八幡半島散策
八幡半島 |
八幡半島は、高さ20m、長さ1km以上も延々と続いている、荒々しい断崖絶壁です。
反面、なだらかなスロープ状の広い芝生の草原もあり、和やかさも持っています。
荒々しさと和やかさが混在している見晴らしの良い半島です。
ここから、前面にある玄界灘を眺めると、何ともいえない切なさがこみあげ、妙に胸騒ぎがしたことを覚えています。
雄大な自然を前にして、胸がしめつけられてキューンとするような鑑賞にひたれるのも、この場所ならではの話です。
夏になると、海女さんが素潜りで漁をしているのを見ることができます。
また、この付近の海底には、元寇の時に、おおしけに会い、沈没してしまったたくさんの元軍の船が沈んでいます。
清石浜 |
夏は、海水浴客でにぎわいます。
壱岐では屈指の海水浴場です。
冬になると、だれもいなくなりますが、それでも、時折り、サーファーの姿を見かけます。
また、セグロカモメやウミネコが乱舞する姿も圧巻です。
10月中旬頃から渡ってきて、翌年4月中旬頃まで越冬しています。
冬の海を、大事な人と、砂に足跡をつけながら、寄り添って歩くのも良いものですね〜。
真邊訓導(まなべくんどう)殉職碑 |
清石浜を背にした丘の上にあります。
大正6年の夏、海水浴に生徒を引率してきていた教師が、おぼれている生徒を助けるために、荒れる海に入り、力尽きて亡くなりました。
その冥福を祈ってこの碑が建てられています。
大韓民国人慰霊碑 |
終戦直後の昭和20年10月11日(10/14説もあります)、強制連行されていた韓国人を乗せた引揚げ船が、玄界灘で台風に遭遇し、芦辺港沖で仮停泊をしていて遭難しました。
広島で被爆した韓国人徴用工の帰国船で、夜間、船は風と波に耐え切れず、流され難破し、翌朝おびただしい死体が芦辺港に浮かんでいました。
死体のほとんどは清石浜に仮埋葬され、遭難者の遺骨は清石の丘や瀬戸の竜神崎に無縁仏として祭られていました。
昭和51年8月10日から12日まで遺骨収集発掘作業が行なわれ、83体の遺骨が確認されました。
昭和42年、砂が風に飛ばされて骨の一部がむき出しになったために、胸を痛めた私人が、犠牲となった約160名の韓国人の霊を慰めるため、私財を投入して慰霊碑を建立しました。
遭難事故は当時の警察の指令よって箱崎村警防団が上陸を拒否したためといわれていますが、真相は分かりません。
左京鼻 |
観音柱 |
屏風岩 |
この岩は、ご覧のように、幅広い形をしています。
屏風を倒したようなこの白い岩は、珪藻土層からできています。
この周辺に2、3枚横たわっています。
岩を良く観察すると、表面には黒いスジが走っているのが分かります。
周辺の岩石からは、木草の枝、葉、鯉、ふな、笹、虫、魚などいろいろの化石が発見されています。
次に出てくる「長者の墓」の章のはぎわらが竜宮に帰るときに、屏風をたたんで海浜に捨てていったのが岩になったともいわれています。
1986年(昭和61年)、松坂慶子と渡哲也主演の芥川賞作家高樹(たかぎ)のぶ子著」の「波光きらめく果て]のロケ地となった場所で、松坂慶子が撮影のために来島しました。
海岸に降りていくこともできるので、1日中何もしないでここに座って波の音に耳を傾け、行き交う船を眺めるのも良いものです。
長者の墓 |
長者原化石層 |
八幡半島の南端の岬にあります。
この海岸周辺には、玄武岩や火山の噴火で出て来た岩にはさまれた、白色や灰白色、黄褐色をおびた珪藻土層があります。
珪藻は沼、湖、海にいる肉眼では見えないとても小さな生物で、藻類の仲間です。
周りがガラス質の殻で被われていて、死んでもその殻が残り化石になります。
ダイナマイトを作るときニトログリセリンを吸収させるために混ぜたり、七輪を作ったり、断熱材にも使います。
