壱岐の天ケ原遺跡


天ケ原海岸

壱岐の北部に、天ケ原海岸という、見晴らしが良く、景色のとてもきれいな海岸があります。

この海岸は、鎌倉時代に元軍が攻めてきた場所でもあります。

昭和36年2月、宮坂組という土木会社が、護岸工事をしていたときに、偶然、中広型銅矛が、3本並べて、置かれているのを発見されました。

長さ80cm、幅8cmの大きさの銅矛でした。

発見されたのは、「セジョウ神」と呼ばれている、石の祠(ほこら)の、下からでした。












銅矛(どうほこ)

この銅矛は、もちろん、壱岐で作られたものではありません。

銅矛は、弥生時代に、青銅を原料として作られました。

写真のように、両刃で、中央に鎬(しま)があり、その両側に樋が通っています。

もとの方は、円筒状になっていて、これに長い柄を挿入するようになっています。

銅矛は、もともとは、中国で、武器として使用されました。

その後、1〜2世紀にかけて、中国大陸から朝鮮を経て日本に輸入されました。

日本国内でも、模造品を当然、作るようになりました。

北九州では矛の鋳型も発見されています。

壱岐で発見されたこの銅矛は、国産品です。

銅矛は、日本では、武器としてではなく、海人族が、航海の安全や悪いものが壱岐の島に入って来ないようにと、魔よけとして祈るための、いわば、祭祀用として使われました。

天ケ原は、朝鮮半島にも、一番近い距離の場所にあるので、朝鮮に向けて壱岐を、出発する船の航海の安全を、この場所で、祈る気持ちも良く分かります。

壱岐で発見された銅矛は、写真にもあるように、幅がとても広く、武器としてはとても、使えません。

銅矛は、対馬では130本以上も発見されていますが、壱岐では、完全な形では、天ケ原遺跡からの3本と熊野神社に保管されている1本の合計、4本しか発見されていません。

あと、原の辻遺跡からも、銅矛の断片らしきものが、発見されています。

でも、弥生時代に、中心都市であった「一大国」で、銅矛が少ないのは、不思議と言えば不思議な話しです。


周辺

こ周辺は、昔から、遺跡の宝庫でした。

串山貝塚、ミルメ浦遺跡などがあり、箱式の石棺や土器、須恵器の破片がゴロゴロしていましたが、道路工事でなくなってしまいました。


とても、残念なことです。













千人塚

天ケ原海岸は、鎌倉時代に元軍が上陸した場所でもあります。

今は、写真のような、千人塚が、元寇のときの、犠牲者の冥福を祈って、建てられています。

周辺は、小高い丘になっていて、元寇にあったとは思えない、風光明媚な場所です。











地層

天ケ原の地層です。

赤っぽい地層が見えます。

これは、昔、火山活動によって、吹き出した、溶岩が、冷えて固まり、溶岩の中に含まれていた、鉄分が、酸化して、赤くなったものです。

この、赤っぽい色の、溶岩の上に、玄武岩が重なっています。

壱岐の代表的な地層です。