壱岐の元寇−弘安の役


弘安の役

文永の役から7年後の弘安4年(1281)、再び、フビライは日本に攻めてきました。

攻めてきた日付は、現在の太陽暦では、台風シーズンにあたる、8月20日前後にかけてでした。

その数14万人、船4400隻です。

写真の赤い点が元軍の船の数を表しています。

上陸地は、浦海海岸、天が原、瀬戸浦です。 

この弘安の役の元軍が準備していた物は、前回の文永の役と異なっていました。

それは、長期戦にそなえて、12万3千560石という大量の食糧を積み込み、さらに、鋤鍬(すきくわ)などの、農機具まで用意していたことです。

つまり、日本に着いたら、田畑を耕作しながら、長期戦で、戦争をするということを、考えていたわけです。




瀬戸浦

当時、瀬戸浦では若干19歳の少弐資時(しょうにすけとき)が船匿城(ふなかくしじょう)に住んでいました。































写真は、その船匿城跡です。

現在は原野になっています。

ここから元軍が上陸した瀬戸浦が一望できます。

当時、元軍は写真のような場所から攻めてきたわけです。

船4400隻、14万人の軍隊を見たとき、どのような感じをもったでしょうか。

想像を絶します。














勢見・戦見(せいみ)

この高台は、当時、見張り台となった場所で、この場所から、戦いの状況や、合図ののろしを、見ました。

















館所(おたつちょ)

ここは、元軍に追われて、逃げた武士や村人たちが、みな殺しになった場所です。














少弐資時(しょうにすけとき)の墓

写真は、少弐資時の墓です。

戦いはあっという間に終わってしまいました。

地元の人たちは、毎日のように少弐資時の墓にお参りしていました。

しかし、この墓が、少弐資時の墓と分かったのは明治時代になってからです。

この後、元軍が行った残虐行為は文永の役と同じです。













少弐資時の胴塚

やぶの中に、塚が見えます。

この周辺を、少弐畑(しょうにばつけ)といい、少弐資時が、戦死した場所とも言われています。

この塚は、少弐資時の胴塚(どうづか)といわれています。

少弐資時は、海上で戦死したとも、この胴塚のある少弐畑で戦死した、ともいわれていて、戦死した場所が定かではありません。

















博多へ

壱岐を攻略した元軍は博多を攻めます。

しかし、台風にあって全滅したのは皆さんが学校の授業で学んだとおりです。

12万人が死亡、3800隻が沈没しました。

日本軍は、生き残った元軍2〜3万人を捕らえ、博多の那珂川あたりで首をはねました。













隠れ穴

写真は、元寇のときに生き残った人が隠れた穴です。

壱岐にはこのような隠れ穴がたくさんあります。

隠れていた人たちの中には、赤ん坊を抱いている人もいて、その泣き声が敵に聞こえないように、きつく口を押さえていたら、赤ん坊が窒息して亡くなったという話もあります。

この場所にある穴は、壱岐では一番大きな穴で、入り口の奥行き5m、幅3m、高さ2mあります。












千人塚


写真は、元寇で亡くなった人の、冥福を祈るために、当時に作られた墓です。

千人塚と呼んでいます。

壱岐にはこのような千人塚がたくさんあります。
















碇石(いかりいし)

写真は、この近くの海底から引き上げられた船の碇石(いかりいし)です。

碇石については、元軍の船のものか日本軍の船のものか、はっきり分かっていません。

中国製の花崗岩(かこうがん)でできています。

重さは約300kg、長さは2m42cmあります。

現在、周辺の海底には、食器類、石臼、碇石の割れたものなどがたくさん沈んでいます。

















これは、芦辺漁港にある千人堂の碇石です。

上の少弐公園にある碇石と形が違っています。

地上2m、地下1mあり、単純に加えても、長さは3mになります。

こういうものを積んで、元軍と日本軍の戦いが繰りひろげられたわけで、感慨もひとしおです。
















碇石は、写真のような形で利用されていました。




















天皇家

元寇の時には、日本の勝利を祈って、いろんな人が登場します。

御家人だけでなく、僧侶や神官も加持祈祷(かじきとう)を行っていました。



















天皇家も例外ではありません。

亀山上皇は「敵国降伏」と書いた額を箱崎宮(はこざきみや)に奉納しました。

戦争が終わって、日本が神風が吹いて勝利したことが分かると、これらの利害関係者は、自分達が貢献したから、勝利したと思い、報償を求めて鎌倉に交渉に出かけたわけです。