壱岐の水神社


水(みずの)神社

平安時代

壱岐式内社の一つで、当初は、布気天神とか天満天神と言っていました。

延宝4年神社改め以前の祭神は罔象女命(ミヅハノメ)でした。

相殿には菅原道真を祀っています。











江戸時代

その後、江戸時代に、平戸藩主の松浦鎮信がは国学者橘三喜(みつよし)に、壱岐の式内社24社の調査を命じました。その折に、この神社のある村が「水本(みずのもと)」と呼ばれ、また、神社のある山が水本山(みずのもとやま)であったことから、この神社を水神社と推定し、今に至っています。

写真は、水本山からのわき水によってつくられているため池です。














鳥居

鳥居は肥前鳥居です。

元禄
2年、江戸時代建立です。

参道の途中にも鳥居があります。













手水鉢

学問の神様の菅原道真を祭っているからでしょうか。

二宮尊徳の像があります。

















狛犬

狛犬が出迎えてくれます。

一匹の狛犬の足元には猿が座り、もう一匹の狛犬の足元には子供がいます。

顔の表情も豊かで、どっしりとした安定感があります。

この石猿は、江戸時代・慶応3年(1867)に造られ、布気村の住人である仁造と弟子の良作・喜助・清作によって造られ、寄進されました。

2匹の猿は互いに寄り添い、肩を抱いています。

実にほほえましい姿です。









祭神

神様は、速秋津日命(はやあきつひのみこと)で、相殿に菅原道真公をまつっています。

速秋津日命は、水神で、海や川に流れ込む汚れや穢(けがれ)れを取り除いてくれる神様です。

水害や、水難等を防いでくれる神様でもあります。

そういうことからすると、当初は、この付近に大きな川が流れていたと考えることもできます。


ご利益として、交通安全、海路安全、学業成就、合格祈願、開運招福等があります。


古代、速秋津日神が、村の未申、木落浜に、着船して、石に腰かけ、鬢を掻き、その後ら、風早丘に至り、休んだ後、出発して、小川の渡りで、夜が更けたので、この川をふけ川といいます。

その後、射辻に至り、下津岩根に、屋敷を建てました。

しかし、この近くの海上を通る船は、帆を下げ、敬わなければ、祟りがあるので、海の見えない現在地の水本山に屋敷を移しました。








鬼瓦

拝殿の屋根からは威風堂々とした鬼瓦が見下ろします。

唐津から取り寄せた鬼瓦だと言われています。

この屋根には、しゃちほこ取り付けてあります。












境内

境内には、愛嬌のある猿の置き物もあります。





















右大臣と左大臣

右大臣と左大臣も癒されます。















菅原道真

菅原道真は、平安時代の政治家兼学者で、894年に遣唐使に任命されましたが、当時の唐の政治情勢が不安定だったこともあり、遣唐使の廃止を主張し認められました。

当時は、皆さんがご存じのように、藤原時平(ふじわらのときひら)の全盛時代でした。















異例の出世

醍醐天皇のとき、道真は右大臣、時平は左大臣になりましたが、時平にとっては、異例の出世で学者出身の道真が右大臣になったことは、おもしろくありませんでした。


左遷

そのため、時平は、道真が天皇の廃止をとなえたとか謀反をたくらんでいるとか、というデマを流し、それを信じた醍醐天皇は、道真を大宰府に左遷させました。

道真は船に乗って、京都、宇治川、瀬戸内海を渡り、大宰府までやってきました。

中央から、地方に流された道真は、大宰府で亡くなり、安楽寺に埋葬され、その後、関係者によって、同じ場所に大宰府天満宮が建設されました。











たたり

道真は、死後、雷神となって、自分を陥(おとしい)れた藤原氏一族や天皇に復讐を開始します。

先ず、会議場であった清涼殿に落雷し、会議中の藤原時平一族を、感電死、落雷死させました。

また、醍醐天皇もこれによりショックを受け、病死しました。


道真は死後なった雷神は雨をもたらす水神でもあります。

そういうことから、速秋津日命と菅原道真は関係があるのではないかと思われます。







イチョウ

大イチョウの木については、壱岐の木イチョウを参照。

右のイチョウは年輪を感じさせますね。

樹齢1000年以上と言われています。

壱岐では、一番大きなイチョウの木です。

長崎県でも2番目に大きな木です。

根周り10m、幹周り6m、高さ20mあります。

2回も落雷による、火災にあって、焼けてしまい、大きな穴がポッカリとあいています。

それでも、生きのびているので、生命力の強さには驚かれます。

言い伝えによると、お祭りで、綱引きをしていると、雷が落ちてきて、このように木がまっぷたつに裂けたそうです。






それ以来、綱引きを止めて、奉納相撲に変えたそうです。























乳も垂れ下り、年輪を感じさせます。

足元には銀杏の実がたくさん落ちています。




















石額

江戸時代に造られています。

この石額は、延宝4年の神社改めで、藩主松浦鎮信が奉納したものです。

























石灯籠

石灯籠は茶屋本初蔵(ちゃやもとはつぞう)が16歳のときの作といわれています。

茶屋本初蔵については祥雲寺参照