壱岐の香良加美(カラカミ)遺跡
片苗湾(かたなえわん) |
弥生時代以前から、朝鮮半島や中国大陸との交流があった場所に、片苗湾(かたなえわん)という名前の小さな入江があります。
片苗湾は、湯ノ本湾の一角にあります。
この場所が、ここでお話しする「カラカミ遺跡」にとって、重要な場所になります。
実は、この片苗湾は、古代にはもっと入江が深かったことが分かっています。
刈田院川(かりたいんがわ) |
片苗湾に注ぎ込んでいる川に、刈田院川というのがあります。
今は、ご覧のように、田んぼの用水路のように使用されていますが、私が、子どもの頃は、もっと幅が広くて、流れも急な川でした。
この川は、古代の壱岐を2つに分けていた川といわれています。
古代には、この川の上流の2km奥まで、片苗湾が入り組んでいて、カラカミ遺跡は、この片苗湾の近くにあり、舟で行き来をしていたと考えられます。
この刈田院川は、勝本町と郷ノ浦町の境界線になっています。
山頂 |
カラカミ遺跡は、カラカミ神社を中心にして、標高30~90mの山頂や傾斜面の田畑のなかにあります。
山の斜面は、東および南を向いている暖かい丘陵地です。
比較的、高い場所にあるので、原の辻遺跡のように、農業を主体とした生活ではなく、どちらかといえば、漁業を主体として、生活していました。
遺跡の規模は、南北約500m、東西約90mの扇形にひろがる環濠集落です。
頂上部には「香良加美」と刻まれた石の祠があり、以前この地下より掘り出された石剣を宝物としてます。
時代 |
カラカミ遺跡は、今から1700万年前の弥生中期から後期にかけてのものといわれています。
弥生時代末期から古墳時代初期にはもう廃棄されて、ありません。
原の辻遺跡よりも後に始まる環濠集落です。
壱岐北部を守る有力な集落であったと考えられ、原ノ辻遺跡と共に壱岐を代表する遺跡です。
集落 |
九州大学を中心として、何回か、発掘調査が行われました。
その結果、環濠や溝が発見され、高地性の環濠集落であることが分かりました。
確認された環濠は幅約3.5m、深さ約60cmのものです。
当初、環濠の規模は、東西90m、南北250mと推定されましたが、さらに南側の低地部に直線上に延びていて、東西幅、南北長ともにさらに規模の大きいものとなると予想されています。
また、V字溝、U字溝に区切られた、貝塚、墓地、住居址が検出されました。
環濠内に集落はありません。
遺物 |
獣の骨(イヌ、イノシシ、シカ、イノシシ、ウマ、アシカ、クジラ、シャチ、イルカ、ドブネズミ等)や鳥の骨、魚の骨も多く見つかりました。
大量の犬の骨も出土しました。
貝塚も発見され、貝類(カキ、アワビ、サザエ、オキシジミ、ウニの殻)等が発見されました。
また、たくさんの、漁業関係の遺物も発見されました。
このことから、漁労や狩猟が盛んだったことが分かります。
漁労とは、川や海に生息する魚類、貝類、海藻類などを採捕することです。
漁労は単に魚などを採捕するだけのことで、漁業はその採捕が営利の目的で行われ、漁民が生活の糧を獲得するための行為といわれています。
海に潜ってさざえやあわびをとったり、釣りや網を利用して漁をしていました。
さらに、鉄でできた製品も発見されました。
鉄製品 |
石器類は少なく、あっても、極めて簡単な凹石または鼓石がわずかに他の遺物に混じっているばかりでした。
その反面、鉄器類がたくさん発見されています。
そのため、鉄器中心の遺跡だったことが分かります。
鉄器類は、さびて、腐ってしまうために、なかなか発見されませんが、これほど大量に発見されるのは、とても珍しいことです。
鉄器製品には、鉄製の小型の銛(もり)、釣り針、鉄の鎌、鉄の鏃(ぞく)、鉄製ヤリガンナ(彫刻刀)、鉄製刀子(とうす・ナイフ)等が出土しています。
写真は、鉄の鎌の一部です。
さらに、鉄を加工したり生産したりするための炉や鉄片も見つかりました。
これは、鉄でできている鍬先(くわさき)です。
これは、鉄の斧(おの)です。
土器 |
舟刻(せんこく)土器も発見されました。
