壱岐の神社総論


壱岐にはたくさんの神社があります。

大小合わせれば、その数、1000社以上ともいわれています。

ここでは、ほんの一部のみの神社を紹介しますが、他にもたくさん、素晴らしい、神社があります。

ぜひ、壱岐にいらして、ご覧になってください。


注連縄(しめなわ)

壱岐の神社ところで、神社につきものの、注連縄(しめなわ)というものがあります。

あの、しめなわは、どういう意味があるか、ご存知でしょうか。

しめなわは、
境界を表し、そこから先は、神様の縄張りで、神聖な場所であることを意味し、不浄なものの侵入を禁ずる印となっているものです。

また「しめ」とは、神様が空間の場所を「占める(占有)」や「締める」という意味と、同時に、「示す・標す」なども意味しています。

天の岩戸の神話で、天照大神が、隠れていた岩戸から引っ張り出されたときに、2度と岩戸に戻ることができないように、稲わらをなって、しめなわをつくり、岩戸に張りめぐらせた事から始まりました。










参拝

次に、神社の参拝の仕方をお話します。


(1)鳥居のところで

                                                                
鳥居は、神様の領域と人間界の領域とを分ける境界線です。

注連縄(しめなわ)が張られていることもあります。

鳥居をくぐるときには、その下で軽く一礼します。

鳥居の先には参道があり、左右に神様に灯明をあげるための灯籠が並んでいます。



















拝殿手前の両側には、魔物を神域に近づけないための魔よけの狛犬(こまいぬ)が一対あります。

狛犬は、写真にもありますように、片方が口を開け、片方が口をつぐんでいます。

これを、「阿吽(あうん)の呼吸」と呼んでいます。

夫婦仲もこうありたいものです。












(2)
手水舎(てみずや)のところで

 ここでは、手と口を清めます。

 @まず右手で柄杓(ひしゃく)を取り、清水をくんで、左手にかけて左手を清めます。

 A
次に柄杓を左手に持ち替えて、同じように右手を清めます。

 B再び柄杓を右手に持ち、左の手のひら水を受けて口をすすぎます。

  このとき、直接柄杓から口をすすがないようにしてください。

  衛生上からも良くないし、口紅もつきますからあまり良いものではありません。

 C口をすすぎ終えたら、もう一度口をつけた左手に水を流します。

 D
最後に水の入った柄杓を立て、柄に水を流し、柄杓の柄を清めます。

 E柄杓置きに伏せて置きます。

 F濡れた手をハンカチや手ぬぐいなどで拭きます。



(3)神殿前で

 
神殿に向かう道を参道といいます。

参道の中央は神様が通り道なので、皆さんは、神様ではないので、参道のはしを歩きます。
 
神前で拝礼をするときは中央に立ってもかまいません。
 

また、賽銭箱にお金を入れてから、鈴をならしてもいいし、鈴を鳴らしてから賽銭箱にお金を入れてもかまいません。

 @まず、そっと賽銭箱にお金を入れます。そーっとですよ。

 そのときにお金を投げ入れてはいけません。神様に失礼にあたります。

 A鈴をならします。
 
 B2回礼をします。

  直立の姿勢から90度に腰を折り、頭を下げます。
  
 C
2回拍手をします。
 
  このとき、両手を胸の高さで合わせ、右手を少し引いて、2回拍手を打ちます。

  手をたたくときに、音を立てないようにする人を、ときどき、見かけます。
  
  しかし、音を立てない拍手は忍び手」といって、葬儀の際の作法です。

  男女共に「2礼、2拍手」をします。


 D胸で、きちんと両手を合わせて、お祈りをします。
 
  まず、今、元気でいることや感謝の気持ちを神様に伝えてください。

 
 その後「試験に合格しますように」「お金がたまりますますように」「健康でありますように」などとお願いします。
 
  その際、名前と住所を伝えることを忘れないでください。

 
  願い事が叶うかどうかは、あなたの、これからの「努力」にかかっています。

