勝本散策


これから、皆さんに勝本をご案内します。


勝本港

ここは勝本港。

西日本一のイカの水揚げがある港です。

ここは、壱岐の最北端の町です。

古くからの歴史の町でもあります。

写真を見てもお分かりのようにたくさんのイカ釣り船が並んでいます。

その数600隻とも言われています。

イカ釣り船は壱岐の周辺だけではなく、遠くは北陸までも出かけていきます。

大変な作業だな、とも思います。

その間は船の上で暮らすのですから。

休日ともなると、港の周辺でのんびりと釣をしている風景が良く見られます。

観光客の方も良く釣をしておられます。

皆さんも、壱岐での〜んびりと釣をされてはいかがでしょうか。

釣れるのは、小アジやメジナなどです。



ときどき、写真のような、エチゼンクラゲが出現します。

港の周辺は、自然の山に囲まれ天然の風除けになっています。












競り

勝本の朝はセリで始まります。

イカの町だけあってイカがずらりと並んでいますね。

何回見学しても、漁師の活気の良さには驚かれされます。

セリの時には、何と言っているのか良く分かりませんが、独特の言葉が大声でとびかい、あっという間に競り落とされていきます。

この市場に出荷されるのは、イカのほかに、クロダイ、イナダ、ヤズなどです。

これらは主に地元で消費されます。

近くには、「いけす」があって、大きな魚がゆうゆうと泳いでいます。

競り落とされるのを待っているのでしょうか。

イカなどは本土の方にもトラックで運ばれます。







マグロ



たまたま行ったときにマグロがあがっていました。

壱岐の周辺でも最近はマグロがあがるようになりました。

地元の関係者の方の話ですと、地球温暖化で壱岐の周辺の潮の流れが変化したためにマグロが釣れるようになったのではないか、ということです。

大きなものは200kgを超します。

壱岐では消費できないので、このような大型のマグロは、東京の築地や青森まで運んで競りにかけます。

競り値も、同じ大きさでも取れた時期により異なり、1000万円〜400万円と幅があるようです。

何回もこのように大きなマグロを釣り上げた漁師もいます。

当然、釣り上げるまでには10時間以上もかかります。

まさに、重労働です。

それにしても、解体してすぐに食べるマグロの心臓はとてもおいしい。

関係者だけしか手に入りません。

まさに、役得でしょうか。




長四郎(ちょうしろう)の墓

封建社会の犠牲者はどこにもいるものです。

「下に〜い〜。下に〜い〜。」という世の中に起こった悲しいお話です。

江戸時代、壱岐の島は平戸藩の領地でした。

ある時、平戸藩の家老の行列がここ勝本港を通っているときに、漁師の子供で7歳になる長四郎(ちょうしろう)が行列の前を横切ってしまいました。

このとき、年をとっていた武士は見て見ぬふりをしていました。

しかし、若い家来が長四郎が横切るのを見て、無礼うちにしようと、泣き叫んで逃げ回る長四郎を追いかけ、殺してしまいました。

地元の人たちは、長四郎をとてもふびんに思い、ここにお墓を建ててその冥福を祈りました。

その後、ここ勝本では子供の海難事故は一軒も起こっていないそうです。

今でも、地元の人がお参りする線香の跡が絶えません。






朝市

ここは江戸時代から開かれているという、勝本名物の朝市通りです。

朝市は、もともとは農家のおばさんたちが自分たちの作った野菜や果物、山の幸を漁師の人が取った魚や水産物と物々交換をするために集まった場所と言われています。

写真では、魚を売っている人、野菜などを売っている人がそれぞれ分かれて市を出しています。

朝市は朝7時〜11時頃まで毎日開かれています。














野菜を販売しているおばちゃん達は地元の商店の店先にどうどうと自分の野菜などを並べて売っています。

まさに、共存共栄の世界でしょうか。

人の店先の前に自分の店を出す。

なかなか私にはここまでは出来ません。

少し多めに買うと気持ちよく代金を値引きしてくれる、心の大きな人達ばかりです。









阿呆塀


さて、このばかでかい塀は何でしょう。

江戸時代、ここ勝本は鯨漁で活気のあるところでした。

壱岐の周辺には、年2回、鯨が回遊してきました。

この鯨をとろうと、遠くは和歌山県の太地からも鯨漁に来ていました。

鯨を捕る人たちを鯨組と呼んでいました。

勝本には、土肥組、永取組という大きな鯨組があって、それぞれの組で1000人近い人達を雇っていました。

この塀は、土肥組の当主、土肥市兵衛(どいいちべえ)が、鯨を捕る刃刺(はざし)等を接待するために建てた土肥屋敷を囲んでいた塀です。

建物の中には、京都、大阪から買い集めてきた遊女をたくさん囲っていて、刃刺等の接待をドンチャン騒ぎをして毎晩行っていました。

その接待の様子を外から見えないように建物の周りを塀で囲みました。

その塀の中の1つが今も残されています。高さ7m、長さ90mあります。

余りにも無用の長物のために人々はいつのまにか「阿呆塀(あほうべい)」と呼ぶようになりました。




酒蔵

