壱岐の宝篋印塔 

宝篋印塔

宝篋印塔とは

宝篋印塔は墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種です。

多くは、石で造られていますが、木造のものもあります。

宝篋印塔は、もともとは鎌倉時代に、密教(天台宗・真言宗)の信仰から使われ始めましたが、鎌倉期以降は宗派を問わず造られるようになりました。


もともとは、宝篋印塔の内部には、宝篋印陀羅尼経というお経を納めました。

「宝篋印陀羅尼経」は、平安時代に入唐僧によってもたらされた、お経の一種で、一番すぐれている教えを凝縮させて含んでいる言葉といわれ、
40句からなります。

このお経は、インドから伝わった経文を、漢文に翻訳しないで、原文のまま、梵字で書かれています。

このお経を、仏像内や卒塔婆に納めれば、天災を免れたり、あの世で苦しんでいる先祖を極楽に導く事ができたり、この世で苦しんでいる人々、貧しい人々を救う事ができるなど、八つの功徳があるといわれていました。


しかし、後世の宝篋印塔には、「宝篋印陀羅尼経」だけでなく、法華経や舎利を納めたものもあります。

また、陀羅尼経とは無関係に、遺骨を収める墓塔とされたり、浄土への願望や故人追善のための供養塔として造られた、宝篋印塔もたくさんあります。




宝篋印塔の作り

宝篋印塔は、下から基盤(返花座)、基礎、塔身、笠、相輪と積み上げていきます。


基盤は、蓮の花弁が反り返った形をしている返花(かえりばな)座と呼ばれる部分です。


塔身は、笠の下にある、四角柱の部分をいい、種子を標示してあります。

種子というのは、仏教の仏や菩薩などをサンスクリット文字(梵字)の一字で標示したものです。

通常は、金剛界四仏、すなわち、東方の阿閦仏(あしゅくぶつ)、南方の宝生仏(ほうしょうぶつ)、西方の阿弥陀仏(あみだぶつ)、北方の不空成就(ふくうじょうじゅ)仏を刻みます。

