壱岐の倭寇
海賊 |
壱岐は、鎌倉時代に、元寇という大きな経験をしました。
そして、鎌倉時代に続く、南北朝時代の後半から、室町時代にかけて、壱岐、対馬、松浦、五島列島の住民は、一致団結して、朝鮮半島や中国大陸沿岸で、海賊行為をするようになりました。
また、海賊行為が、だんだんエスカレートするにつれ、朝鮮半島や中国大陸沿岸を荒らしまわるだけではなく、朝鮮半島内部にまで侵入して、朝鮮の人たちを拉致(らち)して、日本で働かせたり、米や大豆などの物資を略奪するようになりました。
これが、後に、「倭寇」と呼ばれた海賊集団です。
倭寇という言葉は、日本でつけられた言葉ではなく、朝鮮や中国が名づけた言葉です。
「倭」という文字は日本人、「寇」という文字は侵略という意味です。
元寇というと、元による侵略という意味になります。
この、倭寇の時代は、歴史的には、前期と後期に分けて、区別しています。
前期倭寇は日本人中心であったのに対して、後期倭寇は中国人中心でした。
前期倭寇 |
前期倭寇は、南北朝時代後半から、室町時代前半にかけての倭寇をいいます。
壱岐は、元寇でほとんどの人達が殺され、田畑は荒れ放題になり、とても、農業をして作物を作る状態にはありませんでした。
たとえ、作物を作ったにしても、収穫までには数ヶ月〜半年はかかります。
また、作物を作ろうと思っても、苗はないし、青年男子の働き手も殺されてしまっていません。
このようなことから、この時期、壱岐の人達は、今日、食べるものにもことかくありさまでした。
このようなとき、南北朝時代後半に、九州本土から、海賊の集団が、寄港地を求めて壱岐にたくさんやってきました。
この、南北朝時代の後半の倭寇のことを、前期倭寇と呼んでいます。
阿只抜都(あきばつ) |
前期倭寇の代表的な倭寇は、阿只抜都(アキバツ)という名前の少年を中心としたものです。
阿只抜都は、当時、15、6歳の少年で、イケメンで、壱岐松浦党の中心人物でした。
白馬にまたがって槍 を振り回し、向かうところ敵無しといった有様だったといいます。
1380年、9月、南北朝時代後半、阿只抜都は、500隻の船で、高麗沿岸を襲い、さらに、朝鮮半島内部の、南原山城(なんげんざんじょう)まで、攻め込みました。
李成桂(りせいけい) |
阿只抜都を、迎え撃ったのは、高麗の武将、李成桂(りせいけい)でした。
先ず、高麗軍は、500隻の日本の船を、火砲で、焼いてしまいました。
また、李成桂は、当初は、阿只抜都を、生け捕りにする予定でしたが、生け捕りにするためには、味方の犠牲者が多くでると、いうことが分かりました。
このため、李成桂が、弓で、阿只抜都の兜(かぶと)を射落とし、部下の豆蘭がこれを射殺しました。
総大将と船を失った倭寇軍は、怒って、暴徒化し、ますます暴れまわり、一時、全くのお手上げの状態になりました。
この戦いは、壮絶をきわめ、近くの川は、戦死者の血で、一週間くらい赤く染まりました。
結局、高麗軍はの勝利に終わるわけですが、倭寇が、このように、朝鮮半島内部まで、攻め込んだということは、相当の力を持っていたことになります。
李成桂は、高麗が滅んだ後は、部下の進めもあって、李氏朝鮮という国をつくることになります。
略奪 |
右の写真は、朝鮮半島に上陸して略奪をしているようすです。
社会の教科書でおなじみの図ですね。
倭寇は、元寇で生き残った対馬、壱岐、松浦、五島列島などの住民が中心でした。
元寇では、壱岐は侵略された側でしたが、倭寇では、逆に侵略した側にまわったわけです。
壱岐の倭寇は、背に腹はかえられない、というせっぱつまった状態から始まったのです。
でも、倭寇は、もともと九州本土からやって来た海賊ですから、壱岐に住んでいた住民が、はたして、どのくらい参加していたのかは分かりません。
壱岐は、2度にわたる元寇で、壊滅的な被害を受け、住民はほとんど残っていなかったのですから。
倭寇が奪った品物や人は、その後どのように処分されたのでしょうか。
ある本によると、捕らえた人間は日本に連行されて奴隷として使われたり、略奪品は、琉球や東南アジアの各地に持っていって貿易品として利用されています。
松浦党 |
壱岐での、倭寇は、5人の海賊を中心にして行われました。
5人はいずれも九州本土の松浦から渡ってきた海賊でした。
この5人は、それぞれ、壱岐では、分かれて生活し、思い思いに、海賊行為をしていました。
ただ、領土をめぐっての、争いや、小競り合いや謀略はあったらしく、お互い、けん制しあって、生活をしていました。
次に、この5人組を、紹介しましょう。
五人組 |