壱岐は焼酎や酒の名産地です。

ここ勝本でも酒や焼酎が造られていました。

地元で造った酒で、イカを魚に一杯。

これはたまりませんな〜。

この酒蔵は原田酒造の酒蔵です。

今は、生産していません。

他の同業者と組合を作って、そちらの方で協同生産をしています。

銘柄は、皆さんおなじみの「壱岐っ娘(いきっこ)」です。

この酒蔵の中に入っていくと、天井の部分にいろいろなものが置いてありました。

酒を造るための道具が保管されているのでしょうか。

一本々の梁(はり)や柱もとても大きなものでした。

松の木で作られているそうです。





町並み

えんえんと続いている一本道の町並み。

そう、これが、勝本の町並みです。

勝本港の周辺には道は2本しかありません。

1本は勝本港に沿ってあります。

もう1本がこの写真の道です。

この道の両側に家がびっしりと建ち並んでいます。

向かって右側は後ろが山に接していて陸町(おかまち)と呼ばれています。

向かって左側は港に近い方の町で浜町(はままち)と呼んでいます。

家の中にも1本の大きな通路があって、非常事態が発生した場合には、陸町の人は浜町の人の家の中の通路を横切って港の方に逃げることができるようにつくらています。

お互いが困った時には助け合う、それが漁師町の良い所です。

この町並みには、江戸時代、明治時代、大正時代の家もまだ残っていて、町全体がとても落ち着いた静かな町です。

ゆっくりと散策するのも良いものです。




対馬屋敷跡

江戸時代に対馬藩の宗氏が建てた屋敷です。

対馬藩が、江戸との往復をするときの連絡機関や休憩場所として使われました。

朝鮮通信使の接待のときにも使用されました。

今では写真のように、石塀の一部だけが残っています。

高さは2mあります。

建てられた当初は、海岸まで23m、横50mの高い塀で囲んでありました。

およそ、1180u335)の広さがありました。

屋敷番として64人が常駐していました。

現在は、屋敷跡に9軒の民家が道路に沿って建っています。




これは、対馬藩の屋敷の庭園にあった手洗い鉢です。

他の場所に移されているのを、写したものです。















藤島家

江戸時代の面影がたくさん残っている家です。

木造2階建てで、広さは、50坪(165m2)。

片入母屋(かたいりもや)の切妻造りです。

梁(はり)が手斧(ちょうな)で削られていることから、江戸時代後期から明治時代初期に建てられたと推定されています。

もとは海鮮問屋で、海岸道路ができるまでは8隻の船が係留していました。

折りたたみ式の縁台もみえます。

この折りたたみ式の縁台のことを、ばんことかバッタリと呼んでいます。

住まなくなって20年以上、経っていて屋根瓦などは老朽化していますが、ケヤキの柱や梁は年月を感じさせないでしっかりしています。


ひさしをささえている物が見えます。

これは、「持送り(もちおくり)」と呼んでいます。

持送りには、彫刻がしてあって、一枚は鶴、もう一枚は鯉の滝登りになっています。

裏と表でデザインが異なっています。

この、持送りのデザインは、それぞれの家で、違っています。










旧つたや旅館

この建物は、もとは旅館でした。

今は、使用されていません。

3階建てになっています。

しかも、木造です。

木造の3階建ての家は、珍しいですね〜。












これは、建物の内部です。

思ったよりも、しっかりしています。

現在は、保存のための工事が行われています。














金比羅神社(こんぴらじんじゃ)

金比羅神社は、漁師町のどこにもある神社です。

航海の安全を祈ったり、大漁を祈ったり、船の神様として、漁業関係者には、厚く信仰されています。

金比羅宮の祭神は崇徳天皇(すとくてんのう)、大物主神(おおものぬしのかみ)、源 頼政(みなもとのよりまさ)です。














これは、奉納されている絵馬です。

数隻の舟が、魚を囲んで、網をしかけているのでしょうか。

新しい船が建造されると、船主は船頭や船員をともなって必ずこんぴらさんに参詣します。












勝本浦の、金比羅神社は、高台にあります。

ここからは、勝本港が見渡せます。

ただ、周囲は、金網で囲ってあるので、金網越しに、見ることになります。













井戸

これは、井戸です。

しかも、ポンプによる汲み上げ式になっています。

勝本浦では、いつも慢性的な水不足に悩んでいました。

そのため、勝本浦にとって、水はとても大事なものでした。

井戸は山側に多く、がけ下の岩盤を3mくらい掘ります。

今でも、あちこちに、ポンプが残っています。

しろうとの考えですが、海水は混じっていないのでしょうか。

ここから、海岸まで、20mもありません。






共同浴場

これは、共同浴場です。

もちろん、今は、使用されていません。

それにしても、ずいぶん、大きな建物です。

いずれは、解体される運命にあるのでしょう。











押役所跡(おさえやくしょあと)

