島流しの島壱岐


遠島

壱岐は九州本土から70km以上離れているため、古くから流人の島でした。

江戸時代、江戸で犯罪を犯した者は、八丈島、大島、三宅島などに流され、京都以西で罪を犯した者は、五島列島、壱岐、天草などに島流しにあっていました。

そのようなことから、大化の改新以降から壱岐には流人がいました。

江戸時代には京都の無宿者70人、高野山の僧侶が一度に120人が、壱岐の島に流されました。

島流しにあうと、流された島にある、お寺や現地の村の名主の監視を受けるようになります。

そして、村人の農作業を手伝って、わずかな食料を現物支給してもらったりして、自給自足の、その日暮らしをするようになります。

住む場所も、ほったて小屋や洞窟でした。

最低限の衣食住は確保されていたといいます。

もちろん、島流しにあった場所での環境に適応できなければ、餓死することになります。

流人には政治犯と刑事犯の2つがあります。


政治犯

政治犯というのは、当時の権力者である幕府に反抗する活動をしたり、また反抗するような思想の持ち主をいいます。

壱岐に島流しにあった政治犯は、多くは関西方面からの者が多くいました。

政治犯は、神官、僧侶、役人などのような、学問と教養があり、インテリの穏健派が多くいました。

彼らは、壱岐の島民らに読み書き、そろばん等を教えたり、農閑期には都の話や、世間の新しい話などを聞かせたり、農耕、植林のことなども教え、壱岐の人たちの文化向上に大きく貢献しています。

これに対して刑事犯は、長崎本土から主に流され、密貿易、ばくち、窃盗、強盗、婦女暴行などの犯人でした。


刑事犯

刑事犯は、無宿者、やくざなどで、島に来ても再び悪事を働いたり、改心の情がなく、島抜けを企てる者も多くいました。

壱岐には、毎年20人位流されてきていて、常時、200〜300人の流人がいました。

それでは、壱岐で犯罪を犯した人はどこに流されていたのでしょう。

壱岐本島の周辺にはたくさんの島々があります。

その中に、大島、原島、長島という島があります。

壱岐で犯罪を犯した人は、それらの島に流されていました。

写真の、はるか、奥に見える、三っつの島が、大島、原島、長島です。













小山弥兵衛(こやまやへえ)


生野一揆

1738年、江戸時代、但馬(たじま)の国(兵庫県)、東河庄野村(とうがしょうのむら)では、大雨による洪水、日照りによる水不足、うんかの大量発生が原因で、凶作が続き、米がまったく出来ません。

村人たちは、餓死寸前まで追い詰められていました。


庄屋

東河庄野村(とうがしょうのむら)では、小山弥兵衛が庄屋をしていました。

小山弥兵衛は、庄屋で、年寄役(現在の福総代にあたります)を勤め、生野代官所から、いろいろ、執筆を頼まれるほど、達筆でした。

そのため、小山という苗字帯刀も許され、10人分の米をもらっていました。

しかし、長く続く、凶作のために、周辺の庄屋が集まり、年貢を減らすことと備蓄米を借りることを、代官に願い出ることにしました。

その手紙を書いたのが、小山弥兵衛でした。

小山弥兵衛は、自分の筆跡は、すでに代官所に知られているので、だれが手紙を書いたか、筆跡からばれないように、足の指に筆をはさんで、手紙を書きました。

1738年、12月29日、大晦日(おおみそか)の日に、3,000人の百姓達が、くわや鎌、竹やりを持って、集まりました。

最初は、穏便にお願いに行くことにしていた小山弥兵衛ら庄屋達は、これでは、強訴(ごうそ)、一揆になってしまうと思い、困ってしまいました。

しかし、参加者は、だんだん増えて、金持ちの家を襲って、食料品等を盗んだり、家を壊したあげく、エスカレートして、代官所へにも押しかけ、手がつけられなくなってしまいました。

この結果、貸与米を借りることの約束を代官とかわしました。


島流し

しかし、この約束は守られず、参加した他の村の庄屋達は、逮捕され、首を切られたり、さらし首にされたりしました。

小山弥兵衛は、苗字帯刀を許されていたこともあって、壱岐に島流しになりました。

このとき、小山弥兵衛は、33歳(35歳という説もあります)でした。

壱岐では、最初は見性寺(けんしょうじ)に預けられました。

見性寺は、長徳寺の南約200mの場所にありましたが、今は廃寺になっています。

以前、訪れたときは、このような建物はありませんでしたが、今回、訪れると、このような、お堂が建っていました。

小山弥兵衛に関係するお堂です。











貢献

小山弥兵衛は、周辺の子女を砂浜に集め、紙墨の代りに、砂の上に字を書いて読み書きを教えました。

弥兵衛が預けられていた見性寺では、住職が近所の子どもを集めて、文字やそろばんを教えていました。

弥兵衛は、文字の読み書きができたので、文字を教えたり、読み書きできない村人たちの手紙を書いたりもしました。

また、恵美須浦で鯨組が、鯨を解体するときに、履くわらじが、すぐに鯨の油と血で履けなくなることに気づき、履きやすく、滑らない、じょうぶなわらじを作って喜ばれました。

