岳の辻



岳の辻


展望

遠くに見えるのは、壱岐の最高峰、岳の辻(たけのつじ)です。

高さはおよそ212.8mあります。

ここにある展望台から周囲を見渡すと360°の大パノラマを楽しむことができます。

そうです。

壱岐の島のほぼ全体を見渡すことができる別天地です。











自然林

右の写真は岳の辻の頂上から下を見下ろしたものです。

どこまでも天然の自然林が続いています。

岳の辻の森は、天然の照葉樹林であるシイ、タブ、マテバシイと落葉樹林で全体の90%を占めています。

残りの10%はスギ、ヒノキなどの人工林です。

壱岐独特の山桜も自生しています。

この森林があるおかげで、豊富な湧き水があふれ出し、この山の麓では、郷ノ浦町民の水道水になったり、焼酎(しょうちゅう)を造るための原料として使用されています。







三島

良い眺めですね〜。

はるか遠くに3つの島が見えます。

右から、大島、長島、原島(はるしま)といいます。

大島と長島は壱岐で2番目に長い「さんご大橋」という橋で結ばれています。

写真には、横に筋のようなものが走っていますが、これは電線です。

壱岐はいたるところ電線だらけです。

電線がなければとも思いますがそうもいかないし。

できるだけ、周辺の外観を考慮してもらいたいものです。






馬渡島(まだらじま)


向こうに見えるのは、馬渡島です。

馬渡島は、長崎県ではなくて佐賀県です。

東松浦半島の最北端から4kmの場所にあります。

佐賀県では一番大きな島です。

当初は、仏教徒の人たちが住んでいましたが、その後、キリシタン弾圧から逃れるために、この島に、たくさんのキリスト教の信者が移り住んで来ました。

今でも、キリスト教の人と仏教の人たちが分かれて暮らしています。

この島の向こうには、佐賀県の呼子が見えます。

壱岐からは長崎の本土は見えないのに、佐賀県の本土は見えるのです。

壱岐はなぜ長崎県かについては「なぜ壱岐は長崎県」を参照してください。



この碑には、「葛の花 踏みしだかれて色あたらし この山道をゆきし人あり」と刻まれています。

作者は、釈迢空(しゃくちょうくう)。

明治20年に大阪で生まれ、大正時代に壱岐を2回訪れています。

67歳のときに胃がんで死亡。生涯独身でした。

この有名な葛の花の歌は、壱岐で詠まれたものか、奥熊野で詠まれたものかの論争があります。

それにしても、葛の花が踏み潰されると、かえって、色が新しくなって、鮮やかに見える、というのは、やはり、プロの詠み手ですね〜。

葛は、くず湯としてかぜ薬に使われたり、くず餅の材料としても使用されています。




また、終戦後は、アメリカに荒地を緑地化したり、土砂流出防止のために輸出されました。

今では、アメリカでも増えすぎて困っているということを聞きました。

壱岐でもこの葛は、農業の大敵で、畑や田につるが伸びて入って来て、みんな困っています。











洞窟

右の写真は「どんどろ洞窟」と呼ばれているほら穴です。

昔、壱岐の島で仏教が盛んな頃、毎日たくさんの托鉢僧(たくはつそう)が郷ノ浦の町を訪れていました。

その中に、色白でたいへん顔立ちの良い、今ふうに言えば、イケメンの若い僧がいて、町中の若い娘達の間で有名になっていました。

しかし、その若い僧はどこのお寺に住んでいるのか、どこからやって来るのか誰も知りません。

そこで、元気の良い村の青年が後をつけることにしました。

若いイケメンの僧はしばらく歩いて岳の辻のふもとまでやって来たとき、ひょいと後ろを振り返りました。

振り返ったときのその顔は青白く、おまけに目も口もありません。

それ以来、その若い僧は郷ノ浦の町には来なくなりました。

しばらくしてから、岳の辻で、白髪(しらが)頭で、白衣を着た老人を見かけるようなりました。

しかし、この老人を見た者は高熱を出して寝込むようになったために誰も岳の辻には近づかなくなりました。

これを聞いた城代が真相を究明するために若者を700人くらい集めて、ほら貝を合図に、手に手に鎌を持って、やぶや草をはらいながら岳の辻を上って行きました。

8合目あたりまで来たときに人がやっとは入れるくらいの穴を見つけました。

おそるおそる穴の中に入ろうとすると、中から、「どろ〜ん、どろ〜ん」とぶきみな音が聞こえます。

と、同時に、急に雷鳴がとどろき、大粒の雨がはげしく降ってきました。

若者達は、しかたなく、穴の中に入っていきました。

奥まで進んだとき、若者達が見たのは、なんと、とぐろを巻いた大蛇でした。

「どろ〜ん、どろ〜ん」というぶきみな音はますます強くなってきました。

若者達はそれを聞くと、怖くなってみんないちもくさんに逃げ出しました。

それ以来、この洞窟を「どんどろ洞窟」と呼ぶようになり、誰も近づかなくなりました。

時は流れて、太平洋戦争の末期に、軍が、地下陣地を作るために、小さな穴を掘り広げて進んだところ、中は空洞で池があり、反対側に通じていたそうです。

こわ〜い、こわ〜い、お話でした。



戦争

これはのろし台を復元したものです。

663年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)が白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に、こてんぱてんに負けてしまいました。

