壱岐の式内社 二十四総論


 延喜式内社

平安時代、醍醐天皇は、日本全国の神社を調査して、その神社の格付けを行いました。

この格付けをなすにあたって、作成されたのが、延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)です。


そして、この延喜式神名帳に登録された神社を式内社と呼んでいます。

一方、式内社に入らなかった神社のことを、式外社(しきげしゃ)といいます。


式内社は、まず、官幣社と国幣社とに格付けされました。

官幣社とは、毎年2月の祈年祭に、各神社の祝部(はふりべ・神職)が、神祇官(朝廷)から幣帛(へいはく・神に捧げる物や金銭)を受ける神社をいいます。

国幣社とは、毎年2月の祈年祭に、各神社の祝部(はふりべ)が、国司から幣帛を受ける神社をいいます。

次に、官幣社と国幣社は、その神社の重要度や社勢、境内の面積、社殿の大小によって、大社と小社に分けます。

したがって、式内社は、官幣大社・官幣小社、国幣大社・国幣小社、の4つに分類されます。


また、上の分類とは別に、式内社の中には、臨時的・突発的に国家的な異常事態が発生したり、またはその発生が予想されるときに、その解決を祈願するためのお祈りをする神社がありました。

例えば、元寇のように、外国から侵入された場合が、異常事態にあたります。

このお祈りのことを、名神祭
(みょうじんさい)といい、その名神祭を行う神社を、名神大社(みょうじんたいしゃ)といいます。

名神大社は、特に古来より霊験が著しいとされる神様がいる神社に限定されています。




 壱岐の式内社 二十四社とは

壱岐には、名神大社が6社、大社が1社、小社が17社、計24社の式内社があります。

名神大社には、住吉神社、兵主(ひょうず)神社、月読(つきよみ)神社、中津(なかつ)神社、天手長男(あめのたながお)神社、天手長比賣(あめのたながひめ)神社の6社があります。

大社には、海(かい)神社があります。

残りの17社は、小社に指定されました。

壱岐は、小さな島なのに、式内社が多い理由は、壱岐には優秀な卜部がいたことと、
壱岐は、辺要(辺地の要害)指定を受け、国として取り扱われ、国防を厳しく行う必要があったから、と思われます。



 式内社改め

延宝4年(1676)、江戸時代、平戸藩主の松浦鎮信は、壱岐国にある式内社24社を調査し、廃れた神社があれば再建し、それぞれの神社の祭神の名前を記録し、後世に残し伝えようと思い立ちました。

そこで、橘三喜に、壱岐国24社の調査を命じました。


調査の結果を受けて、松浦鎮信は、壱岐の式内社24社のそれぞれに対して、木鏡一面と石額を献進しました。

ところが、この式内社24社の調査は、困難を極めました。

なにしろ、平安時代にさかのぼっての調査です。

廃止されて、失われている神社もあれば、神社名が変わった神社もあり、また、移転した神社もありました。


これらを、神社のあった地名や、村の長老の伝承をたよりに、調査を行いました。


その結果、神社の所在地や、神社名が間違っている個所も、いくつかありました。

しかし、一度、結論を出し、藩主に報告書を提出した後は、その間違っている個所の、変更は困難で、訂正されないまま、今日に至っています。





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