壱岐の若宮神社 十七




若宮神社 新城北

祭神

仁徳天皇、仲哀天皇、應神天皇、日本武尊(やまとたけるのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)

合祀

明治3年、神嶽権現の合祀により、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)、菊理姫命(くくりひめのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)を祀る


(神様のお話)

日本武尊は、武勇に秀でていたが気性が激しく,兄を殺害してしまったことで、父・景行天王からは疎(うと)んじられていました。

そのため、父親は、九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えみし )を討伐することを命じ、そばにおくことはありませんでした。


日本武尊の子に仲哀天皇がいます。

仲哀天皇は、熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に行きます。

筑紫で、仲哀天皇は、住吉大神から、新羅を授けるという神託を受けますが、これを信じませんでした。

そのため神の怒りに触れ、朝倉宮で急死します。


仲哀天皇と神功皇后の間に、生まれた子は、応神天皇です。

海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部の制度をつくったり、剣池(つるぎのいけ)を作りました。

応神天皇と仁徳天皇は、同じ人物だという、説もあります。


応神天皇の子が仁徳天皇です。

大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)とか大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)、と呼ばれています。

人家のかまどから、炊事の煙が立ち上っていないのを見ると、租税を免除し、天皇自身も、倹約のために宮殿の屋根の葺き替えや修理もしなかった、という話しもあります。


天穂日命(あめのほひのみこと)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子です。

高天原の神々が、地上の国々を支配するために、当時、地上の国々を支配していた、出雲の大国主命のところに、高天原の神に地上の国々を譲るようにとの交渉をするための、使者を出すことにしました。

その使者として、出雲の大国主命のところに、派遣されたのが、天穂日命です。

ところが、大国主命を説得するうちに、逆に、丸め込まれてしまい、その家来となり、3年間地上に住み着いて、高天原に戻らなかった、という話があります。

ミイラとりが、ミイラになった、ということでしょうか。











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