この後、唐と新羅の連合軍が日本に攻めて来るのではないか、と心配した天皇は、664年に対馬、壱岐、筑紫に烽(とぶひ。のろし台のこと。)を造ったり、防人(さきもり。東北地方から集められた兵隊。)を配置して警戒にあたらせました。

こののろし台、直径は4mほどあって、中央に2mほどの穴が開いています。

実物がこのような形をしていたという確証はありませんが、一応、このような形をしていたのでは・・・と推測されて造られています。

ここで燃やされた火は、大宰府ー瀬戸内沿岸ー河内ー大和ー奈良、と送られました。

発煙材料として、大量の乾燥ヨモギや木の葉が使用されました。






神社

この神社、岳の辻の山中にあります。

木の鳥居には「山神社」と書かれています。

写真をご覧になってもお分かりのように、周りは石垣だらけです。

この石垣は、田を作ったときに、泥が流れるのを防止するためのものだと考えられます。

石祠もあって、何となく不気味さを感じさせます。

この森の中に分け入ったとき、背筋がゾクゾクしたことを覚えています。










たんぼ

実は、この岳の辻では山の8合目あたりまで、田があり、米が栽培されていました。

ある人に言わせれば、壱岐で一番古い「田んぼ」が残っている山でもあります。

写真では、はっきりしませんが、周囲に石垣が積んであって、田の区画が作られています。

小さな田がいくつもあって、棚田みたいな感じです。

当時は、米は、日本人にとっては、主食だったので、岳の辻のような高い山の中腹まで、米を作っていたのでしょう。











アンテナ

右の写真は、岳の辻の頂上に、ところ狭しとそびえ立っているアンテナです。

テレビや携帯電話の中継アンテナなどがたくさん建てられています。

このことから、岳の辻は別名、アンテナ山とも呼ばれています。

壱岐で一番高い山なら、もっと大事にして、いろいろな建造物を作らないで、自然を大事にしたいものです。

行政や業者の環境や自然景観に対する、理解力のなさを露呈したいい例です。










ウバユリ

岳の辻に上る道路際にこのようなウバユリが咲く場所があります。

もともとは、ここに自生していましたが、乱獲のために絶滅寸前になったところを壱岐の心ある人たちによって、移植されここまで成長しました。

現在、300本ほどあります。

壱岐では、ここ、岳の辻だけしか咲いていません。

ウバユリは大きいのになると、2m近くも成長するといわれていますが、ここ岳の辻にあるのはなかなかそこまではいきません。

ウバユリという名の由来は、皆様、すでにご存知のように、花が咲くときに、すでに葉(歯)が茶色に枯れてなくなってしまい、そのことが老女(ウバ)のようだ、というしゃれからつけられたものです。

ウバユリの花は、ほかのユリの花と同じように、まず、花のつぼみが、天をめざして垂直に伸び、その後、横向きになってから花が咲きます。

花の色は、どちらかというと、うす緑色をしています。






見上(みかみ)神社

竹の辻の山頂に古くからあり、烽(とぶひ)の鎮守府といわれています。

見上というのは、「見神」の意味で、見張りの神でもあります。

祭神は、彦火々出見尊 (ひこほおでみのみこと)です。

山幸彦が兄の海幸彦の釣り針を、海で失くし、それを探しに竜宮までたどり着いたとき、龍王の娘の豊玉姫が井戸に水を汲みに来ました。

井戸の水面に映った山幸彦の姿を見て姫は驚きますが、山幸彦がイケメンだったために、心を奪われ、山幸彦を、父の龍王の元へ案内する、という話しがあります。

彦火々出見尊 (ひこほおでみのみこと)は、非常に狩猟が好きな神様でした。

そこから、山の神として彦火々出見尊をまつるようになりました。




龍光大神(りゅうこうおおかみ)



龍神様をまつってあります。

龍は、すでにご存知のように、日の神、月の神、地の神を乗せて運び、地上の発展に貢献しました。

胴はへびに似ていて、4本の足と、2本の角があり、空にのぼって、雲をおこし、雨を降らせるという、動物です。

戦時中は、この場所に軍隊の司令部がありました。