先ず、今の印通寺港で荷物の積み上げをし、湯岳(ゆたけ)の賭城(とじょう)に住んでいた志佐氏(しさし)。
今の勝本港で荷物の積み上げをしていた佐志氏(さしし)。
唐津の呼子からやって来て、現在の長栄寺近くにあった白石城または立石城に住み、渡良(わたら)にある港で荷物の積み上げをしていた呼子氏(よぶこし)。
今の半城湾(はんせーわん)で荷物の積み上げをし、物部の大屋(郷ノ浦町営住宅付近)に住んでいた鴨打氏(かもちし)。
今の芦辺港近くで荷物の積み上げをし、当田という場所にあるつるかけ城に住み、観音寺とも関係がある塩津留氏(しおつるし)などがいます。
後期倭寇 |
後期倭寇の、中心人物は私貿易(密貿易)を行う中国人で、日本人は、10人中3人くらいしかいなかったといわれています。
代表的な倭寇として、王直(おうちょく)がいます。
王直は、中国人でしたが、五島列島や平戸を本拠地として、活躍しました。
さて、皆さんは、学校の歴史の学習のとき、種子島に、鉄砲が伝来した、ということを学んだと思います。
この、種子島の鉄砲伝来には、王直が関係していたことは、あまり知られていません。
王直は、日本に興味を持っていたポルトガル人数名を、船に乗せて、日本に向かう途中、種子島で台風に会い、1ヶ月の漂流後、種子島に漂着しました。
このとき、ポルトガル人は、日本に鉄砲の、売り込みを考えていました。
で、このとき、通訳をしたのが王直です。
同時に、王直は、鉄砲を撃つのに、欠かせない、火薬の原料である硝石を売り込もうとしていました。
余談ですが、ザビエルという人の名前を覚えていますか。
そうです。
日本にキリスト教を初めて、伝えた人です。
実は、このザビエルを、日本に運んだのも、王直です。
王直は、最後は、明王朝によって、逮捕され、処刑されてしまいます。
波多泰(はたやすし) |
波多泰(はたやすし)は、海賊の利益に目をつけて、突然、平戸から壱岐に、攻め込んできました。
波多泰は、今まで壱岐を分冶していた5人を覩城の戦いで滅ぼして、新しく壱岐を支配しました。
生池城 |
さて、壱岐では、倭寇の本拠地はどこにあったでしょうか。
左の写真は、城山(じょうやま)と呼ばれている場所です。
この山の高さは145mあります。
この山の頂上に倭寇のお城がありました。
お城の名前を生池城(なまいけじょう)と呼んでいます。
周辺は、急斜面になっていて、簡単には登ってこれません。
また、山のふもとは、池や沼地があったものと思われます。
ここに、倭寇の源壹(みなもとのいち又はみなもとのさかん)の本拠地があったといわれています。
写真の溝のように見えるのは、空堀(からぼり)です。
空堀は二重に掘られています。
深さ3m、幅1.5mあります。
裏稼業 |
源壹は、表向きは、朝鮮から貿易の許可証をとり、正規の貿易を行う商人でした。
しかし、裏では、朝鮮や中国沿岸を荒らしまわった海賊でもありました。
そのため、ここで生活していたのではなく、敵が攻めてきたときに、戦う防御施設であったと考えられます。
城主や家族は別の場所に住んで生活していました。
昼なお暗いこの場所はうっそうとしていて、背中がゾクゾクしてくる場所です。
生池 |
ここは、生池と呼ばれている場所です。
今は、水神を祀った小さな祠(ほこら)があります。
ここに祀ってある神を袖取神ともいいます。
袖取神については、次のようなお話があります。
この祠を通っている道路は、昔、国分から本宮や勝本に抜ける街道でした。
ある晩、一人の武士がここを通っていたら、一人の女が、後になり、前になりついて来ました。
武士は、怪しいと思い、その女を斬り殺しました。
その女は、「キャーッ」、と言って、逃げましたが、その時、武士の着物の左の袖がなくなっていました。
それ以後、この神を袖取神とも言うようになりました。
昔、生首をたくさん投げ込んだ場所であるとか、河童(かっぱ)がここで人を生け捕りにしていたとか、物騒な話も伝わっています。
頂上にある生池城で必要な水を汲んでいた場所です。
今は干上がって埋まってしまい、ただのくぼ地になっています。
当初は、縦、横5mくらいありました。
お宝伝説の章で話しています「王子五郎」やお伊勢さまに関係する場所も倭寇の根城といわれています。
鶴懸城(つるかけじょう) |
この山の頂上にも倭寇の本拠地がありました。
鶴懸城(つるかけじょう)と呼ばれています。
倭寇の塩津留氏が建てたものです。
山の中に入ると、大きな石がごろごろしています。
たぶん、城の建築に使用したものと思われます。
周辺は、今はダムになっています。
山の頂上に鶴懸城があります。