難しい読み方ですね〜。

江戸時代末期になると、壱岐の周辺にもたくさんの外国船がやって来るようになりました。

そこで平戸藩は、海上の監視と外国船の監視のための施設を作りました。

それが、この押役所です。

ここに、武器や弾薬を運び込みました。

貯蔵米1000俵も保管されました。

現在は、役所の門だけが残っています。

江戸時代末期に、壱岐沖を通過した外国船は、毎年100隻を超えましたが、攻撃を受けることもなく明治時代を迎えました。






警察署跡

訪れたときは、改装保存工事をしていました。

















しょうゆ工場

地元で、ただ一軒のしょうゆ工場です。

特に、地元でとれた魚のさしみを、ここのしょうゆ工場でつくられた「さしみしょうゆ」を、つけて食べると、食も進みます。

江戸時代末期から創業しています。

創業70年くらいです。

刺身しょうゆ、薄口しょうゆ、濃い口しょうゆをつくっています。











これは、荒神様です。

商売繁盛、家内安全の神様です。
















御柱(おんばしら)

後述の曽良の章を参照してください。




















朝鮮通信使迎接所跡

壱岐の朝鮮通信使」を参照。




能満寺(のうまんじ)

この長い石段の上には能満寺(のうまんじ)というお寺があります。

上に見えているのは山門です。

このお寺、勝本港の漁師の人達が檀家になっているお寺です。

真言宗。

とても由緒のある寺で、最初の建立は安土桃山時代ですが、江戸時代に鯨組の土肥市兵衛(どいいちべえ)がお寺の本堂を建立しました。

隣の写真の鐘にも土肥市兵衛の名前が刻んであります。

この鐘は、戦争中にも使われていました。


太平洋戦争中は鐘をついて空襲を知らせたものでした。


境内には、天然記念物の幹に穴が開いた梅の老木が厳しい風雨に耐えながら立っていました。

ここからは、勝本港が一望でき素晴らしい景色を見ることができます。




洋風建築


この建物は何に利用されていると思いますか。

実は、昔、薬局だったところです。

明治45(1912)に朝鮮で財を成した中上家が金に糸目をつけないで贅沢な建築をし、その後中村家が買い取って薬局を営みました。

基礎石はすべて大理石です。

店舗兼住宅になっています。

建物の周りはレンガ造りになっています。

1説には火事になったときの延焼をくい止めるためだと聞きました。

1階は格子窓の付いた和風のデザインになっています。

2階はモルタル壁と銅板張りの開き戸になっていて洋風の印象を受けます。

レンガ造りのうだつ
(梁の上に立てて、棟木を受ける短い柱)もあり、個性的な景観をさらし出しています。

トイレの側壁や雨戸袋は屋久杉の巨大な1枚板を使用しています。




持ち送りも見事ですね。

つくりつけのタンスもあります。


奥庭には石灯籠や巨大な自然石の手水鉢もあります。














解体場

この周辺は鯨の解体場があった場所です。

左側に当時の石垣の一部が残っています。

石はこの近くの海岸から運んできたものです。


















沖で捕獲した鯨はここまで引っ張ってきて、ウインチのような道具を使って皮をはいで用途別に分解されました。

鯨の白身は、主に油を取るために加工されました。

油は、灯(あか)りに利用されました。

2時間ほど、白身を釜で煮ると、やっと、油が浮いてくるので、その油を、すくって、釜のすぐ横にある樋(とい)に流し、その樋を伝わって、油が、大きな桶に入るようになっていました。

