遣新羅使の墓


白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)

白村江の戦いは、日本が、初めて行った、外国との戦争です。

この当時、中国では唐が、朝鮮半島では、新羅(しらぎ)と百済(くだら)が、勢力争いをしていました。

唐は、新羅と手を組んで、百済を滅ぼそうと考えていました。

このため、百済は、長い付き合いがあった日本に助けを求めてきました。

663年、大和時代、天智天皇(てんじてんのう)は、日本軍を派遣し、白村江(はくすきのえ)という場所で、戦いが始まりました。

2日間の戦いでした。

唐軍は兵隊13万人、舟170隻、新羅軍の兵隊5万人でした。

これに対して、日本軍は兵隊2万7千人、舟400隻でした。

しかし、日本軍の舟は、風下にいたために、火攻めにあい、舟400隻を焼かれ、海は、血の色で真っ赤に染まったと言われています。

結局、日本軍は、この戦争で大敗をきっしました。

この戦いの後、日本は、唐と新羅が、日本本土を攻めてくるのでないかと恐れ、百済からつれてきた多数の技術者の助けをかりて、日本本土に、土塁を築いたり、防人を派遣したりしました。


遣新羅使(けんしらぎし)

白村江の戦いで、敗れた日本でしたが、中国大陸から新しい文化を導入するためには、どうしてもこの朝鮮半島を経由する必要があります。

そのため、新羅の国には便船や通訳、食料の補給などで便宜を図ってもらう必要がありました。

天智天皇は、
親善を図る上でも、また、顔つなぎのためにも新羅へ使節団を送ったというわけです。

遣新羅使とは、大和朝廷が、新羅に派遣した、大使のことをいいます。

この頃の壱岐は、大陸に渡るための航路の中継点でした。

でも、天候待ち、潮待ちをしたり、食料を調達したりするために、立ち寄ったもので、そこに何らかの用事があったわけではありません。




雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)

736年、奈良時代、聖武天皇は、朝鮮半島に勢力を張っていた、新羅に、安部継麻呂(あべのつぐまろ)らを派遣しました。


雪連宅満はそのときのメンバーのひとりです。

雪連宅満の先祖は、
壱岐出身の占い使で、朝廷の信任の厚かった押見宿禰(おしみのすくね)です。

押見宿禰は、壱岐にある「月読神社」を、京都の
松尾大社に分霊した人です。

その縁もあって、雪連宅満は、松尾大社の、宮主
(みやじ・責任者、管理人)として、月読命をまつっていました。

また、壱岐の島司を兼ね、神祇官として出仕して卜占を行っていました。

しかし、壱岐の島司といっても、赴任は免除されているので壱岐に来て行政をしていたわけではありません。

雪連宅満は、海上で亀トという、亀の甲を焼いて吉凶を占う卜部として乗船しました。

当時、卜部は、安全な航海をする上で、欠くことのできない存在でした。



病死

しかし、新羅に行く途中、一行は、天然痘にかかってしまいました。

大使の安部継麻呂は対馬で病死、副使も病気になり参内(さんだい)できなくなりました。

雪連宅満も、壱岐の印通寺で天然痘にかかり病死しました。


雪連宅満の遺体は、印通寺港の見える小高い丘に埋葬されました。

この写真は、遣新羅使(けんしらぎし)の雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の墓です。
















万葉集

雪連宅満は、万葉集で次の歌を詠んでいます。

「大君の命(みこと)かしこみ 大船(おおぶね)の 行()きのまにまに やどりするかも」

これは、豊前(大分県)の分間(わくま)の浦で詠んだもので、一行はここで、逆風に会い難破しました。


現代語訳をすると、
天皇の命令を謹んで守り、大船で行く途中 大暴風に会い、船は風波にもまれその行くにまかせていると、思わぬところで休むようになってしまった、という意味です。







句碑

石碑には、次の句碑が書いてあります。

「石田(いわた)野に宿りするきみ、いえびとの いづらとわれを、問はばいかに言わむ」

この句は、宅満が亡くなったときに、同僚が詠んだ歌です。

現代語訳にすると次のようになります。

石田で葬られた君よ、家の人が、どこでどうしているかと、私に尋ねてきたら、何と答えたらよいのか。

それにしても、宅満の生涯をみると、現実の厳しさがあります。

都を出発して、病気になり、最愛の妻や子どもにも会うことができないまま、異郷で他界するという、まことに辛いものがあります。

結局、雪連宅満が、石田で亡くなった後、残された者たちだけで、新羅に到着しましたが、一行は、国王に会うことなく、追い返されてしまいます。

新羅が、日本からの使者を、追い返した理由は、前年に新羅から日本に来た使者を日本が追い返したからです。

日本が追い返した理由は、新羅が予告なしに国名を王城国と変えたのが日本にとって不満だったからと言われています。

目には目を、歯には歯を、ということでしょう。


持蓑(じさい)

遣新羅使や遣唐使などを派遣するときには、「持蓑(じさい)」という人が必ず雇われていました。

この人は、船先に立って、髪は手入れをしないでボサボサ状態にし、ノミやシラミもとることなく、衣服は垢(あか)で汚れていて、肉を食べないで、婦人を近づけることはない、というものでした。

そして、航海が成功すると報酬をもらい、嵐などにあって、航海が失敗すると、責任をとらされ、死刑になるという運命を持った人でした。

おそらく、これを職業にしていた人が「持蓑(じさい)」という人だったと考えられます。