壱岐のちょっと変わったおもしろい信仰
壱岐の人たちは特定の宗教を信仰している人はごくわずかです。
普通は、神社の氏子(うじこ)であると同時に、お寺の檀家でもあります。
したがって、壱岐の人たちは、仏教を信仰すると同時に神様を信仰している人たちでもあります。
もちろん、神道だけを信仰している人たちもいます。
ここでは、壱岐の人たちがどのようなものを信仰しているのかを見ていきます。
唐人神(とうじんがみ) |
昔から、壱岐では、中国人や朝鮮人のことを唐人と呼んでいました。
唐人神とは、この唐人を神として祀(まつ)ったことに由来しています。
中世の頃、この地に唐人の下半身が流れ着いたのを、地元の漁師が拾い上げて丁寧に、成仏するようにと祀りました。
この当時は、異国から来たものはすべて「神」と考えられていたので、唐人の下半身も、たたりがないように、神として扱ったものと考えれます。
この唐人神は印通寺(いんどうじ)という所にあります。
周辺は、壱岐と唐津を結ぶフェリーの発着所になっています。
司馬遼太郎氏が本で紹介してから有名になった場所です。
右の写真は、この唐人神の内部です。鳥居をくぐるとすぐにあります。
ご覧のように唐人の男のシンボルと、右側に赤い布を巻きつけてあるものがあります。
左側にある赤い布を巻きつけてある物は、女性に関係するものが、布の下に隠れています。
その布をまくしあげると・・・・。
これ以上書くと検閲にひっかかりそうです。
壱岐に来られてご覧になってください。
この唐人神は、性の病気、夫婦和合、安産、良縁の神様といわれています。
「わたしゃ唐人崎の唐人神よ。」腰の御用ならいつでも聞く」という言い伝えが今でも残っています。
それにしても、下半身だけを見て、唐人の人のものだと良く判断できたものだと思いませんか。
実は、男性のシンボルをかたちどった場所が、壱岐にはもう1ヶ所あります。
左の写真がそれです。
このシンボルは、木で彫刻されていて、小高い丘の上にあります。
地元の人が、毎日、お参りしているらしく、いつも、お供え物がしてあります。
若松6人地蔵 |
ここにはたくさんのお地蔵さんが祀ってあります。
ここを訪ねた日は、風がゴウゴウと強くて、周りが薄暗く、とても気味の悪い日でした。
お地蔵さんは、右の写真のような,うっそうとした、周囲に民家のない森の中にあります。
この場所は「若松(わかまつ)6人地蔵」と呼ばれていますが、100体ほどのお地蔵さんが祀(まつ)ってあります。
もともと、6地蔵というのは、室町時代に、足利尊氏が信仰してそれが全国に広まったとされています。
この場所は、5、60年前までは、茶店もあってにぎわっていました。
明治、大正から太平洋戦争時代には、島内の地蔵さん信仰の中心的場所で、昼夜を問わず、たくさんの人でいっぱいでした。
戦時中は、出征兵士(しゅっせいへいし)の無事を祈って、夜中にお参りしていたともいいます。
お地蔵さんの体には赤い毛糸や布でできた頭巾(ずきん)や腹がけをしてあります。
それにしても、これらのお地蔵さんの顔の表情が、他の場所にあるお地蔵さんと違って、のどかな感じがしないのは私だけでしょうか。
なんとなく、沈んだ表情に見えます。
当初は、6地蔵でしたがその後だんだん増えて、今のような数になりました。
壱岐は牛の産地でもあることから、牛の石像もたくさん置かれています。
また、お地蔵さんのなかには、キリスト教に関係しているようなものもあります。
なにしろ、100体ほどありますから千差万別(せんさばんべつ)です。
由来 |
なぜ、この場所に6地蔵さんが造られたかはっきりしたことは分かりません。
昔、米を計る枡(ます)を不正にして年貢米をごまかして死刑になった役人を祀ったものであるとか、豪族が争ったときに、最後まで戦って死んだ人を祀ったものだとか、正義のためにことを起こし、壱岐に流され首を切られた人を祀ったものであるとか、いろいろ言われています。