梵字の周りには円を刻みますが、これは月輪(がちりん)と言い、仏の知徳が欠けることなく円満であるという意味があります。


笠は、塔身の屋根の役割をします。

笠の四隅には、馬の耳のような特有の曲線上の突起があり、隅飾り(すみかざり)とか耳と呼ばれています。


笠の上には、伏鉢、請花、九輪、請花、宝珠があります


相輪(そうりん)は、最上部の棒状の部分で、天に向かって突き出ています。

相輪は、宝珠(ほうしゅ)、請花(うけばな)、九輪、請花、伏鉢(ふせばち)から成り立っています。


宝珠(ほうしゅ)は、 釈迦の遺骨を納めるところです。


宝珠ののすぐ下にある請花(うけばな)は、高貴な人をのせる乗り物のことです。


九輪は、九つの輪で、五大如来と四大菩薩を表わします。


請花は、宝珠・請花・九輪を受ける飾りの台です。


伏鉢(ふせばち)は、釈迦の墓を表わすもので、人で言えば心臓の部分に当り、塔の中では、一番重要な部分です。



梵字

宝篋印塔の塔身には四面に、梵字を入れます。

一般的には、次の金剛界四仏を、一文字で各面に刻みます。

東方・・・阿閦仏(あしゅくぶつ)
 阿閦仏(あしゅくぶつ)は、大日如来の説法を聞いて、修行ののち成仏して東方の善快 という浄土で説法している仏です。

西方・・・阿弥陀仏(あみだぶつ)
 阿弥陀仏は、人々が死後行くという西方の極楽浄土で説法している仏です。

南方・・・宝生仏(ほうしょうぶつ)
 宝生仏は、いろいろな宝物を生み出し、福徳を授ける仏です。あらゆるものは平等であるという精神を説きます。

北方・・・不空成就(ふくうじょうじゅ)仏
  不空成就仏は、身のこなし方、振る舞い方、によって願いが成就する智慧、成所作智を授ける仏です。










歳丘(としのお)の宝篋印塔

高さおよそ145cm。

次のような銘文が4面に分けてあります。

「天文五丙申 孟蘭盆吉日 孝子誌之以 為高翁瑞秀」

これから、天文
5年に作られていることが分ります。

もともとは、この場所にはなかったものと思われますが、各部分は完全に原形が残っています。

玄武岩でできています。


















九輪部の前面に大日如来の種子を刻んであります。


































塔身の四面には、円相に四仏の種子が刻まれています。










庄触梅坂の宝篋印塔

古文書に、次のようなお話があります。

むかし、宗対馬守の女が唐津城主波多宗無の後室となり、嫁ぎました。

あるとき、父君を訪ねるために唐津から対馬に渡ろうとしましたが、船中でにわかに病気になり、渡良浦の大島の港に着きました。

病気は次第に重くなり、ついに亡くなりました。

この事を唐津に連絡すると、壱岐国に葬るべしとの命がありました。

よって、郷ノ浦の本居村に船を着け、渡良浦道の北側の高所に葬りました。

対馬と唐津の見える所に葬るべしとの遺言によってでした。

その宗女の名を御東といいます。

この伝承は、郷ノ浦町東触所在の「華光寺高山の宝篋印塔」にまつわるものと全く同じです。

違うのは被葬者の名前で、ここにある宝篋印塔は「御東」の供養塔であり、華光寺の宝篋印塔は「華渓」の供養塔になっています。

2人は同一人物と考えられていてます。

四方に金剛界四仏の種子(梵字)を彫ってあります。

無地の隅飾りが二弧ついています。


この燈籠には、
天保九(1838)年戊戌秋七月、対州小河三四郎平功永謹建之という銘が刻んであります。

献納者の小河氏がどういう人物であるかは不明です。


























宝篋印塔の隣には、圧倒されるような、タブノキの大木があり、しっかりとこの「御東さん」を守っています。






























華光寺高山の宝篋印塔

ここ高山には、2基の宝篋印塔があります。

その1

その内の1基には、「華渓(かけい)」という文字が刻まれています。

玄武岩で造られています。


古文書には、次のようなお話しがあります。

郷ノ浦にある亀尾城の創築者である波多宗無の後室となった、華渓は、正安3年(1301)2月、対馬にいる父母を訪ねる船中で発病し、渡良大島停泊しました。

しかし、病状がひどいので、小舟で本居浦に寄港し、仏神三宝を誓い、医術百計を尽くしましたが、その効果はありません。

ある朝、仏が、女人に化けて、突然、華渓の前に来て、「汝、故郷を思うこと甚し。これより十余町艮に山あり。これ、弥勒菩薩出世のとき、法を施し、衆生を度益する霊地なり。ここにおいて、大海を見るときは、汝が父母、九族眼前にあり」、と言い終わって去って行きました。


