壱岐の鬼屋窪古墳
鬼屋窪古墳(おにやくぼこふん) |
7世紀末、古墳時代後期に造られました。
左右に袖がある、両袖型をしています。
長い間の風化により、封土は完全に消失ていて、長さおよそ4mの内部の石室だけが完全に露出してしています。
今は、玄室だけしか残っていませんが、造られた当時は、石室が複数ありました。
横穴式石室です。
玄武岩で造られています。
円墳です。
線刻画 |
2ヶ所に捕鯨の線刻画があります。
ここの古墳は海岸の近くにあるので、被葬者は、漁労か航海に従事していた人物ではないかと推測されます。
3隻の舟があって、そのうちの1隻は、8本のかいがついています。
舟の前方に、鯨らしきものが描かれていて、この鯨と船首との間に1本の線が描かれています。
おそらく、銛(もり)が鯨に打ち込まれていて、1本の線は今で言うロープでしょう。
この絵の下の方にも2隻の舟が描かれています。
そのうちの、1隻の舟には5本の櫂(かい)が描かれています。
ただ、この時代の捕鯨は、海岸に漂着した鯨や、沖合いを漂流している鯨を引き上げたり、湾内に迷い込んだ鯨を囲んで、捕っていました。江戸時代のように、積極的に沖に出て、鯨を捕っていたのではありません。
室町時代に、紀州熊野の鯨組の日高吉弥(ひだかきちや)が、壱岐に来て、鯨を捕りました。
これが、壱岐における最初の捕鯨といわれています。
鬼屋窪古墳は、 長崎県内で初めて発見された装飾古墳です。
近くには、海曲と呼ばれている海岸があります。
このことから、被葬者は、漁労か航海に従事していた人物と思われます。
舟の線刻画がある古墳は、百田頭古墳など、数か所あります。
当時の、漁業関係者の暮らしを反映しています。
勢子舟 |
江戸時代から明治時代にかけて、江戸の油屋、肥前大村の深沢義太夫、江戸時代最大だった生月の益富、平戸の谷村、勝本の土肥、瀬戸の布屋、芦辺の篠崎、郷ノ浦の許斐(このみ)など17の鯨組が、壱岐で鯨を捕りました。
これは、西八幡神社にある鯨を捕るための勢子舟(せこぶね)の絵馬です。
勢子舟の絵馬は非常に珍しいものです。
勢子舟は、鯨を追いかけて銛(もり)でつく舟です。
いわゆる、キャッチャーボートです。
勢子舟の長さは20m、幅は3m、重さは10トンくらいありました。
なんとなく、赤っぽい色をしていますが、この色は、鯨をおどかすためのもです。
誰が奉納したのか定かではありませんが、捕鯨業に従事していた人からの奉納と考えられます。
この写真からは、はっきりしませんが、上の絵馬の中央に、丸の紋があって、「初山村 明治廿・・年・・・西村」という書き込みと、牛の角の紋が描かれています。
丸の紋と牛の角の紋は、江戸時代に生月島を本拠地として鯨をとっていた益富組の家紋です。
壱岐にも進出していました。
益富又左衛門も、捕鯨を始めた当初は、なかなかうまくいかず、山に、首つりの場所を求めてさまよったと言われています。
しかし、その時、前方に立ちふさがった、牛を見て、自殺を思いとどまり、その後、牛の角2本を、益富組の旗印にしたほどです。
その、益富組は明治8年頃に解散しているので、明治20年代のこの絵馬が益富組が奉納したものとは考えられません。
答えはこれからの研究に待つところです。