珪藻土は、手で触れると、柔らかいまるでチョークのような感触で白い粉が手に付きます。
今から、約2500〜500万年前の地層といわれています。
ここから、キリギリス、バッタ、ハチ、ハエ、ヘビ類の昆虫化石、ハゼ、コイ、ウナギ類等の淡水魚、ハマナツメ、アコウ、ヤマモガシ等の亜熱帯性植物やハンノキ、ブナ、カエデ等の北日本の植物、シナサワグルミ、モクゲンジ等の大陸系植物といった幅広い変化に富んだ化石が出土しました。
特に、大正8年に発見された中国大陸系の淡水魚のコイ科の新種イキウス・ニッポニクスの化石は、約1500〜2000万年前のもので、かつて大陸と地続きで日本海が大きな淡水湖だったことが分かります。
化石は壱岐郷土館に展示してあります。
魚類化石は、その種類の豊富さにおいてもわが国随一であるといわれています。
特にトゲウナギの化石は世界でも初めてのものです。
は虫類の化石は、1種ですが、日本でも数少なく珍しいものです。
なお、長者原化石層は天然記念物で採掘・採集は禁止されています。
転石のみの採集にしてください。
八幡浦 |
古くから海女さんで有名な場所です。海女さんは現在約80人くらいです。
その昔、家舟で暮らし、日本の海を流れ渡った海人族の末裔たちといいます。
八幡浦の海女さんは伊勢から来たと伝えられ、漁の範囲は小崎の海士さんのように広くなく、八幡の周辺だけで漁をしました。
桶を浮かべ、ロープを体に結び付けて潜水し、アワビ、サザエ、ウニ、海藻類などをとります。
最近は、継者不足や高齢化などにより、海女さんの数は減少しています。
八幡浦漁港 |
八幡半島南西側の美しい自然に抱かれた漁港で、約280戸の家が並び、岸壁や防波堤に漁船が停泊しています。
沖合いには、いけすのいかだがいっぱい浮かんでいます。
主に、イカやブリなどの一本釣りや刺し網、はえ縄漁などを営んでいます。
魚介類は仲買業者の保冷車で関西や関東方面まで運ばれます。
寄八幡(よりいはちまん)神社 |
祭神は、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇です。
創建はおよそ640年前と言われています。
南北朝時代、後亀山天皇のとき、五島の赤島の人が疱瘡を嫌って流した八幡大神の御霊石が田部(たなべ)に漂着したときに、「我は、ここで疱瘡神になってみんなを護るので、御霊石を奉り、ここに社を建てて安鎮せよ」といわれたといいます。
この周辺の海は、潮の流れがとても速く、藻も流されて海岸に寄り付くことがないと言われています。
このような海岸に石が漂着したので、寄八幡という名前が付けられました。
この神様は蝮(まむし)が嫌いなために、この地には蝮はいないといわれています。
人々が、ここの砂を持ち帰って屋敷の周りにまくと蝮が逃げるといいます。
流れ着いた御霊石は、当初は、1個でしたが、元禄13年の地震で2つに折れたので、左右に分けて宝殿に納めています。
しかし、この御霊石は、宮司さんも見たことがないほど、恐れ多い物なのです。
鳥居は3つあって、3の鳥居は、平戸藩主の松浦鎮信(まつうらしげのぶ)が、寄贈したので「鎮信鳥居」と呼ばれています。
鳥居の後ろには、鳥居を支える「支え石」がついています。
拝殿と本殿の周辺には、大きな松の木がたくさんあります。
八幡浦の海女さんやその子孫が参詣しています。
この神社に西の方角から来た人が、初詣をするときには独特の習慣があります。
お参りをする時に、人に会っても絶対にあいさつを交わすことがありません。
参拝が終わって、振り返り、東の方を向いた時に、新年のあいさつを交わします。
皆さんが、お正月にこの神社に初詣をされると、このような光景に出会うかもしれません。
はらほげ地蔵 |