油をとった後の、白身は、食用にしました。

また赤身の肉は塩漬けにして食用にしました。

「一度乗りたや千石船に、船は勝本土肥の船」とうたわれた鯨組の土肥家をはじめとする捕鯨集団の基地が置かれたところです。

現在、海岸は埋め立てられて、当時の面影はほとんどありませんが、海岸近くの民家に残る石垣が、当時の納屋場跡の石積みの岸壁です。

石垣の向こうは勝本漁港です。





曽良

皆さん、松尾芭蕉という名前は良くご存知のことと思います。

そう、「奥の細道」や「鹿島紀行」を表した江戸時代の有名な俳諧師ですね。

実は、松尾芭蕉が旅をしているときに、陰になり日なたになりぴったり寄り添って秘書係をしていたのが河合曽良でした。

曽良は、1649年(慶応2年)信州、上諏訪で生まれました。

33歳のころ、神主の資格をとるために浪人をして江戸に出てきました。

そのため、幕府の神道方となった吉川惟足
(きっかわこれたり)のところに入門しました。

彼がここで学んだのは神道だけではなく、延喜式、古事記、日本書紀、万葉集などで国学の知識を身につけ、さらに、和歌、歴史、地理学も学びました。

この時代の学問が「おくの細道」の旅や巡見使になったときに知識が遺憾なく発揮されました。




別れ

曽良は、芭蕉と「奥の細道」の旅の途中で持病の腹痛が悪化して、これ以上芭蕉に迷惑をかけたくないと思い、石川県の山中温泉で別れることになりました。

このとき、曽良が詠んだ歌に「行き行きて倒れ伏すとも萩の」があります。

左の写真の石碑にその歌が刻んであります。

この石碑は、曽良の没後280周忌を記念して勝本にある城山公園に建てられたものです。













姉妹都市

右上の写真の、右側にある高い柱は、諏訪大社の御柱祭りで使用された御柱です。

曽良は壱岐の勝本で亡くなりました。

その縁で、壱岐市と諏訪市が姉妹都市になり、御柱をもらったということです。

長さ約10m、
直径5080cm、重量は2トンを超える大きさです。

一回目は平成10年(1998年)7月5日に建立し、平成16年7月3日に取り替えました。



巡見使

曽良は芭蕉と死別した後、しばらくたってから、家宣が将軍職に就いたとき、巡見使に任命されました。

巡見使は、将軍の代替わりごとに実施され、諸大名の政治の様子、産業、信仰などを調べて実態をつかむ一方で、幕府の威信を末端まで浸透させる狙いがありました。

左の写真は曽良が巡見使に選ばれて、待望の筑紫に行けるという喜びを詠んだ石碑です。

「春にわれ乞食やめても筑紫かな」とあります。


しかし、元の歌は「ことしわれ乞食やめても筑紫かな」となっています。

なぜ、歌の内容が異なっているのか私には分かりません。










1710年6月18日、曽良は持病の腹痛が悪化して、勝本の海産物問屋であると同時に網本であった中藤家で亡くなりました。

旧暦では5月22日となっています。

62歳でした。

















印鑰神社(いんにゃくじんじゃ)

祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇です。

平安時代、今で言えば、市役所にあたる場所がこの近くにありました。

ここでは、朝廷から渡された公印と倉庫の鍵を管理して政治をしていました。

印とは官印、国印、鑰は官庁の倉庫の鍵のことです。

印鑰神社は、壱岐国、壱岐群の公印と、郡官庁の倉庫の鍵をおさめ、
神様としてまつったのが、印鑰神社です。

印鑑と倉庫の鍵は地方をおさめるのに最も重要なものと考えられていました。

印鑰神社があるということは、この近くに、律令時代の官庁の建物か、付属施設があったことになります。

壱岐では、平安時代に太宰府からたくさんの武器やよろい、かぶとなどの武具を送ってきたので、兵庫(へいこ・国衙の武器を納める武器倉庫)がありました。

兵庫のそばには防人司もあり防人たちの駐屯地にもなっていました。

後の時代になると他の神様もまつるようになりました。

近くに猿田彦の石造があります。




木箱の消火栓

勝本浦は、住宅が密集しています。

そのため、一番、怖いのは火事です。

勝本浦には、このような、木箱の消火栓がたくさんあります。












御仮堂(おかりどう)

この鳥居の向こう側に、聖母宮があります。




















毎年、お祭りのときに、聖母宮から出た、おみこしが、この鳥居を、くぐって、御仮堂と呼ばれている、お堂に据えられます。


















おみこしを据えるときには、写真のように、神事が行われます。

神主がお祓いし、浦の役員が出席します。










聖母宮(しょうもうぐう)

壱岐の神社参照




鯨の供養塔

江戸時代、壱岐の周辺の海では、鯨がたくさんとれました。

遠くは、紀州和歌山からも捕鯨のために、壱岐だけではなく、壱岐の周辺の島にも捕鯨基地を作りました。

壱岐出身の鯨組としては、土肥、篠崎、布屋、許斐、原田等がいますが、勝本浦にある、この供養塔は、原田(後の永取氏)組のものです。

原田組は、最盛期には、五島、大村まで出かけて鯨をとっていました。

原田組は、後に、鯨の税金をたくさん納めたことで、平戸藩主から、末永く鯨がとれるようにと、いう願いを込めて、永取(ながとり)という姓をもらいました。

しかし、鯨がとれなくなったことと、当主が病気で亡くなったことから、江戸時代末期に解散しました。

壱岐の捕鯨について詳しいことは、江戸時代 壱岐の鯨捕り参照。