壱岐の湯ノ本浦散策



温泉

壱岐では、本格的な温泉が湧き出ているところです。

湯ノ本温泉の歴史はとても古く、およそ2000年前から湧き出ていたといいます。

神功皇后が、応神天皇を出産したとき、産湯をつかわせたという言い伝えもあります。

昭和46年に、国民保養温泉地に指定されました。

勝本町には、離島には珍しく温泉がある。白山火山帯の西端に位置するこの湯の本 (ゆのもと)温泉は、壱岐の岩盤に浸み込んだ海水が、長い時間をかけて自然に湧出した もので、温度が六十九度のナトリウム泉で、行楽客や湯治客に親しまれている。

天然の茶褐色のにごり湯です

江戸時代、寛文2年、守護代の山本甚左衛門清方が、海岸を埋め立てて、黒崎村、浦海浦、湯浦の民家をここに移して、温泉を利用させました。

これが、湯の本浦の始まりとされています。

絶景

温泉旅館が立ち並んでいる背後の高台に、湯の山公園があります。

その公園からは、湯の本湾や浦海湾などが一望できます。

青い海、その中に浮かぶ小さな島、突き出た岬、行き交う漁船などを見ていると、とても癒されます。










河童の証文石

壱岐には河童伝説がたくさんあります。

この石碑は河童の証文石と呼ばれています。

昔、この近くの川に住んでいた河童が、この近くを通る人を、川に引きずり込むという、いたずらをしてました。

人々は、怒って、この河童を捕えましたが、河童は、「もう二度と悪い事はしません。許して下さい」、と反省して、謝るので、一筆書かせて、離してやりました。

その証文が書かれている石がこれです。

今は、文字も消え失せて、判読することができません。















蛭子(えびす)神社

以前は、恵美須神社といいました。

祭神は、蛭子(ひるこ)命です。

境内末社  稲荷神社 祭神 倉稲魂命

  金比羅神社 祭神 猿田彦命、素戔鳴尊  

愛宕神社 祭神 阿遇突智(かぐつち)









今は社殿はなく、いくつかの祠が祀られています。

鳥居は江戸期石造明神型鳥居です。  

蛭子命は、伊耶那岐命(イザナギ)と伊耶那美命(イザナミ)との間に生まれた最初の神です。

二人が子作りをしようと計画し、しかし、子作りの時に二人が出会った際に、妻の伊耶那美命が「なんとすばらしい男でしょう。」、と、言って、夫の伊耶那美命(イザナミ)命に、声をかけ、子作りをしました。

しかし、生まれた子は、不具の子、蛭子(ひるこ)命でした。

二人は、蛭子命を、邪気を払うと言われている、葦の船に乗せて、オノゴロ島から流します。

次に、淡島(あわしま)を生みました。

しかし、この子も不具の子でした。

淡島については、どのように処置したかは、書かれていません。

不具の子が生まれた原因は、女が先に男に声をかけた事にありました。

万葉集にもあるように、求婚は、男の方から女の方に声をかけるのが普通でした。


さて、葦の船に乗せられて、 流された蛭子神が流れ着いた所では、土地の人々が、蛭子を蛭子神として祀るようになりました。



稲荷神社

祭神 蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)

倉稲魂命は穀物の神です。

稲荷神社には稲荷神(穀物の神の総称)が多くは祀られていますが、ここは倉稲魂命のみが祀られています。

鳥居の額には伏見稲荷神社とあります。

稲荷神社なので、鳥居や社殿は真っ赤です。







稲荷神社の参拝の方法は、「2礼、4拍、1礼」、と、そこにお参りしていた古老が話されていました。



















観世音寺

江戸時代にかかれた本に次のように述べられています。

本尊 聖観音坐像。

脇士 善財2童子各立像。

鐘 享保十二丁未年掛ける。

もとは、この所に、梅香庵という庵室がありました。

梅香庵は、むかし、軍場という場所にありましたが、前住不伯のとき、ここに移したものです。

梅香庵の額が、本堂の正面に掛けてあります。

梅香庵は境内にあります。

本尊 地蔵座像、閻魔王座像、千手観音座像があります。

千手観音座像は、清水谷観音という、壱岐国札所の16番にありましたが、ここ観世音寺の境内に移しました。


その後、観世音寺を清水からここに移して以来、この場所を観世音寺と呼ぶようになりました。

  


