筒城浜周辺の散策


筒城浜

筒城浜は、辰の島と並んで壱岐の景色名勝地の一つです。

どこまでも続く、美しいコバルトブルーの、遠浅で波静かな白砂青松海岸です。

600mあります。

辰の島とともに、「日本の海水浴場100選」にも選定されました。

また、
日本の白砂青松百選」、「日本の渚百選」にも選ばれるほどの日本でも有数のきれいな海岸です。

この、白い砂浜は、
全て貝殻で出来ています。

当時、皇太子妃だった美智子様がここで私も泳ぎたいと言われたほどです。

夏の海水浴シーズンには、
くらげ除けネットも設置されます。

また、くらげ除けネットの中には、魚を泳がせ、魚と一緒に泳ぐこともできます。

そのため、浮き輪と水中メガネは必需品です。

オフシーズン、誰もいない砂浜に自分だけの足跡をつけてさくさく砂の上を歩くのは何とも心地よいものです。

夏には、ここで大大神楽が上演されます。




錦浜

とても水がきれいな海岸です。

周辺は散策するにもとても良いところです。


昔、神宮皇后が三韓出兵のときに、玄界灘の逆風に会い船をこの浜に上陸しました。

このとき錦の衣がぬれていたために、この浜で錦の衣を干したという事からこの名が伝わっています。

またここに打ち寄せる色とりどりの貝殻屑を錦貝と呼ぶようになりました。

水上スキーなどのマリンスポーツやブルーツーリズムが盛んなところでもあります。







大浜

300mほどの砂浜です。

夏だけではなく、冬でもサーフィンやウインドサーフィンをしている人もいます。

ジェットスキーやヨットクルージングなどマリンスポーツの舞台として人気があります。

遠浅の海で大きな波が立ちやすいのでサーファーに人気があります。














唐瀬浜

唐瀬浜は大浜の隣にある海岸です。

他の海岸と異なり、やや男性的な海岸です。

この海岸には、写真のように、よく「あらめ」などの海草が打ち上げられます。

子供の頃は、これを拾い、乾かして、ふりかけにして食べたものでした。

古文書によると、「この海岸には、カラフルで、いろいろの種類の奇貝が多く、たくさんの人々がやって来て、拾っていた」、とあります。









唐船城(とうせんじょう)

唐瀬浜の右奥にこんもりと盛り上がった小さな半島があります。

この半島を矢台崎といい、ここに唐船城という城がありました。

なんとなく、船の形をしているので、唐船城と呼ばれています。

頂上は平地で、以前はさつま芋や麦が栽培されていました。

半島の左右の崖の上には、石塁があり、石を小積みにした石堀もあります。

敵が攻めてくるのを見張り、戦いに備えるための詰城(つめしろ)でした。

先端には、屋台瀬(やだいせ)があります。












ヘビの穴・舵穴

唐船城のある矢台崎の右側の崖に、穴の開いた場所があります。

唐船の「舵穴(かじあな)」とか、「へびの穴」と呼ばれています。

江戸時代に書かれた古文書によると、「むかし唐船くつがえりその屋形、化してこの城となる。舵穴はすなわち唐船の舵を差すところなり。あるいは言う。石火箭(いしびや)にて打ち返しあとなりと。また唐人をこの地に葬ると。これら唐船の城の名いぶかし」、とあります。

古文書によりますと、当時の穴の大きさは、東西約70cm、南北約66cm、深さ約3mありました。

当時の穴は、波や風により落下し、崩れてしまって、地上5mばかりのところに、その一部が残っています。


次のようなお話もあります。

昔、湯の崎という場所に、小坪というところがあり、お湯が沸き出していました。

そこに一人の娘が湯につかり、そっと腰巻きを洗っていたら、突如、大蛇が現れて、娘を丸飲みしてしまいました。

その後、大蛇は、海原を泳いでこの蛇の穴に入って行きました。

とても怖いお話です。

湯の崎については、後述。






大久保遺跡

昭和60年夏、海水浴に来た人が、偶然発見しました。

この斜面に石棺が露出し、中を覗き込んでみると、ほぼ完全な形の人骨がありました。

石棺の大きさは、中心地での長さ約1.2m、幅は北側が約0.5m、南側が約0.35mの小型のものです。

玄武岩で造られています。

弥生時代終末から古墳時代初頭のものです。

人骨は20代後半から30代前半の男性で、身長158cm、副葬品は点もありませんでした。


人骨は長崎大学に保存され、石棺は元のように埋め戻され、海岸側には波浪を防ぐために石を積み上げました。







この石棺が発見された場所には、まだ未発掘の石棺がたくさんあります。

少しづつ、発掘調査をしたいものです。

















白沙八幡神社

壱岐の神社七社白沙八幡神社を参照してください。











山根弥勒堂

壱岐の人々の生活の章の壱岐の山根弥勒堂を参照してください。


















幸の神(さやのかみ)

筒城浜の東端、七湊(ななみなと)という場所にあります。

江戸時代には、ここに7つの瀬があった事から、七湊と呼ばれていました。

幸の神は、下半身の病気(性病)にかかった人が、男根の木形を奉納して、お詣りをするところです。

今も、昔も下半身の病気は怖いものです。

天国から地獄、というのはこのことでしょうか。

明治の頃は、この場所は、鰆(さわら)がたくさん獲れ、壱岐だけではなく、遠く山口県辺りからも獲りに来ていて、とても賑わっていました。

このような事から、下半身の病気も流行っていたのでしょうか。




小松浜

詳しくは、江戸時代、壱岐のある恋の物語を参照してください。






















湯の崎

とても静かな海岸です。

昔は、海中からお湯が湧き出ていました。

八幡浦の海女の話では、今でも、潜ると、海底に温かい所がある、といいます。

江戸時代に書かれた古文書には、「むかし湯泉あり。ゆえに名とせり。されども今は、土地変じて海中より出づ」、とあります。

このような入り江は、「火山港」と呼ばれ、石田町には他に2ヶ所あります。

「火山港」とは、海底火山の噴火によってできた入り江をいいます。





湯の崎遺跡

湯の崎には、むき出しの石棺があります。

江戸時代には、4基ありましたが、その全部が今は、崩されています。

他の建築現場に、持って行って、利用したものと思われます。












虫食い石

壱岐の海岸には、このような虫食い石がたくさんあります。

ここにある虫食い石は、とても大きく、自然の厳しさを感じさせてくれます。

波の浸食や、風雨により、長い年月をかけて、このような芸術品が出来上がりました。








筒城崎

湯の崎の向かい側にある海岸です。

古文書には、「この崎七里沖に出ていたが、地震のために崩れて海となる。今、玄海灘の潮干に、海底に浅く見えるところ、これなり」、とあります。