壱岐の高御祖(たかみおや)神社 


高御祖(たかみおや)神社 


祭神

高産霊尊(たかみむすびのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)

相殿 

天日神(あめのひのかみのみこと・天照皇大神)、天月神命(あめのつきたまのみこと・月讀大神)


高産霊尊(たかみむすびのみこと)は、農耕、生産に深く関係している神様です。

娘の栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)を、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子の天忍穂耳(あめの

おしほみみ)神と結婚させ、邇邇芸命(ににぎのみこと)を出生させています。

このように、政治力のある神でもあります。

又、また、天孫降臨に先立って、邇邇芸命の安全を期すために、あらかじめ葦原中津国
(地上)の平定を計画し、

天若日子神や武甕槌神を派遣して圧力をかけたりもします。

又、大和に信仰した神武天皇に神剣を下し、八咫烏を派遣し、大和政権を樹立するために援助をしています。

高御産巣日神は、高天原の司令神として祭事、政治、軍事を司る実力者でもあります。



由来


延宝4年(1676)の式内社改め以前は、熊野権現、棚江権現、熊野三所権現と呼ばれて、庄屋があった熊本という地にあり、中葉、今の地に遷しました。

紀州田辺の熊野権現を勧請したので、田部権現とも呼ばれていました。

顕宗天皇3(487)
阿閉使主事代(あへのおみことしろ)が、命を受け、任那(みまな)に使いに出た時のことです。

月神が人にかかって言うには「我が祖、高皇産霊(たかみむすひのみこと)は、天地を造った功績がある。民地を、我が月神に献上せよ。もし言われた通りに私に献上すれば、福慶があるだろう。」と言いました。

阿閉使主事代は京に帰って、天皇にこの話をしました。

天皇は、山城国葛野郡歌荒樔田(うたあらすだ)に社殿を創建し、壱岐の月読神社の分霊を勧請し、壱岐県主の押見宿禰(おしみのすくね)に祀らせました。


月読神社に天月神命(あめのつきのみたまのみこと)を祭り、高御祖神社には天月神命の祖高産霊尊(たかみむすひのみこと)を祀りました。

延宝4年(1676年)式内社改めのとき、宮司が、箱崎八幡宮に別座で祀られていた高御祖神社の社号を、この熊野権現につけ、高御祖神社に改めていたので、橘三喜が式内社としました。


利益

御利益 ⇒ 夫婦和合、縁結び、子孫繁栄、安産祈願

昔、この神社の神の神託があり、「婦女子が、我が前で安産を祈ると、必ず加護する。生まれた子は、着衣の裾に包んで介抱せよ。

我れは女神なので、産穢(さんえ・出産の際、生まれた子の父母が受けるという穢れ)を不吉なものとして避ける事はない。

まして、懐胎している婦女子の参拝をどうして咎めることがあろうか。妊娠の始まりから産月まで参拝を怠らなかったら、安産疑いなし。」と言う。

これ以後、産婦の参拝する者が絶える事なし、ということです。



竜蔵寺

すぐ隣に竜蔵寺と言う大きなお寺があります。

この竜蔵寺との関係について、次のようなお話があります。

豊臣秀吉が朝鮮出兵をした、文禄、慶長の役で、壱岐にやって来た兵士軍が、乱暴な行いをしていたので、神主の後
善兵衛清忠は、ひそかに、御神体を隣にあった竜蔵寺に遷しました。

竜蔵寺の僧侶達は、力をあわせて、保護しましたが、その後、
この事が縁となって、竜蔵寺の僧侶達が神社にやって来て、読経などを行い、かつ、神事にまで干渉するようになりました。

また、江戸時代に、神社の造営の時、竜蔵寺の僧侶が、棟札に「宮司」と署名したので、祠官が大いに驚きかつ憤慨して当局に訴え、神職の記載に改めましたが、この事が原因で、僧侶達が恨むようになり、翌年の正月に、僧侶達が大般若経の転読を邪魔をして中断させるような悪ふざけをしたりした為に、神職と氏子の間がいつもごたごたしていた、としていたという事です。



境内

ここの、狛犬は、みごとな出来ばえです。

灯篭は、江戸時代のものです。














キリシタン遺跡

境内には、このような十字と斜め十字の文様がある、祠扉があります。

隠れキリシタンが信仰していたものと言われています。














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