壱岐の美濃谷さん参り
美濃谷観音堂 |
最後の札所 |
壱岐国33番札所の最後の札所です。
春の彼岸になると、先祖の菩提を弔うために、大勢の参拝客で賑わいます。
壱岐の人たちは身内に不幸があった最初の春の彼岸には、必ずここにお参りします。
その理由は、亡くなって、仏さんになった人が、そこまで来ているのに、家の人が迎えに行かないと、自分の家に入ることが、できないからです。
しかし、最近はお参りの人も減少しています。
これも、時代の流れでしょうか。
椿と青竹 |
ひと昔前までは、お参りする人は、「サンヤ袋」と呼ばれるさらしの袋に弁当やお供え物を入れて肩からかけます。
さらに、お札を入れた「お札挟み」の袋を胸に吊るし、椿の花を女竹(めだけ)の青竹の杖に一輪挿してお参りします。
でも、最近は、「お札挟み」を胸につるして、お参りする人はほとんど見られません。
亡くなった人が、2人いれば、竹の杖は2本になります。
なぜ、椿の花をさすのか、その理由ははっきりしませんが、壱岐には、ヤブツバキの花が、どこにでもたくさんあり、お墓にも、椿の花をお供えすることと、関係があるかも知れません。
椿の花をさした青竹は、お墓にある花筒の意味もあります。
最近では、水仙の花や野菊の花等を挿している人も見られます。
供養塔 |
持って来た、椿の花を挿した青竹は、供養塔に納めます。
家族が亡くなって、最初の春の彼岸の人は、たくさんあげてある、他の人が持って来た青竹の杖を、もらって帰ります。
そして、家に帰る前に、お墓参りをして、その杖をお供えします。
へそ菓子 |
参堂からお堂へ続く坂道の両側には、お参りの線香やろうそくを売ったり、お供え用のへそ菓子を売る、にわか露店が並びます。
へそ菓子は、まりのような模様が入った、3cmばかりの、赤と緑の線が入っている、小さな丸い菓子で、これを買って本尊様や境内の仏様にお供えをしたり、お土産にもします。
また、へそ菓子は自分の家の仏様やお墓に供えたり、家族のおみやげにも買います。
ソバを売る店もあります。
ざる |
供養塔やお堂のあちこちに「ざる」が用意してあります。
お参りに来た人々はその中に、持って来たお賽銭や米、へそ菓子を白紙に包んで、お供えし、さらに、水をかけます。
ザルには持参した米をお供えします。
また、供養塔やお地蔵さんには、お札(ふだ)をベタベタと張りつけ、柄の長いひしゃくで、井戸から汲んできた水をかけます。
その後で、拝みます。
涙川 |
観音堂のそばに、「涙川」(ナミダゴウ)と呼ばれる小さな深い井戸があります。
故人を偲んで心をこめて井戸を覗くと、会いたい人の面影が水面に浮かんで来て、亡くなった人に、会うことができる、と言われています。
右の写真は、その井戸を、覗き込んでいるところです。
この井戸は、どんな干ばつの時でも、枯れたことがありません。
傍らには、椿の花をさした女竹が納めてあります。
幻想 |
観音堂の中は、もうもうたる線香の煙と幻想的なろうそくの灯がゆらめいて、ご詠歌と鉦(かね)の音が絶えることがありません。
御詠歌 「万世(よろづよ)の 願いをここに納めおく 水は苔より 出(いづ)る谷汲(たにぐみ) 」
キリシタン |
左の写真は、ハート型の手水鉢です。
ハート型の手水鉢はキリストを表しています。
当時は手水鉢を、洗礼をするための洗盤に見立てていました。
手水鉢から水をすくい上げるたびに、神社やお寺を参拝するようにみせかけながら、心の中では自らが洗礼を受けたキリシタンであることを確認していました。
ハート型の手水鉢は日本全国で壱岐と小豆島だけで発見されています。
手水鉢を横切っているのは蛇を表しています。
ハートと蛇のいわれは聖書にあって、「わたしがあなたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい。」という記述があります。
ハートと蛇の組み合わせは壱岐だけにしかありません。
右の写真は、長泉寺と同じマリア観音で、乳房や乳首もありキリストを抱いています。
このことから、美濃谷は隠れキリシタンが集まる礼拝所だったともいえます。