黒崎半島散策
黒崎半島は、沼津という集落にあります。
壱岐の西部にあり、1400人ほどの人々が生活しています。
黒崎半島の大部分は戦時中は、一般市民は軍隊の基地や砲台があったために立ち入り禁止区域になっていました。
医師さえも、自由に出入りできない場所でした。
戦後、開放されてその豊かな自然、環境が分かるようになりました。
ここでは、その黒崎半島をご案内しましょう。
不産女石(うまずめいし) |
ちょっと見にくいのですが、白い立て札の右側に石があるのが分かります。
これは、不産石(うまずめいし)と呼んでいます。
女性の方がこの石の上に座ると子どもが産まれなくなる、という言い伝えがあります。
子どものできない女の人のことを、馬爪と書きます。
牛のひずめは先が割れていますが馬のひずめは割れていないからこのような漢字をあてるそうです。
子どもを産みたくない人はこの石に腰かければ良いし、子どもを産みたい人は腰かけなければ良い、というとても便利で重宝な石です。
江戸時代の有名な本にも書かれているもので、昔からあったと思われます。
これに対して、男を受け付けない女を石ブタといいます。
右の写真は、壱岐で石ブタと呼ばれている巻貝です。
正式の名前はスガイといいます。
食べるととてもおいしいです。
魚釣りをするときの、餌にも使います。
黒崎釈迦堂 |
かつて、この場所には、金剛山(こんごうざん)海法寺というお寺がありました。
黒崎釈迦堂は畑に沿った小道の脇にあります。
ここには、有名な銅造の釈迦如来像が安置されています。
高麗時代(918〜1392)中期から後期の作といわれ、とても、ふっくらとした如来像です。
像の高さは67.5cmあります。
渡来金銅仏の中では優れた作品です。
頭部は、小さくとがった螺髪(らはつ・髪の毛が巻き毛状なっているものをいいます)です。
顔は丸く、額に百毫嵌入(びゃくごうかんにゅう)の穴があります。
目は細めで、唇は控えめに小さくなっています。
この、仏像には次のような伝説があります。
昔、対馬から来た海賊が釈迦と釣鐘を盗み、母ケ浦を出ようとしましたが船が動かず、逃げられなくなって、仏像と鐘を阿晋(あぼ)と黒崎の間の海に沈めて逃げました。
31年後、偶然にも漁師の網にかかってお釈迦さまだけが引き上げられました。
釣鐘はまだ海底にあるそうです。
島内には黒崎釈迦像と同じつくりの高麗仏が4つあります。
検問所 |
はるか前方の右側にコンクリートの柱が立っています。
これは、黒崎半島の入り口にある、黒崎半島に入る人を検閲する門の跡です。
黒崎半島には、2ヶ所このような場所があります。
一の門、二の門とそれぞれ呼ばれています。
2ヶ所で厳重なチェックを受けた後、やっと半島の中に入ることが出来たわけです。
門を入ったすぐには将校の住居跡が残っていて、今でも使われています。
砲台跡 |
明治維新以降、日本のみでなく、アメリカ、イギリスなど他の主要国も軍備増強につとめました。
そこで第一次世界大戦後の1922年(大正11年)、ワシントン軍縮会議で、米、英、日の主力艦の所有率を「5:5:3」とすることになりました。
日本では、その結果、戦艦土佐などの主力艦を廃棄することになりました。
しかし、軍艦を廃棄するのはしかたがないにしても、軍艦の主砲は保存したいと思った軍部は、軍艦の主砲を利用して、秘密要塞をつくることにしました。
壱岐では、ここ、黒崎半島に砲台を造ることになり、用地買収を進め、用地買収の後は、陸軍2個中隊の他は、だれも通ることができなくなりました。
昭和3年8月から造り始め5年間かかって昭和8年に完成しました。
山をくりぬいて造った地下7階建ての大きな砲台です。
設置された砲台は、戦艦「土佐」に搭載されていた主砲です。
このあとこの戦艦「土佐」は改造され航空母艦「赤城」となります。
さて、完成した砲台は、砲身の長さ18.83m、口径41cmの2連砲の砲台で1tの弾丸を35kmも飛ばすというとてつもない巨砲でした。
砲台の設置には地元の人達もかり出され、沼津小学校の児童達も毎日石拾いをしてコンクリートに混ぜたりして、砲台の奉仕作業をしたものでした。
180発の砲弾を準備していました。
2分間に一発発射でき、8発打って1発あたればよいという計算をしていました。
一発の大砲を射つために地下3階(14m)にわたって数100人が働いていました。
対馬海峡を航行する艦船を攻撃するための要塞砲として作られ、玄海灘をすべてその射程内においていたほどの巨大砲でした。
同じような砲台は、対馬にも造られ、壱岐と対馬の距離はおよそ68kmなので、玄界灘を通る軍艦は全部その射程距離に入っていたことになりなす。
砲台は、使用しないときには、地下に潜っていて、地上に出ているのは、射撃室だけでした。