このわらじは、「やへいわらじ」と呼ばれ、とても評判になりました。

また、自宅の周辺に防風林とするために桃、、柿、栗の木を植えたり、雨具の蓑(みの)や縄を作るためにシュロの木を植えました。

これらの、果樹も、村中に広まりました。


植林

小山弥兵衛は、杉の種をまいて、できたわずかな苗を、別の場所に植え替えるということを始めます。

植え替えたあとに、また、別の種をまく、ということを繰り返しました。

3年目になって、苗木になりました。

その苗木を、4kmほど離れた、稲荷山(いなりやま)に植えました。

植えるのも大変な作業だし、植えた後の、雑草刈りや下枝をはらうのも大変な作業です。

間伐(かんばつ)作業もあります。

杉の木を植林し、その数1,000本といわれています。



孫娘

一方、小山弥兵衛には、三女の孫娘がいました。

本名は分かりません。

ここでは、出典にしたがい、「やえ」という名前にします。

やえは、位牌に、祖父の名前がないことを、不思議に思い、父母にその理由を聞いたところ、父母から、祖父の小山弥兵衛のことを聞き、是非、会いたいという気持ちを、7歳の頃から、日に日に募らせていきました。

そのために、尼になれば、修行のために全国を歩き回り、小山弥兵衛のところにも、行けると思い、尼になることを決心しました。

両親は、尼になることを、当初は、認めていなかったので、「やえ」は、9歳のとき、家出をして、桐葉庵(とうようあん)の清月尼(せいげつに)のところに行きました。

清月尼(せいげつに)は、このことを、実家に連絡し、家に帰そうとしましたが、あまりにも、「やえ」の決心が固かったので、とうとう、根負けして、尼になることを、認めました。

「やえ」は、ここで15年間修行をしました。

桐葉庵で、「全鏡」という名前をもらいました。


旅立ち

19歳のとき、全鏡は、清月尼に、自分は、壱岐にいる、老い先短い弥兵衛の世話をするために、壱岐に行きたい、壱岐で世話をした後は、また、ここに帰ってきて、修行をしたいと、申し出ました。

清月尼は、とても感激し、男の僧侶の姿に身を隠して、行く方が良い、と考えて、住職自らが、男僧の手伝いをして、旅立たせました。

男僧にしたのは、尼の姿では、目立ちすぎて、危険だということ、罪人に会うのは、認められていなかったことによります。

全鏡は、男装をして、托鉢(たくはつ)をしながら、但馬からはるばる壱岐に向かって、小山弥兵衛に孝行するために、旅立ちました。

当然、その当時は、歩いて行くことになります。

但馬から壱岐までは、400km以上あります。

但馬、因幡、伯耆(ほうき・鳥取県中西部)、米子港、松江、出雲、石見大田(いわみおおだ)、浜田港、覚性庵(かくしょうあん)、下関、小倉、福岡安国寺と、さんざん苦労したあげく、着きました。