三十三番札所


壱岐四国三十三カ所札所の、16番・17番・19番・20番札所です。

観世音寺の境内に在ります。

御詠歌16番 松風や 音羽の滝の清水を むすぶ心は 涼しかるらん

御詠歌17番 重くとも 五つの罪はよもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば

御詠歌19番 花を見て いまは望まぬ革堂の 庭の千草も 盛りなるらん

御詠歌20番 野をもすぎ 山路に向かう雨の空 善峠よりも 晴るる夕立










実は、この観世音寺、壱岐四国霊場八十八カ所札所の八十四番奥の院でもあります。
















湯ノ山の堂

壱岐四国三十三カ所札所の、18番札所です。

江戸時代には、温泉山医王院とも呼ばれ、本堂や庫裡がありました。



















御詠歌18番 わが思う 心のうちは六の角 ただ円かれと 祈るなりけり









牟田神社

温泉街にあります。

昔、この周辺は、牟田と呼ばれている沼地がたくさんありました。

その関係の神社ではないかと思われます。















毎年6月頃、幼・小学生による相撲大会が行なわれています。

また、沼地に住んでいる河童が、ここを通る子供や大人を、沼地に引っ張り込んだりしていました。

河童と人間が相撲をとり、人間が負けたら、お尻の穴から魂を抜かれる、とも言われていました。



















灯籠は、江戸時代に造られています。



















勝本層

この地層は、壱岐の土台石になっている勝本層です。

火山の噴火により、流れ出た溶岩に含まれている鉄の成分が、酸化して赤く変色しています。

もともと、勝本層は、頁岩と砂岩の互層でできています。

壱岐の土台石については、壱岐の土台石を参照してください。








六郎瀬鼻

壱岐のステゴドン象を参照してください。















銅像

これは、山口常光(やまぐちつねみつ)の銅像です。

山口常光は明治27年(1894)に、壱岐市勝本町本宮南触に生まれました。

大正元年(1912)、陸軍外山学校軍楽科に入学、クラリネットを学びました。

大正9年(1920)、東京外国語大学を卒業、昭和5年、陸軍省の派遣で、日本では初めての吹奏楽の留学生として、フランス・ドイツで、軍楽隊の演奏法や、指揮法を学びました。

その後、母校の戸山学校軍楽隊長となり、軍楽少佐、皇宮奏楽隊長、NHK吹奏楽団長を歴任し、昭和23年(1948)iに警視庁音楽隊を創り、昭和32年(1957)まで初代警視庁音楽隊長を務めました。

日本の吹奏楽の草分け的存在とも言われています。


昭和19年(1944)、戦争末期、徴兵されようとしていた、東京芸術大学の團伊玖磨、芥川也寸志ら14名の学生を、戸山学校に入学させました。

入学させた理由は、表向きは、対空情報の監視要員としてでしたが、真の理由は、このまま音楽を続けさせることにより、将来の日本の音楽を発展させるべき人たちを失いたくなかった、ということにありました。

郷土の、壱岐商業高等学校や壱岐高等学校、この銅像の近くにある母校の鯨伏(いさふし)小学校の校歌も作曲しました。

昭和52年(1977年)、心筋梗塞のため逝去。

享年82歳。




塩釜神社

湯の本浦波戸崎(はとざき)にあります。

波戸崎は、昔、本宮村と布気村との界でした。

祭神
(さいじん)は塩土老翁(しおつちのおじ)


塩土老翁は、航海の安全を祈る神です。

また、製塩の技術を伝えた神でもあります。

昔、ここ塩釜神社が建っている浜を、塩屋浜といい、塩を作る塩田がありました。

その縁から、この神社が造られました。


皆さんは、山幸彦・海幸彦のお話しをご存知でしょう。

兄の釣針を失くしてしまい、絶対にその釣針を探してくるようにと言われた、山幸彦が、海辺で悲嘆にくれて、たたずんでいました。

すると、、波間から、塩土老翁が現れ、山幸彦の話しを聞き、小舟を作り、波間に押し出しながら言いました。

「このまま潮に従って行けば海神(わたつみ)の宮に着く。着いたら、門の脇にある桂の木に登って待つといい。 そうすれば海神の娘が出てきて、いろいろ相談に乗ってくれるだろう。」と告げます。

山幸彦は、言われたとおりに海神の宮へ赴き、桂の木に登って待っていると、 やがて海神の娘で、美人の豊玉姫命が出てきて、妻にするとともに、失った釣針を見つける、というものです。

塩土老翁については、別の話しもあります。

神武天皇が、九州の日向(宮崎県)にいたとき、塩土老翁が、「東の方角に美しい国がある。四方を山に囲まれ、大業を広めるのに適している。」と、言い、神武天皇は、東にあるヤマトの国をめざして、東方遠征を決断した、というものです。



恵比寿神社

海のすぐそばに、このような石の祠があります。

祠自体は、昭和時代に造られていて、新しいものです。

もともと、この神社には、石築地だけがあり、祠も神社もなかった、と、古文書にはあります。

しかし、この浜を埋め立てる時に、恵比須神が、この場所から動くことを嫌がったために、今のこのような形になったといいます。