実はこの砲台、試射のみで、実戦には使われませんでした。
射撃実験の時は、付近の民家のガラスが割れたり、遠くの柱時計が止まったと言われています。
昭和16年、太平洋戦争が始まりましたが、航空機が主流になったため、黒崎砲台は1発も実弾を発射することがなく「打たずの砲台」と陰口を言われながら終戦を迎えることになりました。
写真は砲台の地下トンネルです。
薄暗くて、中に入ると背中がゾクゾクします。
この、巨大な空間は、砲台の土台で、弾薬庫や砲台まで弾を送りこむ装置などがあった場所です。
蛍光灯がうす暗く照らされ、薄気味悪く、1人で行くのには勇気が必要です。
写真は砲台を真上から見たものです。
穴の直径は10mくらい。
周りのコンクリートに縦すじが入っているのが見えるでしょうか。
これは、アメリカ占領軍によってハッパをかけられた跡です。
結局、完全には破壊できず、八幡製鉄所の手によって処分され、鉄屑として製鉄所に引き取られました。
さて、東洋一の砲台を造った軍は、その砲台を隠すためにだんちくを植えました。
しかし、その後、だんちくが増えすぎて畑や田を荒らし、みんな困っています。
今は、壱岐のいたるところに、このだんちくの群落がはびこっています。
古代の壱岐 |
写真は、古代の壱岐の島を知る上でとても貴重な場所の写真です。
その昔、壱岐の島は大きく2つに分かれていました。
それが、地震によって、1つにくっつきました。
このくっついたことを表しているのがこの写真です。
それにしても、自然のダイナミックさには驚かされますね〜。
猿岩 |
唐人神展望所 |
この山の頂上には、旧陸軍の見張所がありました。
猿岩のある場所から道路を挟んだ反対側にあります。
昔、ここには唐人神がまつってありました。
唐人の水死体がこの近くの海岸に流れ着き、地元の人が、その下半身を唐人神山に葬りました。
しかし、この近くを通る人に始終まとわりつき、魂の風が体内に入って歩けなくするという、悪行ざんまいをするようになりました。
そこで祠を建てて神社としてまつり、その冥福を祈りました。
その霊は男女の下半身の病気にたいへん霊験があり、正月と七月の17日が縁日で、この日には全島から青年男女が参詣したといいます。
砲台が築造され、黒崎半島を要塞化し、砲台関連の観測所を作るときに、この唐人神も移され、登比川神社と比賣神社の境内に移してまつっています。
「わたしゃ黒崎唐人神よ、腰の御用ならいつも聞く」と歌われています。
このほか、唐人神は郷ノ浦高校下、石田、山崎、瀬戸、等にあります。
この山の頂上から見下ろす景色もワンダフルです。
ただ、展望台の周辺は、このように木々が生い茂っているので、360°のパノラマのようではありません。
太郎礫・二郎礫 |
観音岩 |
阿母ヶ滝 |
高さ50mの断崖絶壁が続く景勝地です。
観音岩、太郎・二郎礫もこの近くにあります。
ここに立って、下を見下ろすと足もすくみます。
でも、地元の人達は、この崖を降りて、下の海岸で釣りをしています。
大きな黒鯛などが良く釣れます。
写真に写っている大きな岩は、今にも崩れ落ちそうです。
信仰 |
ちょっと写真が小さくてはっきりしませんが、写真の岩のなかには耳の病気に良く効くという、耳神様をまつってあります。
毎日、お参りする人がいるらしく、お供え物が絶えることがありません。
また、地元の人が信仰するために、岩の窪みに観音様を安置しているものもあります。
とても、古い仏像で、詳しいことは分かりません。
奇岩・珍岩 |
ここでは、周辺の海岸で見られるいろいろな形をした岩をお見せします。
写真は私達が外人岩と呼んでいるものです。
えっ?外 人岩には見えない、ですって?
外人岩に見えない人は壱岐においでになって実物をご覧あれ。
写真は、鷹の口ばしを持っているので鷹岩と呼んでいます。
この岩石は、長年の風化で穴だらけになっているので、虫食い岩と呼んでいます。
水晶 |
この海岸では、たくさんの水晶がとれます。
ゆっくり、歩きながら水晶のかたまりを探すのも楽しいものです。
ときには、大きな水晶が見つかるときもあります。
きらきらと、太陽に反射する水晶はとてもきれいです。
水晶は、4月の誕生石です。
いかだ釣り |
海に向かって、突き出ている、いかだが見えます。
ここは、有料で釣りをする場所です。
壱岐は、周りを海岸で囲まれていますから、どこでも釣りはできます。
それだけに、この場所では、きっと、大物が釣れるかもしれません。
挑戦してみてください。
実は、この港の頂上には、東洋一の黒崎砲台跡があります。
その関係で、弾薬などの物資を荷揚げした場所でもあります。
黒崎半島散策の動画については、http://www.youtube.com/watch?v=d8pkOuYKUQA