ちょっと、画面で見づらいかもしれませんが、下の方にあります。
さらに、ほぼ完全な形をした陶質のつぼとかめがそれぞれ1個発見されました。
つぼは高さ13.5cmで、ろくろ仕上げで、楽浪郡古墓で発見される漢式土器に属します(楽浪郡の土器です)。
朝鮮半島の三韓土器も発見されました。
弥生式土器の作り方では、こうした陶質土器までの焼成温度を高めることはできません。
したがって、カラカミ遺跡から陶質土器が発見されたことは驚くべきことです。
これら陶質土器の発見は半島との交渉があったこと示すものであり、また土器だけを持ってきたのではなく、その中に種子か何かを入れて運んだとも考えられます。
漁具 |
漁具としては、鯨の骨で作った、大型の銛(もり)やあわび起こしがあります。
また、石錘(せきすい・石のおもり)も発見されました。
写真は、鯨の骨で作った銛(もり)です。
ちゃんと、返しもついています。
これは、ヤスです。
泳いでいる魚をつくのに使います。
これは、鉄製の釣り針です。
鏡 |
青銅器製、中国製の方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)、国産の小形仿製(ほうせい)鏡などがあります。
仿製鏡は、壱岐で製造したものか他の地域で製造したものを持ってきたものかはっきりしませんが、もし壱岐で製造していたものだとすると相当文化水準が高かったといえます。
また、仮に、よそから持ってきたものだとしても、青銅器を用いていることは、更に一段と高度に発達した文化を持っていたと考えられています。
クド石 |
石でできています。
この上に、土器を置いて、食糧を煮ていました。
今でも、使えそうです。
捕鯨 |
この付近では、入り江に来た鯨を獲っていました。
クジラ、シャチの肋骨で作った銛やあわび起こしに使用した骨でできた剣など数多くの骨角器が出土しているので、シャチに追われ入り江に逃げ込んだ鯨を捕獲したと考えられます。
近くには、「鯨伏(いさふし)」という地名もあります。
農業 |
現在でも、刈田院川の流域では、水田耕作が行われています。
また、丘陵地ではイネやコムギの種子も発見されました。
そのことから、農業も行われ、漁業をしている人たちと、漁獲物とコメなどの穀物や、衣類、鉄器などとの交換が行われ、農民と漁民とは相互扶助的に、共存していたことが分かります。
もちろん、原の辻に比べると、農業の規模は小さいものです。
交易 |
漁業のほかに、対馬や朝鮮半島との交易をしていたとも思われます。
占い |
占い用の道具として利用したシカ、イノシシの肩甲骨である「ト骨」(ぼっこつ)も発見されています。
ト骨とは獣骨をやいてそのひび割れを見て事の吉凶を判断することです。
壱岐は卜占(ぼくせん)の先進地でした。
貴重な鹿卜も発見されたことや、付近の地名などからも考えて、この遺跡は、高度の文化を持ち、「カラカミ」を守護神とする大陸からの集団が渡来し、この地に居住していたのではないかと推測できます。
占い方 |
弥生時代には、骨の面を直径5mm前後の大きさに点々と焼き、そこにできるひびの形を見て占いました。
古墳時代以後は、焼く面とひびを見る面とを分けて、片方の面に小さな穴をいくつか彫って、内部を焼き、反対側の面に焼けひびを生じさせて占いました。
また、開ける小さな穴の形も、初めは平面が円形でしたが、古墳時代後期から奈良時代にかけては、縦4mm、横6mm前後の長方形になり、内部を十字型に焼くようになりました。
なお、亀のこうらを焼く場合には、大きさがはがきの縦半分くらいで、厚さが3~4mmくらいに切った、亀のこうらの腹の部分に、長方形の小さな穴を開け、その穴の中を、十字型に焼きました。
穴は、火をつけた、細い棒の先を押し当てて、焼き跡をつけました。
使用した動物の骨としては、最初は鹿の骨を使い、のちに赤海亀のこうらを使うようになりました。
鹿や亀がいない場所では、イノシシの肩甲骨(けんこうこつ)やフグの脊椎(せきつい)の骨を使用しました。
環濠の外 |
環濠の外では、建物跡の柱穴が見つかっています。