また、当初は、お堂があって、お地蔵さんもその中に祀っていましたが、お地蔵さんが家を嫌いなために、自分で焼いて外に出たとも言います。
井戸 |
これは、井戸です。
今でも、使用されているらしく、中には、水がたまっていました。
はらほげ地蔵 |
歯うずき神 |
壱岐では、歯が痛くなることを「歯がうずく」といいます。
この石の塚は地元の人たちが歯が痛くて痛くてしょうがないときに、「痛いの痛いの飛んでけ〜。」という切実な願いを込めてお参りしていたものです。
歯が痛いのだけは、とてもがまんできませんね〜。
この気持ちは良く分かります。
今でも、お参りする人があるらしく、石塚の根っこのところにお賽銭(さいせん)が置いてあります。
実は、この石塚については、1つのお話があります。
今から、300年ばかり前に、唐津からお寺の小僧(こぞう)さんがやって来ました。
このお小僧さんは、大変親切で、子供好きな良い人でした。
しかし、病気のために若くして亡くなってしまいました。
亡くなるまぎわに、「唐津の方が見える場所に葬ってください。」という遺言がありました。
地元の人たちは、とてもかわいそうに思って、唐津が良く見える場所に葬り、墓を作りました。
ここにある写真の石塚がその墓だといわれています。
ゆらぎ地蔵 |
大きな石の上にお地蔵さんがバランス良く乗っかっています。
地元の人たちは、このお地蔵さんを「ゆるぎ地蔵」とか「ゆらぎ地蔵」と呼んでいます。
実はこのお地蔵さん、指先で軽く触れると、グラグラと動きます。
そこからゆらぎ地蔵と言うようになりました。
昔、この周辺の村で、ひどく病人が出るのでみんなどうしてかと不思議に思っていました。
しばらくしてから、田んぼの中にお地蔵様が落ち込んでいたからだ、ということが分かり、そのお地蔵さんを掘り出して祀ったのがはじまりです。
特に、歯痛、目の病気に良く効くといいます。
皆さんがお祈りして、もしそのお願いをお地蔵さんが聞き入れてくれたら、お地蔵さんが左右にグラグラと動くのが見えるそうです。
実際に動いて見えたという人もたくさんいるという話です。
私は確認していないから分かりませんし、私がお祈りをしたときには動きませんでした。
普段の信心が足りないのかも、と反省しております。
右の写真は、お地蔵さんのすぐそばにある札所です。
お堂の中にも、ちゃんと参拝するところがあります。
さね切り地蔵 |
江戸時代のお話です。
この周辺の田んぼで、若い娘さんとその母親が一緒に草刈りをしていました。
と、そのとき、若い娘さんの大切な、女の部分が、初めは、かゆみがある程度でしたが、だんだん、痛くなり、我慢できなくなったので、何が起こったのだろうと思い、自分の大切な部分を見てみました。
そうすると、なんと、大きなヒルがくっつき、血を一生懸命に吸っているではありませんか。
相当、たくさん吸ったとみえて、ヒルのお腹の中が、血の色でまっ赤になっているほどでした。
娘さんは、とても驚いて、母親に助けを求めました。
母親も、びっくりして、なんとかして、ヒルを離そうとしましたが、ヒルはしっかり食いついて、離れません。
しかたがないので、草を刈る鎌を持ってきて、そのヒルを切ることにしました。
ところが、何回か、切っているうちに、誤って、鎌で娘さんの大事な女陰(さね)の部分を切り落としてしまいました。
数日間、娘さんは、悩んでおりましたが、これでは、生きる意味や喜びがないと思い、自殺して亡くなってしまいました。
村の人たちは、たいそう悲しみ、この場所にお地蔵さんを建てて、その冥福を祈りました。
写真に向かって、一番右側の楕円の形をしている石がさねきり地蔵です。
今と、違って、当時は、下着をつけるという習慣がなかったので、こんなに簡単に、ヒルが襲ってきたのでしょうか。
うっかり、農作業も夢中になってできませんな〜。