福岡で、安国寺の住職に会い、それまでのいきさつを話したところ、住職は、いたく感動し、壱岐にある暦応寺(りゃくおうじ)の住職に紹介状を書いてくれました。

博多にあるこの安国寺は、昭和55年に、それまであった建物が老朽化したために建て替えられました。
















弥兵衛は、当初、見性寺の霊麟和尚(れいりんおしょう)に預けられていましたが、その後、暦応寺の住職が急死したために、霊麟和尚が、歴応寺の住職になりました。

このため、これ以後、弥兵衛は、見性寺から暦応寺に引き取られました。

写真は、暦応寺の跡です。














対面

また、月に1度出る、壱岐に行く船の船頭に頼んで、乗せてもらうように計らってもくれました。

しかし、ずっと弥兵衛のそばにいることはできません。

船は、壱岐に着いて5日目には引き返すので、また、それに乗って帰って来る、ということになっていました。

弥兵衛と全鏡は、暦応寺(今は廃寺)で、ひそかに面会しました。



弥兵衛が島流しになってから50年が経っていました。

2人は、水入らずの対面をしました。

全鏡は、おばあさんが、苦労しながらも立派に留守を守り、16年前に亡くなったこと、父母が元気なこと、村のことなどを話しました。

実は、全鏡と対面する、3日前くらいから、弥兵衛は、孫娘が会いに来る夢を、見ていたといいます。

そのため、衣類に、柿渋を塗って、シラミを防ぐ、用意をしていました。








往復

しかし、長い期間滞在することはできません。

次に出る船で帰らなければならないからです。

全鏡は、1度、父母の入る村に帰って、弥兵衛のことを報告し、また、壱岐に戻ってくることにしました。

このとき、弥兵衛は、自分もこのとおり健在であることを国の者に知らせたいと願い、心諒尼にクスの苗を3本持たせました。

クスの苗木の内、1本は小山家に、1本は弥兵衛の母の実家に、残る1本は弥兵衛の妻の実家に植えられました。

小山家のクスは、明治16年に、家屋の改装をするさいに、植え替えられ、枯れてしまいました。

弥兵衛の母の実家の木は、明治28年に伐採されてしまいました。

弥兵衛の実家に植えられた、1本は現在、但馬の法宝寺にあるクスノキとして、大きく成長して残っています。

さて、一度、但馬に戻って、弥兵衛が元気なことを話した、全鏡は、再び、博多に戻ってきました。

これから、博多の安国寺と壱岐の歴応寺の間の月に1回の往復が始まりました。

3年間、壱岐と博多の往復をする生活が続きました。

つまり、孫娘は、3年間、おじいさんの面倒を、博多から通いながら、見たことになります。






他界

弥兵衛が亡くなったのは、83歳(85歳という説もあります)の8月でした。

壱岐での生活は、53年間にも及びました。

このとき、弥兵衛は自分で植えた1,000本の杉の木をお上に寄付しています。

全鏡が帰郷するとき、暦応寺の霊麟和尚(れいりんおしょう)は、白木の位牌に「吉祥院玄鏡了義居士」(きっしょういんげんきょうりょうぎこじ)という、流人としては異例の戒名を書いて渡しました。

遺骨も、持って帰りました。






帰郷

帰郷した全鏡は、弥兵衛の檀家である円明寺から、「心諒尼」(しんりょうに)という、戒名をもらい、当時、無住だった、円明寺の末寺の観音堂を修復し、水月庵(すいげつあん)の庵主(あんじゅ)として、修行に励むことになりました。

このとき、心諒は27歳でした。

弥兵衛が亡くなってから、12年が過ぎてから、赦免の通知が来ました。

心諒尼は、水月庵で、先祖代々の菩提を弔うとともに、仏法の伝道と、村の子女に生花や茶道の教授をして、その生涯を終えました。

心諒が亡くなったのは、79歳のときでした。



里帰り

2000年に、但馬の法宝寺にあるクスノキの根本から、生えた高さ5mくらいの若木が、壱岐と和田山町とをつなぐ交流事業の一環として、壱岐に送られました。

その苗は、箱崎小学校の校庭や、歴応寺跡の弥兵衛の墓の近くに、植えられました。

箱崎小学校に植えた、クスノキは、枯れてしまったために、翌年、再度、植えられました。

結局、壱岐を出たクスノキが、また、壱岐に里帰りをしたことになります。











覚瑜(かくゆ)


女犯(にょぼん)

覚瑜(かくゆ)は、江戸時代に、紀州で生まれ、僧侶になりました。

当時、僧侶は妻を持つことを許されていなかったので、多くのは僧侶は隠し女房を持っていました。

しかし、このことがばれると、女犯(にょぼん)として処罰されました。

女犯とは、僧侶などが結婚したり、女性と性的行為をもつことをいいます。

覚瑜もその女犯の1人でした。

当時、仏教では、女性は「不浄なもの」とみなされ、法律により、親鸞が始めた浄土真宗以外は、僧侶は、結婚して妻をもつことは出来ず、また、女性との関係を持つことを禁止されていました。

余談ですが、江戸時代、品川の売春宿では、お客の半分が僧侶だったといいます。

明治時代に太政官布告が出てからは、もちろん、そのようなことはありません。

江戸時代、女性と関係をもつと、寺持ちの住職は遠島、寺の住職でないその他の僧は、さらしものにされたあげく、自分が所属しているお寺に預けられ、その後、多くが破門、追放されました。

結局、覚瑜(かくゆ)は、
大阪で遠島を申し渡され、壱岐の渡良村に住んでいました。


再婚

縁はいなもので、同じく大阪から遠島で流されて来た、工人で、善助という者の長女と結婚しました。

覚瑜が
44歳のときです。

2人は、酒、ところてん、豆腐などのささやかな店を出し、また、日用品の行商などをして、流人ながらも楽しい生活を送っていました。


Uターン

そのうち、大赦があり、赦免となって、堺の発光院に帰されました。

しかし、覚瑜が戻った堺は、時代の流れで、頼るべき知人や縁者もいなくなっていたために、また、壱岐に戻ってきました。

もともとは、僧侶なので、学問をしているため、村の人たちの信用もあり、商売のかたわら、算筆の代行や、寺子屋を開いて子弟の教育などもしました。

その教え子の一人である寺の住職が、覚瑜は自分の恩師だから、手元に引き取って終生扶養したいと、村役人に願い出て、認められ、覚瑜は壱岐の住民として定住することになりました。

その後、長男はその寺を引き継いで住職になり、2人の娘も成長して農家に嫁いだということです。