壱岐のヘレン・パーカスト



ヘレン・パーカスト

ヘレン・パーカストは、1887年、アメリカ合衆国のウィスコンシン州のデュラントで生まれました。

ウィスコンシン州立教育大学を卒業後、小学校の教師を8年間勤めた後、ローマ大学やミュンヘン大学で学びます。

アメリカに戻ってからは、ウィスコンシン州で、高等学校の教師となり、その後、校長に就任しました。













ドルトン・プラン

ヘレン・パーカストは、高校の教師をしている時に、いわゆる、ドルトン・プランと呼ばれている、教育方法を確立します。

ドルトン・プランによる、教育方法は、アメリカ合衆国のみならず、ヨーロッパや日本にも、大きな影響を与えました。

日本にも、6度に渡って訪れ、大正時代の自由主義教育に大きな影響を与えました。

ドルトン・プランによる、教育方法とは、次のようなものでした。



自由

まず、クラス制度や時間割りを廃止します。

生徒は、自分で、自分の個性や能力に応じて、科目ごとに、1ヵ月間にどの科目をどこまで学習を進めるか、という学習計画をまず立てます。

自分で、1ヵ月間の学習計画を立てたら、生徒は、教師と、1ヵ月間にどの科目をどこまで学習を進めるかを、約束します。

生徒は、この計画にそって、自習し、その結果を、教師に提出し、合格すると、ポイントをもらい、それを、教室の後ろの壁に貼ってある、学習進度表の升目を、指定された色で、塗りつぶしていきます。

生徒は、自分の能力に応じて、学習を進めていくことができ、また、教師も、生徒の学習進度を、学習進度表から、すぐに判断できます。

教師は、一人で、何科目も、指導するのではなく、自分の専門科目だけを、指導します。


協同

週に一回、クラス会議を行い、それぞれの、進度表の問題点を、チェックしあい、議論や討議をします。

また、
個人が直接所属している集団だけではなく、さらに種々の異なる集団とたえず交流させ、他と離れては生活できないことを分からせます。

教師は、子どもと学校、子どもと他の教師、子どもと親との関係、親と学校との関係を、うまくまとめる役目を果たします。


 

宿題

教師は、 時間の使い方を身につけさせるために、学習意欲を引き出すことのできる、分量の宿題を与えます。

宿題は、多過ぎてはいけません。

宿題を少し与えることによって、生徒が、「もっと宿題が欲しい」と感じ、学習意欲が高まります。

また、学年が上がるにつれて、宿題は、短期的なもの(1日15分)から、長期期間(6週間から8週間分)のものを、まとめて出すようにします。

長期分の宿題は、一日で片付けることは出来ないので、自分で時間を上手に使い、計画的に取り組まなくてはなりません。

両親の役割は、「いかに自分の時間を上手に使うか」
を教えることにあります。

両親は、宿題を教えることはありません。

こうすれば、生徒たちは、宿題という教師との約束事を、自分の責任で果たすようになり、責任感と独立心が育っていきます。




教師の役割

教師は、一方的に教えるのではなく、指導と相談という形をとります。

教師は、自分が受け持っている、専門科目の教室にいて、
生徒と一対一で、与えられた宿題をどの様にして調べていくのかを話し合います。

「自分はこうしたい」、という生徒の意見や主体的な姿勢を最大限に尊重し、助言を与えます。

こうして教師と生徒の関係が深まれば、教育的に良い効果をもたらすだけでなく、生徒は積極的に発言し、それに責任を持つようになります。


壱岐でのヘレン・パーカスト

1924年(大正13年)、東京に来ていた、ヘレン・パーカストの講演会に、壱岐の学校長全員が、はるはるばる上京し、その講演を聞きました。

その折りに、ぜひ、壱岐にも来てほしい、と頼むと、壱岐に行く、という返事をもらうことができました。

当時、壱岐では、郷ノ浦町にある盈科(えいか)小学校の校長本田清信が、ドルトン・プランによる教育に共感し、盈科小学校で、実践にふみきっていました。

勝本港で上陸し、壱岐に来たときの歓迎振りには、ものすごいものがありました。

教育委員会の関係者をはじめとして、壱岐の十六校の校長や、かり出された一般市民、児童等が、日米の国旗を打ち振りながら、万才を連呼しつつ出迎えました。

勝本町から郷之浦町の平田旅館に、自動車で向かう途中でも、ヘレン・パーカストを、道中、小学校の児童や女学生が熱狂して歓迎しました。

夜は夜で、平田旅館前では、盈科小学校の六百人の児童がかり出され、提灯行列が行われました。

翌日、彼女は、又も歓迎を受けつつ、盈科小学校に赴き,ドルトン・プランの教室を熱心に参観し、次のような感想を述べています。

ドルトソ・プランの三要素がよく現れていること、児童の学習態度が実に良好であること、壱岐の教育王国でこの進んだダルトン・プランを発見して大変嬉しく思うこと、などです。

パーカストは、盈科小学校の教育の実際を見て非常に喜び、玄関のわきに記念植樹をして帰っていきました。

パーカストが、壱岐に来たときの様子が報道されると、壱岐における教育の名が高くなり、郡外からの視察者も来るようになりました。

ここに、壱岐は教育王国だ、などと言う人もおりました。




その後のドルトン・プラン

パーカストの来島後、壱岐では、ドルトン・プランが、さらにみがきをかけて、実践されていきました。

翌年の大正14年には、小学校での実地指導、成城学園への研究派遣、教師に対する講習会、アメリカ視察など、盛んに行われました。

昭和2年頃までは、ドルトン・プランに関係のあることは、行われていましたが、昭和3年以降は、行われなくなりました。

その理由は、分かりません。

ドルトン・プランは教師の手抜きであり、生徒の学力低下を招き、進学に不利である等の批判があった、とも言われています。

日本の教育界は、型にはまった、生徒を育てるための、管理教育的な面が多いので、自由に育てられ、積極的に、誰に対しても、遠慮なく、自己主張できるような、生徒を育てることは、ときの教育管理者にとっては、煙たい存在だったかもしれません。

出る釘は打たれる、とも言いますし。

 

熊本利平

熊本利平は、現在の石田町印通寺浦で生まれました。

ドルトン・プランを、実践していくには、多額の資金がかかります。

ドルトン・プランの実施を、財政的な面から援助したのが、熊本利平です。

大正十年から毎年実施された、島外から有名講師を招いての、教師に対する夏期講習に対する財政面での全面的なバック・アップ、ドルトン・プランを先駆的に採り入れていた、東京の成城学園への青年教師の派遣、
留学生の派遣、石田小学校敷地及び講堂の寄付などです。

 





本田(久田)清信

本田清信は、壱岐市芦辺町で生まれました。

長崎県師範学校(ながさきけんしはんがっこう)を卒業後、ドルトン・プランを壱岐の盈科(えいか)小学校に導入しました。

ドルトン・プランの創始者であるヘレン・パーカストが、壱岐を訪問したこともあり、その後、壱岐は、教育王国と呼ばれるようになりました。

盈科小学校の校長時代には、アメリカに渡り、ドルトン・プランの教育視察も行っています。

退職後は、県議会議員に4回当選したり、長崎県教育委員長などを、歴任しました。

晩年は、久田家に養子になり、久田清信と、改名しています。

ドルトン・プランは、今日の主体的学習グループ活動等に、生かされています。

製茶や葉タバコなどの産業も奨励し、これらの功績から1960年(昭和35年)に芦辺町名誉町民となりました。

他界後、芦辺町にある那賀小学校の校庭に、記念碑がたてられています。



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