いずれにしても、怖〜い、お話です。
田中触(たなかふれ)の薬師如来像 |
お堂全体は、何のへんてつも無い普通のつくりですが、一歩、中に入って、如来様のお姿を見ると、その荘厳さに圧倒されます。
木彫りで、玉眼(ぎょくがん)、寄木造りです。
薬師如来なので、右手に掌(たなごころ)、左手に薬壷を持っています。
中央仏師の恵心僧都の作といいますが詳細は不明です。
定朝(じょうちょう)様式で平安時代後期(1057〜1192)のものです。
定朝様式というのは、平安時代の代表的な仏師の定朝がつくった、王朝貴族の好みにかなった豊麗な日本式の仏像をいいます。
定朝がつくった和風の仏像は定朝様式として、長く日本の仏像の典型となりました。
江戸時代(天明7年、1787)に大がかりな修理が行われ、柳田村の山口磯右衛門が私財を投入して平戸の仏師檜垣茂衛を呼んで修復させました。
本尊はもとは薬師堂の背後にあった全焼した薬城寺(やくじょうじ)の持仏でしたが、薬師如来は偶然にも草間に転がり出ていて無事だったといいいます。
天明の時代から200年を経た今、さすがに金箔は剥落し、全体に傷みがひどくなっています。
鉄釘を使用して修理したので、長い期間の保存は無理なようで、今では相当いたんでいます。
現在壱岐には、平安期の仏像は3体しかなくそのうちの1体です。
眼病、耳の病気に効き目があります。
「め」「耳」の字を百字書いて上げるとか、年の数だけ書いてお参りすれば効果があります。
穴のある小石も吊るして上げます。
近くにある檀家で清掃をしたり供養をしたりしています。
各地から参りに来ますが、高齢化のために、檀家の数も減っています。
山根(やまね)弥勒堂 |
このお堂は、白砂八幡神社の裏手にあります。
江戸時代までは、白沙八幡神社に置かれていました。
明治初年の廃仏毀釈の折りに、白沙八幡宮から移され処分され、海に投棄されました。
しかし、何回押し流しても元のところへたどり着くので、みんな、連れて帰れとの御宣託と信じ、どうしたものかと、話し合いました。
その結果、福元伝右エ門がこの弥勒菩薩像をまつるために、水田6畝を保管費として差し出し、弥勒堂を建てて、末永くまつることにしました。
この仏像は一部が損傷していなければ国宝級のできばえといわれています。
木造弥勒如来坐像です。
左右に2対ありますが、左の仏像の方が手がつけられておらず、その価値が評価されているものです。
総高95.5cm。
右の方の仏像は、素人が完全に彫りなおしたようで、像の形を失い、お顔の姿がはっきりしません。
左の写真は上の2対の写真の左側の仏像です。
くすの木でつくってあります。
一木造りで、両手先まで体部と同一材から彫り出しています。
右手の親指と小指がありません。
表面のいたみが激しく、目鼻だちや衣文線は、はっきりとは分かりません。
背中には、くすの木の一枚板の後背があります。
厚さは平均1.5cmほどで、今は彩色の跡も見えない木肌のままです。
仏体を包むように湾曲しています。
背中に、後背がある仏像は少なく、貴重なものです。
いたみが激しく、あと、どのくらい持つのか心配です。
カンカン石 |
右端と2番目の石を、軽くたたくと、かんかんという澄んだ音をたてて、石が鳴ります。
そいうことから、壱岐の人は、この石のことを、「カンカン石」と呼んでいます。
私は、子どもの頃、良く、この前を通って、歩いて、釣りに行ったものです。
そのときは、必ず、小石を拾ってかんかんたたいて、その石を大石の向こうにある、小石の山に投げ上げたものでした。
そうして、歩けば、足が軽くなるという言い伝えがあります。
昔に比べて、良く、整理されています。
地元の人が、このように、清掃して、信仰されているのだと思います。
信仰の深さには、脱帽します。
美濃谷観音堂 |
「壱岐の人々の生活」の章の「壱岐の美濃谷(みのんたに)さん参り」を参照。