国津神社(こくつ神社)
古号 |
延宝の神社改め以前は、この神社のことを、荒波加大明神とか、蓬の宮(ふつのみや)と、呼んでいました。
そういうところから、蓬(ふつ)と布都とをかけて、この神社は、壱岐国式内社二十四社のひとつである、物部布都神社(ものべふつじんしゃ)ではないか、ともいわれています。
祭神 |
祭神は、足名槌(あしなづち)命、手名槌命(てなづちのみこと)、奇稻田姫(くしいなだひめ)命です。
渡良村の氏神で、大漁祈願、豊作祈願、縁結び、夫婦和合などの神様です。
手名槌命は、櫛稲田姫(くしいなだひめ)命の母親です。
足名槌命は、櫛稲田姫(くしいなだひめ)命の父親です。
櫛稲田姫は、八俣大蛇(やまたのおろち)という大蛇に食べられようとしているところを、通りかかった、須佐之男命(すさのおのみこと)に助けられ、結婚します。
武甕槌(たけみかづち)命は、次のようにして、生まれました。
伊邪那美命が火の神、迦具土(かぐつち)命を産んだときに、迦具土(かぐつち)命の炎で、女陰が焼け、それが原因で、伊邪那美命は亡くなりました。
それを知った夫の伊邪那岐命は、持っていた十束剣(とつかのつるぎ)で、神迦具土命を三つに切って、殺してしまいます。
このとき、十束剣についていた血が、岩に飛び散ったときに生まれた神が、 武甕槌(たけみかづち)命です。
武甕槌(たけみかづち)命は、もともとは、鹿島の土着神で海上交通の神です。
また、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命令により、出雲 の大国主神と国譲りの話し合いをした神でもあります。
神功皇后 |
神功皇后が、三韓征伐に出かけた時、常陸国鹿島大神が、48艘のかじ取りとなり、この村の神の崎に着船しました。
そのとき、鹿ノ辻に上り、西の海を見ると、海面が荒れていました。
神功皇后は、村人たちを呼び、縄碇を作るように村民に頼みましたが、すぐには、出来ないという返事でした。
そこで、神功皇后は、「異国を退治して、無事、帰朝したら、ここの守護神となろう。だから、一生懸命に早く、作ってくれ。」と、頼みました。
村人たちは、命令に従い、すぐに縄碇を献じ、神功皇后は、三韓に向けて、神の崎を出帆しました。
神功皇后は、三韓征伐を終えて、難なく、帰朝し、鹿ノ辻に神殿を設けました。
しかし、その後、現在の地、矢櫃山に遷りました。
明治の神社改制までは、祠官2名を置いていました。
また、国主や藩主の崇敬も篤く、例祭日には、国主に代わっての参拝があり、たくさんの献上もありました。
明治40年には、神饌幣帛料供進神社に指定されています。
青波加大明神 |
成務天王のとき、異国を征伐することにし、阿倍、鳥海2氏を派遣しました。
2氏は、8万余艘の舟を率い、まず、渡良の港に着きました。
このとき、「異国を征伐し、三韓から無事帰ったら、鹿島神を奉る」と、祈り、誓いました。
よって、三韓から、無事に帰り、鹿の峰に社を建てました。
この神社に「荒波加大明神」を祀りました。
しかし、その後、神社の前を通る船が、ことごとく破損しました。
そこで、船の見えない、この場所に移し、号を「青波加大明神」としました。
青波加大明神は、武甕槌命の荒御魂で、近海を航行する船は、帆を下げて敬意を表わしていました。
帆を下げて、敬意を表さない船は、神罰を受けたという事です。
甕石大明神 |
むかし、伊豆半右衛門の、遠い祖先の者が、小浜(今の神田浦)に行ったとき、沖から甕が寄って来ました。
男は、この甕を見て、沖につき出しましたが、すぐにまた戻ってきます。
男は、「この甕は、神様なので、人のいる浦に着いたのだろう」、と考えました。
そして、神でなければ、そのようなことはない」、と、言って、また、つき出すと、すぐに、また、この小浜に寄り着きました。
そこから、その浦を神田といいます。
人々は、その甕を、今の神殿の、右の傍に埋め、その上に石を置きました。
その石を、名付けて、甕石といいます。
延宝4年、橘三喜が、この甕を掘らせると、矛、鏡、菊花石等が、甕のなかに入っていました。
それらは、幾千年を経ていても、全く曇りがありません。
三喜は、これを神殿に納め、三宝としました。
甕は、もとのところに埋め戻しました。
その場所は、宝殿の右傍にあります。
上に石を置いたので、甕石大明神といいます。
鳥居 |
この神社には、立派な鳥居が2つあります。
一の鳥居は、明時代に建てられました。
二の鳥居は、江戸時代に建てられました。
狛犬 |
みごとな狛犬です。
江戸時代に造られています。
古木 |
みごとな、イヌマキの木です。
幹のねじれ具合は、年輪を感じさせます。
どうしたら、このようなねじれた幹になるのでしょうか。
ヤマザクラの木も、古く、毎年、きれいな花を咲かせてくれます。
灯篭 |
この灯篭は、江戸時代に造られました。