壱岐の源三神社
源三神社(げんぞうじんじゃ) |
皆さんは佐倉惣五郎の話を知っていると思います。
その佐倉惣五郎と同じような道を歩いたのが壱岐の百姓源三という人です。
江戸時代の壱岐では、農村は大和朝廷が採用した班田収受の方法と同じ方法がとられていました。
農民の田畑は平戸藩のもので個人所有が禁じられていました。
そして、田畑は、一定の期間がくると、家族構成や耕作能力に応じて各農家に再配分されました。
これを地割りといいます。
ところが、割奉行の中尾丹弥(なかおたんや)が、自分に有利なように地割りを行いました。
中尾丹弥は役人であると同時に農業もしていましたが、自分や一族の農地を自分地の住居から近い場所にしたり、一等地を割り当てたりしていました。
源三は、この不正を訴えるために壱岐から江戸に上り、11代将軍の徳川家斉に直訴をしました。
当時、直訴をすると死刑になったという時代でした。
中尾丹弥は刺客を送り、源三を暗殺しようとしますが、源三はうまく逃れて、壱岐を脱出し、江戸へ向かいました。
直訴の後、捕らえられた源三は平戸藩に差し戻され死刑を言い渡され百間馬場(ひゃっけんばば)というところで処刑されました。
当時43歳でした。
左の写真はその源三の墓です。
右上の写真は源三を祀ってある源三神社です。
それにしてもこの墓石、相当な大きさです。