囲の者は、孫文が47歳、宋慶齡21歳で、年の差が親子並みの26歳もあること、前妻の盧慕貞との間に子女がいたことから、反対しました。

トクは、宋慶齢に、上海にいた、孫文の気持ちを伝えます。

このとき、妹で蒋介石夫人の宋美齢(びれい)も賛成もあり、孫文の離婚が成立した後に結婚します。

結婚披露宴は東京の梅屋家で行われ、その後もトクは、何かと二人の世話をし、生活を支えました。

孫文夫妻は、トクに最後まで感謝したといいます。

トクと宋慶齢との親密な関係は、宋慶齢が帰国してからも続きました。

宋慶齢は、上海からトクに手紙を書き、「もし私に自分のお金があれば、貴女のパートナーとして活動写真事業に参加したい。活動写真はすばらしい教育の手段ですから。」と、記しています。

 



胸像

中国政府は、梅屋夫妻の功績に感謝の意を込めて、長崎県に孫文・庄吉・トク3人の銅像を寄贈し、壱岐市には、トクの胸像を贈りました。

胸像の制作者は、王 洪志氏(南京市油画彫塑院 院長)です。

壱岐国博物館に置かれています。














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