  努力なしでは神様もお願いごとを聞いてくださらないでしょう。


 
E手を下ろし、最初と同じように、直立の姿勢から90度に腰を折り、1回、頭を下げます。



 式内社

延長5年(927)、平安時代醍醐天皇は、全国の神社の格付けを行い、その神社名と、神社の格を、延喜式神名帳と呼ばれる、帳簿に記載しました。

この、延喜式神名帳に記載された神社を式内社といいます。

また、延喜式神名帳に記載されなかった神社を式外社(しきげしゃ)といいます。


式内社は、官幣社と国幣社に区別されます。

官幣社とは、毎年2月の祈年祭に、各神社の祝部(はふりべ)が、神祇官から幣帛を受ける神社をいいます。

国幣社とは、毎年2月の祈年祭に、各神社の祝部(はふりべ)が、国司から幣帛を受ける神社をいいまする


次に、官幣社と国幣社は、その神社の重要度や社勢によって、大社と小社に分けられました。

以上のことから、式内社は官幣大社、官幣小社、国幣大社国幣小社、の4つに分類されます。


さらに、式内社の中には、臨時的・突発的に国家的な異常事態が発生したり、またはその発生が予想されるときに、その解決を祈願するためのお祈りをする神社がありました。

この神社のことを、名神大社といいます。

名神大社は、古来から、霊験が著しいとされる神がいる神社に限定されています。

壱岐には、名神大社が6、大社が1、小社が17、計24社ありました。

壱岐の名神大社には、兵主神社、月読神社、住吉神社、中津神社、天手長男神社、天手長比賣神社がありました。

壱岐の大社は、海(かい)神社だけです。

残りの、17社が、小社ということになります。

ちなみに、対馬には、式内社が29社ありました。

壱岐は、小さな島なのに、式内社が多い理由は、2つあります。

1つは、壱岐には、壱岐氏という占いをする豪族がおり、当時は、全てのことについて、最後は、占いで決めていたので、占いができる人は、重要であったことが、あげられます。

2つは、
壱岐は、辺地な所ですが、国境に近く、敵の侵略も多いので、国防をしっかりとする必要があったからです。

名神大社が6社もあったことは、いかに、敵の攻撃から守ることを、重要視していたかが、分かります。




 延宝の式内社改め

壱岐の神社を語るときには、避けて通れないことがあります。

延宝4(1676)、平戸藩主松浦鎮信は、平戸の国学者橘三喜に、平安時代にあった、式内社を調査して、明らかにするように、命じました。

しかし、750年前のことです。

完全な形で残っている式内社もあれば、なくなってしまって、石祠さえも、残っていない神社もあります。

この、雲をつかむような調査に、橘三喜は、頭を悩ましたことは、想像されます。

そこで、三喜は、なくなってしまっている式内社については、その式内社があったと思われる地名や古老の話しから、式内社を確定しました。

たとえば、周辺に、「あざみ畑」があったので、「阿多彌神社」とした、などです。

そのことから、多くの誤りがあったと、されています。

松浦鎮信は、三喜の査定にしたがって、鳥居の石額と御神体の木鏡を寄進し、その祭祀の復興につとめました。

社殿のないものには、石祠を献じて、これに社名を記しました。








 明治の神社改革

明治維新後、延喜式にならって、新たに神社の格付けが行われました。

神社の格付けは、次の通りです。

祈年祭・新嘗祭に国や皇室から幣帛を受ける神社を官社といいます。

官社には、官幣社と国幣社があります。

官弊社に対しては、皇室(宮内省)から幣帛が渡され、国幣社に対しては、国から、幣帛が渡されました。


さらに、官弊社と国幣社を、それぞれに大・中・小に格付けします。

これにより、官弊社は、官幣大社、官幣中社、官幣小社に分けます。

同じように、国幣社は、国幣大社国幣中社
国幣小社に分けます。

伊勢神宮は、最尊貴の神社として、社格制度の対象外とされました。

官弊社は、朝廷に関係している神社です。

これに対して、国幣社は、各国の一宮が中心です。


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