人にこの事を話して、その化女のあとを、つけてもらったら、今の、妙見山に隠れて見えなくなりました。


その日
(同月27日)、華渓は、「唐津と対馬の見えるところに葬れ」という遺言を残して死亡し、この高山に埋葬されました。

このことから、塔は対馬のある西向きに建てられています。


華渓が亡くなった後、唐津から覚叟
(かくそう)大円和上が来て、引導し、菩提所を建て、華渓院と名付けました。


それから200年後、永正3年(1506)、波多盛(さこう)は、華渓院を改築し、山号を如意山、寺号を華光寺と改めました。

山号は、華渓の夫、波多宗無の法名「如意院鉄心宗無居士」に由来しています。


この宝篋印塔は、華渓が死亡した正安3年(1301)直後のころの造立か、華光寺建立の永正3年(1506)の造立かはっきりしていません


しかし、宝篋印塔に鎌倉時代の様式がみられないことから、永正3年(1506)前後、室町時代の作と考えられています。



塔身の四面には、金剛界四仏(こんごうかいしぶつ)の種子(梵字)が、月輪内に彫ってあります。





















この山の中は、とてもうっそうとしていて、スダジイやヤマモモの大木が生い茂っています。

上空には、カラスの鳴き声が、けたたましく聞こえます。

なんとなく、ゾッとする場所です。






















その2


ここには、もう1基の宝篋印塔が10mくらい離れているところにあります。

宝珠は欠落してありません。

塔の方向も、華渓の塔と並んで西に向けられていたと考えられますが、移動した形跡があります。

伝えもなく一切が不明ですが、華渓に関係する人物の墳墓と考えられます。

石質は、やや粗で白みを帯びていて、壱岐島所産の石ではありません。























塔身の東面に月輪だけ刻まれていて、種子も刻せず、他にも銘文はありません。




























華光寺境内にある宝篋印塔

この宝篋印塔は、古若女の墓といわれています。

華光寺の山門脇に集められた隠れキリシタンの墓とともに、あります。

古若女は、壱岐を分治していた、佐志氏の家に生まれ、波多志摩守の妻になりました。

波多家の世継ぎを巡るお家騒動により、若くして殺害された波多隆や波多重の母親になります。

波多家のお家騒動については、なぜ壱岐は長崎県の章を参照してください。

60歳余で死亡しました。

















石塔の表面に、クルスの刻印の十字が刻まれています。



























玉泉寺の宝篋印塔

玉泉寺の宝篋印塔は、供養のために造られたもので、完全な形で残っています。

小型ですが、全体として洗練された作柄で、穏和にまとめられています。

塔身四面には、金剛界四仏(こんごうかいしぶつ)の種子(梵字)が刻まれています。

しかし、西面のみ、法界定印(ほうかいじょういん)の弥陀の坐像を陽刻し、他は、月輪(がちりん)内に種子(梵字)が彫られています。

にある隅飾りは一弧で無地。

室町時代末期から江戸時代初期に、島内の石工によって、造られました。


もともとは、山門脇の供養塔のそばに対になって
2基ありました。

残りの
1基は、石田東触の個人の家にあります。

なぜ、このように、別々に保管されているのか理由は分りません。






七郎神社入口の宝篋印塔

壱岐の七郎神社の章を参照してください。






















龍峰院の宝篋印塔

天保4年(1833)建立。

とても大きな宝篋印塔で、見上げる程の大きさです。

壱岐では一番大きい塔です。

















正面には、「唯有一乗法」とあります。






























裏面には、次のように刻まれています。
「天保四年五月」  「宗性」
「一字一石書写」  「宗員」
「併割鉢資建立」  「宗久」
  

細かいことについては不明です。


























重山(しげしやま)の宝篋印塔

波多氏の世継ぎを巡る、お家騒動に巻き込まれた、波多重は、筒城村の海辺である権現崎で討たれました。

どのような理由で、この丘上に葬られたのか、分かりません。


波多家のお家騒動については、なぜ壱岐は長崎県の章を参照してください。

前に、石祠が置かれています。

この写真は、横から撮ったものです。


相輪部は、切断され、そのまま乗せてあります。




















塔身の四面に、四仏の種子を刻する以外はなんらの銘もありません。

玄武岩製です。
























池田仲触の宝篋印塔

とても大きな宝篋印塔です。

道路わきの一段と高くなった場所にあります。

鎌倉時代から室町時代のものと思われます。

宝篋印塔の周りには、古い墓も見受けられます。

近くには、彦山権現神社もあり、その意味では、この周辺は、山伏の修業の場であったともいえます。

それらと関係があるのかもしれません。

また、ここには、妙覚院というお寺があった場所で、明治の神仏分離令で廃寺になりました。

その名残りがこの宝篋印塔でもあります。















塔身には、「仏」「法」「僧」「宝」という文字が刻まれています。

仏・法・僧(ぶっぽうそう)は宝である、という意味です。

つまり、仏宝・法宝・僧宝と言う意味になります。

仏は、仏様(悟りを開いた人)のことであり、法は、仏様の教え、僧は、仏様の教えを守り、修行・生活する人、という意味です。

「僧」は、僧侶だけではなく、仏教の教えを守ろうと努力する人々のことをいいます。

この「3つの宝」を大切にしなさい、ということです。





















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